九州平定秀吉が島津を下して九州を支配下に

九州平定

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事件簿
事件名
九州平定(1586年〜1587年)
場所
鹿児島県・宮崎県・福岡県・大分県・長崎県
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織田信長の後を継ぎ、天下統一を進める豊臣秀吉。最大のライバル・徳川家康を天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを契機に臣従させ、天正13年(1585年)に長曾我部元親を下して四国を平定した秀吉が次に目を向けたのが九州でした。こうして天正14年(1586年)7月から翌天正15年(1587年)4月まで、豊臣連合軍と島津家が争う「九州平定(九州征伐、島津征伐とも)」が起こるのです。今回はそんな九州平定について分かりやすく解説していきます。

九州平定が起こった理由は?

戦国時代、九州は各武将が領土をめぐって戦い続ける激戦地でしたが、戦国時代後期には豊後(現大分県中南部)の大友氏、肥前(佐賀県)の龍造寺氏、薩摩(鹿児島県)の島津氏の3強が覇権を争っていました。そんななか、島津氏が次々と武将たちを下して領土を拡大。天正12年(1584年)3月には島原半島で起こった「沖田畷の戦い」で龍造寺氏の要の人物・龍造寺隆信を討ち取っており、これにより龍造寺氏は衰退。天正13年(1585年)時点では、島津義久率いる島津氏は中九州・南九州をほぼ手中に収めていました。島津氏は「残すは大友氏」と言わんばかりに、九州統一をめざして北上。大友氏が支配していた築後(福岡県南部)を支配下に収め、統一ほぼ目前のところまで突き進んでいたのです。

これに困ったのが大友氏の当主・大友宗麟。もはや単体で島津氏の勢いを止めることができないと判断し、豊臣秀吉を頼ることを決意します。宗麟は大坂城の秀吉の下を訪れ、秀吉の傘下に入ることと引き換えに支援を願いました。これに対し、秀吉は天正13年(1585年)10月、島津氏と大友氏に停戦を命じます。同年7月に関白に就任していた秀吉は、朝廷の権威を利用して九州での戦を止めようとしたのです。

大友宗麟はもちろん従いますが、戦の上で優位にあった島津義久は命令に従いません。秀吉に「大友氏が攻めてきたから攻め返したまで」と弁明し、天正14年(1586年)1月には「一兵卒からの成り上がり者である秀吉に、源頼朝から続く歴史と伝統の島津が従う義理はない」と命令を拒否。これに対し秀吉は島津氏に大友氏から奪った領地を返す旨を記した国分案を提示しますが、こちらも島津側は拒否。大友氏への攻撃を再開して九州統一に向けて動き出しました。天正14年(1586年)6月には島津義久自ら筑前(福岡県)に侵攻し、大友氏側の城を次々と攻め落としています。

このため秀吉は「停戦命令に背いた」という名目のもと島津氏の討伐を決定。毛利輝元や吉川元春、小早川隆景ら毛利勢と、土佐国(高知県)の長曾我部元親・信親親子や讃岐国(香川県)の仙石秀久をはじめとした四国勢を九州に派遣することを決定しました。こうして8月には先導役の毛利輝元ら毛利勢が、9月には四国勢が九州に到着しました。

九州平定①豊前・豊後の戦い

天正14年(1586年)8月、豊臣秀吉の命を受けた毛利勢の先遣隊は島津方の小倉城(福岡県北九州市)の攻略に乗り出します。ところが島津方の伏兵や秋月種実の攻撃により断念。これが豊臣軍と島津軍の最初の戦いでした。

その後、長曾我部元親ら四国勢と合流した毛利勢は豊前国(福岡県東部から大分県北部)の花尾城などいくつかの城を落とします。10月には毛利輝元が黒田官兵衛、小早川隆景、吉川元春とともに九州に到着。小倉城を攻撃して落としたほか、馬ヶ岳城(福岡県行橋市)などを支配下に置きました。

豊前で活躍する豊臣軍を見た島津義久は、豊後の大友宗麟を直接叩こうと考えます。10月下旬には弟の島津義弘が3万の大軍とともに肥後路(熊本県)経由で、同じく弟の島津家久率が1万の兵と日向路(宮崎県)経由で豊後へ攻め登ります。岡城(大分県竹田市)など一部抵抗はありましたが、島津軍は大友方の城を順調に落としていきました。こうして豊前は豊臣軍がおさえたものの、豊後は島津軍の勢力範囲に入ることになりました。

12月12日、豊後で豊臣軍と島津軍がぶつかる「戸次川の戦い」が起こります。九州平定の緒戦とされるこの戦いでは、島津家久が大友方の敦賀城(大分県大分市)を攻めました。それを知った長曾我部元親・信親と仙石秀久ら四国勢は城を救援すべく近くの戸次川に着陣。元親は援軍を待って島津軍を叩くよう進言しましたが、秀久が川を渡り島津軍を攻めることを強く主張し、結局夕方に出陣することになりました。

ところがこれを見越していた島津軍が先陣の仙石隊を奇襲。島津氏のお家芸、「釣り野伏せ」(囮部隊が真正面から敵と戦い、敗走するふりをして敵を釣り、左右に潜んでいた別動隊が敵をたたく)がばっちり決まり、仙石隊は大打撃を受けます。第2軍の長曾我部信親らも必死に抵抗しますが結局総崩れに。ここで信親は討ち取られ、四国勢も3分の1にあたる約2000人が戦死。敦賀城も落城しました。長曾我部元親は逃げ延びましたが、豊臣軍は島津軍に大敗しました。なお、この失敗で仙石秀久は讃岐国を改易され、高野山に追放されましたが、その後小田原征伐で活躍したことで家臣に復帰しています。

翌12月13日、島津軍は大友宗麟の守る丹生島城(大分県臼杵市)の城攻めを開始。しかし、宗麟はポルトガル人宣教師から入手した大砲「フランキ砲」などを活用して島津軍を撃退しました。ポルトガルと関係の深いキリシタン大名の宗麟だからこその備えだったといえるかもしれません。その後、島津軍は杵築城(大分県杵築市)攻めなどを行いますが結局敗北。それぞれ豊後や日向国の自城で年を越すことになります。

九州平定②秀吉が出陣、部隊編制は?

九州で戦が起こるなか、豊臣秀吉は天正14年(1586年)12月1日、翌年3月に九州に自ら出陣することを諸将に知らせ、大阪に兵を集めるよう命じます。さらに石田三成、大谷吉継、長束正家を兵糧奉行に任命して兵站を担当させます。

そして天正15年(1587年)元旦、秀吉は祝賀式で九州平定の部隊編制を発表しました。総勢20万の軍勢を肥後方面軍と日向方面軍の2軍に分け、肥後方面軍は秀吉自身が総大将につき、日向方面軍は弟の豊臣秀長を総大将に据えました。主な部隊編制は以下の通りです。

肥後方面軍(西九州の筑前・肥後経由で薩摩へ)
総大将:豊臣秀吉
一番隊:毛利吉成・高橋元種・城井朝房
二番隊:前野長康・赤松広英・明石則実・別所重宗
三番隊:中川秀政・福島正則・高山長房
四番隊:細川忠興・岡本良勝
五番隊:丹羽長重・生駒親正
六番隊:池田輝政・林為忠・稲葉貞通
七番隊:長谷川秀一・青山忠元・木村重茲・太田一吉
八番隊:堀秀政・村上義明
九番隊:蒲生氏郷
十番隊:前田利家
十一番隊:豊臣秀勝
日向方面軍(東九州の豊後・日向経由で薩摩へ)
総大将:豊臣秀長
一番隊:黒田官兵衛・蜂須賀家政
二番隊:小早川隆景・吉川元長
三番隊:毛利輝元
四番隊:宇喜田秀家・宮部継潤・因幡衆
五番隊:小早川秀秋
このほか番外として筒井定次・溝口秀勝・森忠政・大友義統・脇坂安治・加藤嘉明・九鬼嘉隆・長曾我部元親

九州平定③益富城の「一夜城」

部隊編制に従い、天正15年(1587年)1月25日、まずは宇喜多秀家が出陣。その後、2月10日に豊臣秀長、3月1日には豊臣秀吉が出陣しました。3月上旬には秀長は小倉に到着しましたが、すぐに島津氏を攻めず、高野山の僧侶を介して講和を呼び掛けます。しかし島津義弘はこれを拒否。北九州を放棄して豊臣軍の追撃を逃れ、日向、大隅(鹿児島県東部)、薩摩で守りを固めて軍勢を待ち受けます。3月20日には日向国の都於郡城(宮崎県西都市都於郡)で島津義家久、義久、義弘の3名で軍議を行っています。

一方、秀吉率いる約10万の肥後方面軍は3月29日に小倉城(福岡県北九州市)に到着し、4月1日には秋月種実の支城・岩石城(福岡県田川郡)を激戦の末落としました。種実は当時益富城(福岡県嘉麻市)にいましたが、城を破却して古処山城(福岡県朝倉市)に立てこもりました。

ところが秀吉は一夜のうちに益富城を修繕。いわゆる「一夜城」を作ったことで秋月種実は戦意を失い、4月3日に剃髪の上秀吉に降伏しました。なお、この一夜城は秀吉のトリック。白い紙を貼って白壁に、民家の戸板に墨を塗って腰板のように見せかけたそうで、遠くから眺めていた秋月種実はそうとは知らず驚いたというわけです。

開戦からわずか3日で秋月種実が秀吉に下ったことは、周囲の豪族たちを驚かせました。その後、秀吉は4月10日に筑後に、4月16日には隈本(熊本県熊本市)、19日には八代(熊本県八代市)まで到達。秀吉の力を見せつけられた地元の豪族たちは次々と秀吉に帰属していきました。例えば島原方面では有馬晴信が豊臣軍に味方。このほか、家臣が以前から秀吉と内通していた龍造寺氏も豊臣軍に加わっています。

九州平定④「根白坂の戦い」で豊臣軍が勝利

一方、豊臣秀長率いる約8万の日向方面軍は3月29日に日向松尾城(宮崎県延岡市松山町)を落城。4月6日には島津氏にとって要衝の高城(宮崎県児湯郡木城町)を包囲し、兵糧攻めを開始します。さらに島津軍の援軍を見据え、迎撃のために近くの根白坂に砦を立てました。

島津軍は徳川軍の狙い通り、山田有信ら約1500人が立てこもる高城に援軍を送り、拠点を取り戻そうとします。4月17日、島津義久・義弘・家久は3万5000の軍勢と共に高城に向かって出発。夜には豊臣軍が根白坂に築いた砦を急襲しました。砦には宮部継潤をはじめとした1万の兵が詰めており、空堀や板塀などを使って砦を堅守。島津軍はなかなか砦を突破できず、両者膠着状態に陥りました。

そこに秀長のいる本隊から藤堂高虎率いる500名と宇喜多秀家の部下が救援に駆けつけて島津軍を翻弄します。加えて小早川隆景、黒田官兵衛らの軍が迎撃を実施。総勢8万(※諸説あり)の豊臣軍に健闘する島津軍でしたが、大将格の島津忠隣をはじめ、ほぼ全員が討ち死し、大敗という結果に。島津義久・義弘は日向国の都於郡城に、家久は佐土原城(宮城県佐土原町)になんとか退却しています。

その後、豊臣軍は都於郡城を攻略し、岩牟礼城(宮崎県小林市)まで侵攻。島津義弘は飯野城(宮崎県えびの市飯野)まで逃げ延び籠城しました。

そして4月21日、島津義久は豊臣秀長に家老を人質として差し出し、和睦を申し入れました。26日には高城を差し出しており、4月29日には城を懸命に守っていた山田有信も城を明け渡しています。

九州平定⑤薩摩での最後の戦い

敗戦色が濃厚になってきた島津軍と豊臣軍の最後の戦いが「薩摩の戦い」です。秀吉率いる肥後方面軍は素早く進軍し、4月27日には薩摩国内に侵入しています。秀吉の勢いに恐れをなし、出水城(鹿児島県出水市)の島津忠辰や宮之城(鹿児島県薩摩郡さつま町)の島津忠長などが戦わずして降伏。さらに豊臣軍の小西行長、脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明などは海路で進み、4月25日には川内(鹿児島県薩摩川内市)に入っていました。豊臣軍の進軍速度は島津軍の想定以上のものでした。実は、秀吉は九州平定の際に本願寺顕如を同行させており、地元の一向宗門徒たちの協力があって早く進軍できたのです。

そして4月28日、小西行長たちは平佐城(鹿児島県薩摩川内市)を攻めます。平佐城主・桂忠詮らの強硬な抵抗により双方に被害が出ましたが、夕方には桂忠詮のもとに島津義久から降伏するよう命じる書状が届けられ、翌29日、忠詮は脇坂安治の陣に降伏を伝えています。

5月3日、豊臣秀吉は平佐城付近の泰平寺に本陣を移しており、8日には本陣に雪窓院(鹿児島県日置市)で出家した島津義久が訪れて正式に降伏の意を示しています。出家した義久を秀吉は許し、処刑することなく放免しました。なお、この時点ではまだ島津義弘や島津歳久などが豊臣軍に抵抗し続けていましたが、5月22日、義弘は義久の説得を受けて息子を人質として差し出して降伏しました。

九州平定⑥講和後の分国令とバテレン追放令

こうして半年以上続いた九州平定は終了しました。豊臣秀吉は軍を率いて筑前筥崎(福岡県福岡市東区箱崎)まで戻り、筥崎八幡宮で九州の領土配分を決める「九州国分令」を発します。国分の結果、島津氏は大友氏との戦で新たに獲得した地域はほとんど没収されましたが、薩摩と大隅、日向の諸県郡が安堵されるというまずまずの結果を得ました。

なお、大隅については嫡男を失った長曾我部元親に対して与えられる予定でしたが、元親は固辞。日向国については大友宗麟が得る計画もありましたが、宗麟は固辞し、その後5月23日に死亡。このため、息子の大友義統が豊後一国と豊前の宇佐半郡を安堵されています。

豊臣家に味方をした諸大名については、佐々成政が肥後国、小早川隆景が筑前・筑後肥前1郡の約37万石、黒田官兵衛が豊前6郡の約12万石、森吉成が豊前企救郡・田川郡の約6万石、大友義統の家臣、立花宗茂が筑後柳川の13万2000石、毛利勝信が豊前小倉約6万石をそれぞれ与えられました。

秀吉が箱崎で出したもう一つの法令。それがキリスト教を規制する「バテレン追放令」です。秀吉は九州平定後、肥前長崎港(長崎県長崎市)を視察し、キリスト教勢力の進出状況を見て危機感を募らせます。九州はキリスト教徒が勢力を拡大しており、キリシタン大名たちが長崎などの土地をイエズス会に寄進していました。加えて、キリスト教徒が日本人を奴隷として海外に輸出していたこともあり、ポルトガルやスペインなどのキリスト教国の侵略を恐れた秀吉は、天正15年(1587年)6月19日に「バテレン追放令」を発令。キリスト教徒の信仰は容認するものの、宣教師たちの布教を禁じて国外退去を命じています。

ただし、南蛮貿易は許容したため、南蛮貿易商人でもあった宣教師たちは国内に居直ります。バテレン追放令はそこまで強いものではありませんでしたが、江戸時代のキリスト教弾圧に続く芽がこのとき芽生えたのです。

関係する人物
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。