国分城鹿児島県霧島市

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  • 島津義久が晩年を過ごした館造りの城
  • 舞鶴城・国分新城とも呼ばれる島津氏ゆかりの城
  • 現在は国分小学校周辺に石垣・堀・石橋・朱門が残る

国分城とは、鹿児島県霧島市国分中央にあった江戸時代初期の城である。舞鶴城、国分新城、国分御屋形とも呼ばれ、島津氏第16代当主・島津義久が晩年を過ごした居館として知られる。慶長9年(1604)、義久は富隈城から国分へ移り、館造りの城と城下町を整えた。城は天守を持つ近世城郭ではなく、日常生活と政務の場としての御屋形を中心とする構造だった。現在、城跡の中心部は国分小学校・国分高校周辺となっており、南側道路沿いに石垣、堀、石橋、朱門などが残る。

国分城の特長
目的 島津義久の居館、国分地域の政治・経済・文化の中心、城下町形成の拠点
特長 島津義久、島津亀寿、舞鶴城、国分新城、国分御屋形、館造り、石垣、堀、石橋、朱門、国分城下町
他の城との違い ・島津義久が晩年を過ごした館造りの城である
・天守や高石垣を見せる城ではなく、居館と城下町を中心に整えられた城である
・現在は学校敷地周辺に石垣・堀・石橋・朱門が残り、往時の面影をわずかに伝えている
国分城の石垣・土塁
石垣 一部現存
土塁 一部痕跡あり
種類 石垣、堀、石橋、館造り、居館、平城
石材 自然石、火山由来の石材など
特長 国分城は、天守を備えた城ではなく、島津義久の生活と政務のために築かれた館造りの城である。霧島市の文化財情報では、「国分諸古記」による城の規模を89間四方、その中の約50間四方が石垣に囲まれていたと説明している。現在は、国分小学校南側の道路に面して高さ約3メートル、長さ約200メートルの石垣と、その前の堀、2つの石橋が残る。城郭ページでは、高石垣や天守ではなく、石垣・堀・石橋・朱門を通して、島津義久晩年の御屋形として見るのが自然である。
国分城DATA
別称 舞鶴城、国分新城、国分御屋形
所在地 鹿児島県霧島市
築城 1604年
築城者 島津義久
住所 鹿児島県霧島市国分中央二丁目5-1周辺
電話番号 0995-45-5111
開館時間 城跡周辺は見学自由。ただし国分小学校・国分高校の敷地内には無断で立ち入らない
休館日 なし
入館料 無料
備考 国分城跡は、現在の国分小学校・国分高校周辺にあった。南側道路沿いに石垣、堀、石橋、城址碑、説明板などが残る。朱門は舞鶴城内にあったと考えられており、昭和51年(1976)に市指定有形文化財となった。昭和50年に修復され、城跡石垣前に復元された後、平成18年(2006)に国分小学校のグラウンドへ移設された。JR国分駅から徒歩約15分、鹿児島空港から車で約25分。
国分城への交通アクセス
JR「国分」駅 徒歩約15分

HISTORY 国分城について

国分城の歴史
1595年 豊臣秀吉の命による国替えにより、島津義久の領地が薩摩国から大隅国へ移される
1595年頃 島津義久が鹿児島から隼人の富隈城へ移る
1604年 島津義久が国分に舞鶴城、国分新城を築き、富隈城から移り住む
1604年以降 舞鶴城の築城とともに、碁盤の目のような整然とした城下町が整備される
1604年~1611年 島津義久が舞鶴城を居城として晩年を過ごす
1611年 島津義久が舞鶴城で死去する
1611年以降 島津義久の遺言により、娘の島津亀寿が舞鶴城に住んだと伝わる
1630年 島津亀寿が舞鶴城で死去したと伝わる
江戸時代 国分の町は、舞鶴城と城下町を基軸に、政治・経済・文化の中心として発展する
1976年 朱門が市指定有形文化財となる
2006年 朱門が国分小学校のグラウンドへ移設される

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九州平定秀吉が島津を下して九州を支配下に
九州平定とは 天正14年(1586年)7月から天正15年(1587年)4月にかけて、豊臣秀吉の連合軍と島津家が争った戦いである。 九州征伐、島津征伐とも呼ばれ、豊臣秀吉が島津氏を下して九州を支配下に置

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島津義久三州の総大将
島津義久とは 天文2年(1533年)に島津貴久の嫡男として伊作城に生まれた、薩摩国の戦国大名である。 幼名は虎寿丸で、元服後は又三郎を名乗り、室町幕府13代将軍・足利義輝から偏諱を受けて義辰、のち義久

国分城を居城とする、薩摩藩の歴史

薩摩藩維新の立役者
薩摩藩とは 薩摩藩は、1601年から1871年まで島津氏によって江戸時代を通して治められた藩である。 関ヶ原の戦い後に島津氏が全所領安堵を認められ、徳川家康に従って幕藩体制に組み込まれたことで成立した
薩摩藩DATA
藩庁 鹿児島城
旧地域 薩摩国鹿児島郡城山麓
石高 56万9000石
譜代・外様 外様
主な藩主 島津家
推定人口 62万2365人(嘉永5年)