小倉城福岡県北九州市

小倉城DATA
別称 勝山城、指月城
築城 1569年
住所 福岡県北九州市小倉北区城内2-1
電話番号 093-561-1210
開館時間 9:00〜18:00(4月〜10月)、9:00〜17:00(11月〜3月)
入館は30分前まで
休館日 年中無休
登閣料 大人350円/中高生200円/小学生100円

小倉城への交通アクセス

JR「小倉」駅 徒歩15分

小倉城について

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九州平定秀吉が島津を下して九州を支配下に
織田信長の後を継ぎ、天下統一を進める豊臣秀吉。最大のライバル・徳川家康を天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを契機に臣従させ、天正13年(1585年)に長曾我部元親を下して四国を平定した秀吉が次に目を向けたのが九州でした。こうして天正14年(1586年)7月から翌天正15年(1587年)4月まで、豊臣連合軍と島津家が争う「九州平定(九州征伐、島津征伐

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細川忠利ガラシャの息子
戦国時代、織田信長を本能寺の変で自害に追い込んだのが明智光秀でした。光秀には玉(ガラシャ)という娘がいます。玉は細川忠興の妻となり、二人の間には幾人かの子供が出来ました。ところが玉も関ヶ原の戦いの直前に、自害に追い込まれます。そんな明智光秀を祖父に、玉を母に持ったのが細川忠利でした。忠利は細川家の家督を継ぎ熊本を領します。今回は細川忠利について見ていきます。
細川忠興秀吉子飼いの七将
戦いに明け暮れた戦国時代、そんな荒れた時代にも文化の華は大きく咲きました。茶の湯や連歌です。戦国の世で文化を育みながら、室町幕府から織田・豊臣・徳川に仕えた大名が細川忠興です。忠興は細川藤孝の子として生まれ、父の盟友だった明智光秀の娘玉子(ガラシャ)を娶りました。そのような環境の中で忠興は、熊本の大大名にまで上り詰めたのです。今回は、細川忠興を見ていきます。

小倉城を藩庁とする、小倉藩の歴史

小笠原家の家紋「三階菱」

小倉藩DATA
藩庁 小倉城
旧地域 豊前国
石高 15万石
譜代・外様 外様・譜代
主な藩主 細川家、小笠原家
推定人口 24万人(明治元年)