大友宗麟(1/2)大友氏で最も名を残した武将

大友宗麟

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人物記
名前
大友宗麟(1530年〜1587年)
出生地
大分県
関連する城
臼杵城

臼杵城

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日本各地で覇権争いが繰り広げられた戦国時代、九州地方でも有力な武将が台頭して争っていました。その中でも、島津氏と並ぶ由緒ある武士の家柄が大友氏です。大友義鎮(この記事では宗麟と表記)の時代に有能な家臣に助けられて最も勢力を拡大し、明との貿易やキリシタン大名としても名を馳せました。宗麟が豊後国を拠点に激動の時代をどう生き抜いたのか、今回はその生涯を紹介します。

大友氏の歴史

鎌倉時代、初代当主である大友能直の時代に大友家は豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に輔任されました。しかし、能直と第2代当主・親秀の時代には豊後に下向したという記録はありません。

九州に下ったのは能直の宰臣の古庄重吉(古庄重能)とされており、能直や親秀の庶子家もこの頃に豊後で土着したとされています。大友氏が豊後守護に補任されたのは、かつては平家の基盤であり、平家の家人だった武家の多い九州に対する源頼朝の東国御家人による抑えの役割のためでした。

第3代当主・頼泰の代に豊後に下向しましたが、文永の役を前にした異国警固のためだといわれています。頼康は元寇における戦いで武功を挙げて活躍、大友氏興隆の基礎を築き上げました。以後、大友氏は分家とともに豊後に定着し、一族庶子を在地豪族の養子として所領を収奪し、勢力を拡大していきます。

鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始されますが、後醍醐の新政から足利尊氏が離反。尊氏は摂津地域の戦いで敗れ、九州に逃れてきます。尊氏を迎えたのは少弐氏で、多々良浜の戦いで宮方の菊池氏に勝利しますが、大友氏も足利方に与しています。

足利氏は九州統治のために一色範氏を九州探題として残して上京、京都を占領して室町幕府を樹立します。
なお、九州では南朝勢力が強大化していたため、第9代当主の大友氏継は御家存続のために南朝に与するも、家督を弟の大友親世に譲って第10代当主となし、北朝方に味方させます。大内氏は応永の乱で一時没落するが、室町時代から戦国時代まで大友、大内、少弐の抗争は続くことになりました。

永享3年(1431)に第12代当主・持直は大内盛見を討ち、九州の権益をなおも確保。しかし、大内持世の反撃を受け、さらに親直と敵対する親綱が持世に与して反抗したため、大友家の内紛が深まります。大友親綱は京都の将軍足利義教により肥後から呼ばれて大友家当主となりました。この内紛は、文安元年(1444)に親世系の親隆の娘を娶り、その娘が産んだ男子を次期当主にするという条件で氏継系の親繁が第15代になったことにより収まります。

しかし、親繁の死後、第16代当主の政親と第17代当主の義右が対立して内紛を起こし、一時的に大友家は衰退。明応5年(1496)5月には大友政親が実子の大友義右を毒殺し、6月には政親が大内義興により自害に追い込まれて大友家は滅亡の危機に立たされます。

政親の異母弟・親治(母は親世系大友親隆の娘ではない)が実力で内紛を鎮め、第19代当主の義長を補佐し肥後に進出を果たすなどして戦国大名へと飛躍していきました。
第20代当主・義鑑のときには肥後や筑後に進出する。しかし天文19年(1550)の二階崩れの変で、義鑑は重臣の津久見美作・田口鑑親によって殺されてしまいます。
その跡を継いだのが、第21代当主・大友宗麟となります。

誕生から家督相続後の活躍

享禄3年(1530)1月3日、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれました。傅役は重臣の入田親誠、幼名は塩法師丸。
天文9年(1540)2月3日、塩法師丸は元服し、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から一字拝領して、義鎮と名乗ります。

義鎮20歳の頃、父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ることを画策、傅役の入田親誠らと共に義鎮の廃嫡を計画。天文19年(1550)2月、義鎮を強制的に別府浜脇に湯治に行かせ、その間を利用して義鎮派(田口鑑親(蔵人佐)、津久見美作や齋藤長実、小佐井大和守ら)の粛清が計画されたが、この動きを察知した義鎮派重臣が反撃。2月10日に塩市丸とその母は殺害され、義鑑も負傷して2月12日に死去(二階崩れの変)。
義鑑の遺言により義鎮が家督を相続、晴れて大友氏21代目の当主となります。同時に入田ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。

天文20年(1551)に周防国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反で自害すると、陶隆房の申し出を受けた義鎮は、実弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込みます。
これにより大友氏は、室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打ち、北九州における大内氏に服属する国人勢力が同時に大友氏にも服属することになります。
さらに周防・長門国方面にも影響力を確保していき、特に筑前博多の支配権を得たことは、大友氏に多大な利益をもたらしました。

弘治3年(1557)に連合で派遣した遣明船で、義鎮は倭寇禁制使の蔣洲を護送して勘合頒布を求め、義長は倭寇被虜人を送還するとともに大内氏所有の「日本国王」印を用いて貿易にいそしみます。
また、肥後国での復権を目論む叔父の菊池義武の蜂起を退け、菊池氏を滅亡させて肥後国も手中に。さらに少弐氏や肥前国人の竜造寺氏に勝利して、天文23年(1554)に肥前国の守護にも任じられました。
しかし父の死(二階崩れ)以降の大友氏家臣中には軋轢が残っており、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが、大友家臣団内の宗教対立に結び付きます。

天文22年(1553)に一萬田鑑相[注釈 4]と宗像鑑久兄弟と服部右京亮、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)、義鎮の治世は当初から苦難の多いものでした。

弘治3年(1557)、実弟の大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると、大友氏は長門周防方面への影響力を失います。長門周防の旧大内氏領土を併呑した毛利氏が北九州に進出してくると義鎮はこれと対立し、毛利氏と内通した筑前国の秋月文種を滅ぼし、毛利氏を追い、北九州における旧大内領を確保することに成功しています。
この頃、義鎮は本拠地を豊後府内の大友館から丹生島城(臼杵城)に移しました。

壮年期から晩年

元亀元年(1570)、再度肥前国に侵攻するも龍造寺隆信に今山の戦いで敗れ、弟の親貞が戦死しました。その後肥前国や筑後国の反龍造寺勢力を扇動し支援することで対抗しましたが、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできません。 元亀4年(1574)、京都では織田信長が将軍足利義昭との抗争に勝利し権力を確立。義昭は京を追放され、天正4年(1576)に山陽地方に下り毛利氏の庇護を受けることになります。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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