府内城大分県大分市

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  • 福原直高が築城を始め、竹中重利が完成させた府内藩の城
  • 海と大分川河口を取り込んだ水辺の平城
  • 宗門櫓・人質櫓・石垣・堀・復元廊下橋が残る日本100名城

府内城とは、大分県大分市荷揚町にある江戸時代初期の城跡である。慶長2年(1597)、福原直高によって築城が始められ、関ヶ原の戦い後に府内へ入った竹中重利の時代に本丸・二ノ丸・三ノ丸が完成した。城の北側は海に面し、東側には大分川河口が広がる低地に築かれ、水を防御に取り込んだ平城であった。江戸時代には竹中氏、日根野氏、松平氏などが城主となり、府内藩の政庁として機能した。現在は大分城址公園として整備され、宗門櫓、人質櫓、天守台、石垣、堀、復元大手門、復元廊下橋などが往時の姿を伝えている。

府内城の特長
目的 府内藩の政庁、豊後府内の支配拠点、海上交通・大分川河口部の監視、城下町形成の中心
特長 福原直高、竹中重利、日根野氏、松平氏、宗門櫓、人質櫓、天守台、石垣、堀、廊下橋、大分城址公園、日本100名城
他の城との違い ・北側を海、東側を大分川河口に面した水辺の平城である
・現存する宗門櫓と人質櫓が、江戸時代後期の府内城の姿を伝えている
・大友氏の府内支配の後に築かれた近世城郭で、豊後府内の都市構造の変化を考えるうえで重要である
府内城の石垣・土塁
石垣 現存・復元整備
土塁 一部痕跡あり
種類 石垣、天守台、櫓台、水堀、廊下橋、帯曲輪、平城、水城
石材 自然石、割石など
特長 府内城は、高低差の少ない低地に築かれた平城で、石垣と堀によって防御された。大分市公式では、大きく三つの郭と四重の堀から構成されていたと説明されている。現在は二之丸と三之丸を区切る堀が残り、天守台、櫓台、宗門櫓、人質櫓、復元大手門、復元廊下橋をあわせて見学できる。現在、桜並木がある歩道は帯曲輪の場所で、江戸時代の石垣が歩道の両側に残ると案内されている。府内城では、天守ではなく、石垣・堀・櫓・廊下橋を通して水辺の平城としての構造を見るのが自然である。
府内城DATA
別称 大分城、荷揚城、白雉城
所在地 大分県大分市
築城 1597年着工、1602年完成
築城者 福原直高。完成は竹中重利
住所 大分県大分市荷揚町4
開館時間 府内城跡・大分城址公園は見学自由。廊下橋の見学は8時~18時頃まで
休館日 なし
入館料 無料
備考 府内城跡は県指定史跡・市指定史跡で、日本100名城にも選定されている。宗門櫓と人質櫓は現存建物で、県指定文化財である。大手門、廊下橋、土塀、櫓などは復元建物である。日本100名城スタンプは大手門に設置され、24時間押印可能と案内されている。JR大分駅から徒歩約15分。観光のみの場合は周辺駐車場の利用が案内されている。
府内城への交通アクセス
JR「大分」駅 徒歩約15分

HISTORY 大分川の河口に建てられた府内城

府内城は、大分県大分市に建てられていた平城です。現在は大分市の中心部に位置していますが、築城当時は大分川の河口でした。戦国時代末期に建築され、江戸時代は府内藩の藩庁として機能しました。大分城・荷揚城・白雉城といった別名を持ちます。 そんな府内城の歴史を紐解いていきましょう。

府内城の歴史
1593年 大友氏が豊後国を除国され、豊後府内の支配体制が大きく変わる
1597年 福原直高が府内城の築城を始める
1600年 関ヶ原の戦い後、竹中重利が府内藩主となる
1602年 竹中重利により、本丸・二ノ丸・三ノ丸が完成したとされる
江戸時代初期 竹中氏が府内城の増築と城下町の整備を進める
江戸時代前期 竹中氏の後、日根野吉明が府内藩主となる
1656年 日根野吉明の死後、松平忠昭が府内へ入る
江戸時代 松平氏が幕末まで府内藩を治め、府内城が藩政の中心となる
江戸時代 四層天守、20の櫓、7つの門、3か所の廊下橋を備える城として整えられる
明治時代 廃藩置県後、府内城内に大分県庁が置かれ、城郭建物の多くが失われる
明治末頃 三之丸外側と二之丸内側の堀が埋め立てられる
1945年 大分空襲により、大手門や櫓などが焼失する
1963年 府内城跡が県指定史跡・市指定史跡となり、宗門櫓・人質櫓などが文化財として保護される
2006年 日本100名城に選定される
豊臣秀吉の腹心によって建てられた城
府内城は、慶長2年(1597年)に福原長高という武将によって築城が開始されました。福原長高は豊臣秀吉の小姓頭として歴史に登場し、豊臣秀吉の側近の1人として文禄の役には肥前国名護屋城後の守備を務めたり、伏見城の普請に係わったりして出世をしていきます。 そして、石田三成の妹を正室にしたため、石田三成とは義理の兄弟に当たります。 府内城を築城した当時、福原長高はこれまでの領地に加えて豊後国大分郡、速見郡、玖珠郡の3郡を任せられ、12万石の大大名になっていました。 当時、大分は早川長政という人物が治めていましたが彼は杵築城という城に移り、福原長高が新たに大分に移封されたわけです。
福原長高が築城の場所として選んだのは、当時の大分川の河口、「荷落」と呼ばれる土地でした。 築城に伴い、荷落では縁起が悪いということで地名が「荷揚」に変えられています。 慶長4年(1599年)、望楼型の四重天守をはじめとする城の大半が完成しましたが、この年に福原長高は石田三成の失脚に巻きこまれ、府内城築城の過大な賦役などを理由に徳川家康によって改易されてしまいました。 なお、福原長高は翌年、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで西軍に味方し、敗北した後は出家した後で自害しています。
竹中重利による改築
福原長高が改易された後、府内城は一時期早川長政が呼び戻されて城代として入っていましたが、彼もまた関ヶ原の戦いで西軍に味方したため、城を取り上げられてしまいます。 その代わり、3万5千石で府内城に入城したのが竹中重利です。彼は、豊臣秀吉の参謀として有名な竹中重治(半兵衛)の甥か従兄弟にあたる人物でした。
竹中重利は、府内城の大改修に取り組み天守・人質櫓・宗門櫓・大手門などを増築し、現在の形にしたと伝えられています。 改修された府内城は北側には海があり、東側は大分川河口の湿地帯が広がっているという天然の要害でした。 竹中重利は城だけでなく大分の城下町も整備し、現在の大分市発展の基礎を築いたといわれています。 なお、府内城は完成した当時は本丸、二の丸、山里丸、北の丸が梯郭式に配置された九州でも指折りの大きな城でした。 しかし、火事や地震などの天災に多く見舞われ、その度に建物が焼失したり倒壊したりします。特に、寛保3年(1743年)の火災は規模が大きく、天守閣を含む城の大部分が焼失してしまいました。 そして、これ以後天守は再建すること無く明治維新を迎えました。
明治以降の府内城
江戸時代を通じて府内城は府内藩の藩庁として機能していましたが、明治を迎えると明治5年(1872年)に大分県庁が城の敷地内に築かれます。それに伴い、堀が埋め立てられたり建物の一部が壊されたりと府内城は徐々に往年の姿を失って行きました。 なお、明治10年(1882年)に西南戦争が勃発した際、熊本城を西郷隆盛が攻略していたとき、大分県庁もまた「中津隊」と呼ばれる西郷隆盛の賛同者によって攻撃をしかけられましたが、宗門櫓などの守りが堅く攻略は叶いませんでした。
昭和20年(1945年)、太平洋戦争末期に大分空襲が起こり、現存していた櫓や門の多くが焼失してしまいます。
昭和38年(1963年)には、城址が大分県の史跡に登録され、昭和40年(1965年)には、東丸着到櫓・二重櫓、西丸二重櫓、大手門が復元されました。
平成8年(1996年)には、西丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋が復元されます。
平成25年(2003年)には、西の丸跡地に建てられた大分文化会館が閉館、発掘調査や整備を行った後、最終的には天守復元の構想がありますが、経済的な問題などからまだ実現されていません。 その代わり、平成29年~平成31年まで断続的に鉄パイプで府内城の天守閣を再現し、LEDによるライトアップが行われました。 現在の府内城跡は、静かな公園となっており桜の名所としても有名です。車椅子マラソンなどの各種イベントも開かれています。

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府内城を藩庁とする、府内藩の歴史

府内藩天災に多く見舞われる
府内藩は現在の大分県大分市一帯を治めていた藩です。府内城を藩庁とし、3つの家が明治維新まで藩を治めていました。そんな府内藩の歴史を紐解いていきましょう。 竹中家と日根野家による支配 府内周辺は、慶長5
府内藩DATA
藩庁 府内城
旧地域 豊後国大分郡府内
石高 2万1000石
譜代・外様 外様・譜代
主な藩主 竹中家・日根野家・大給松平家
推定人口 3万3000人(明治元年)

府内城、大友氏の城下を受け継いだ海城

大分県大分市に位置する府内城(大分城)は、慶長2年(1597年)に福原直高が築城を開始した平城です。築城当時は川や海がすぐ側にあり、水に浮かぶ姿から「白雉城」とも呼ばれました。現在は周囲は埋め立てられましたが、石垣・堀や櫓などが残されており、跡地は「大分城址公園」として整備されました。日本100名城にも選ばれています。

府内城
府内城の歴史
府内は鎌倉時代から豊後国(大分県)に勢力を築いていた大友氏の拠点でした。戦国時代には大友宗麟の元で南蛮貿易で栄えましたが、宗麟はのちに臼杵城(丹生島城)に拠点を移しています。
その後、大友氏は天正14年(1586年)の島津侵攻の際、「耳川の戦い」で島津氏に大敗して徐々に衰退していきます。豊臣秀吉の傘下に入るも、文禄2年(1593年)に宗麟の嫡男で当主の大友義統が文禄の役で失態を犯し、改易されてしまいました。
慶長2年(1597年)、大友氏に代わり豊臣秀吉の家臣・福原直高が12万石で入り、大分川の河口付近に府内城の築城を開始します。直高は慶長4年(1599年)に府内城の本丸、二の丸、三の丸を完成させました。また、土地の名前を縁起を担いで「荷落」から「荷揚」に変更しました。
しかし、慶長の役でのもめ事を契機に直高は臼井藩に減封されてしまいます。代わって早川長政が府内城に入城しますが、関ヶ原の戦いで西軍に味方したため改易されました。
代わって3万5000石で入ったのが竹中重利で、慶長7年(1602年)から城を拡張します。四層の天守に諸櫓・門・武家屋敷・北西砦や外堀、内堀などを作り、慶長12年(1607年)に工事がおおむね終了しました。工事の際は加藤清正から石工を数十人派遣してもらったほか、大坂から大工、京都伏見から瓦職人を招きました。
また、この際城下町も整えられ、碁盤の目状に区画されました。町の北西側には水上交通を担う船着場が作られました。また、重利の時代には城の名前が「府内城」と変更されました。
その後、竹中重利は息子の重義に家督を譲りますが、重義が長崎奉行時代にした不正が発覚したことで切腹。次に日根野氏が入るも、跡取りがないため一台で終わりました。その後は城代のみの時代もありましたが、万治元年(1658年)、松平忠昭が府内城に入った後は、明治維新まで松平氏が府内藩を治めます。この間、寛保3年(1743年)に大火が発生し天守や櫓などの多くが消失。櫓は再建されましたが、天守は再建されることはありませんでした。
城は明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となり、建物のほとんどが撤去されましたが、石垣や堀、2つの櫓などが今も残っています。なお、昭和期に城跡は大分市民の公園として整備され、平成9年(1997年)に山里丸と西の丸を結ぶ廊下橋が復元されました。
府内城の見どころ①石垣と堀
府内城の石垣は野面積みや打ち込みハギ、切込みハギが混在しており、時代ごとの差を読み取ることができます。石は角閃石や安山岩が使われました。また、お堀沿いの水辺については犬走が設置されているのも特徴です。水堀は幾度となく曲がっており、海側の防備を固めていたことが分かります。
迫力満点なのがかつて4層の天守があった天守台の石垣で、野面積であることから築城初期の福原直高の時代のものだと考えられています。上に登ることができ、府内城跡が一望できます。
府内城の見どころ1 府内城の見どころ2 府内城の見どころ3
府内城の見どころ②現存する櫓
府内城のなかに残る江戸時代の建物は「人質櫓」「宗門櫓」の2つのみです。人質櫓は文久元年(1861年)、宗門櫓は安政6年(1859年)にそれぞれ再建されています。人質櫓は実際に人質を収容したのでは、という説もありますがよくわかっていません。宗門櫓は城の外から見ると平櫓に、城内から見ると二重櫓に見える珍しい櫓です。
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府内城の見どころ③帯曲輪
帯曲輪は本丸や二の丸等の主郭部を囲むように作られた帯状の曲輪で、主郭部の防衛に加え、人工の堤防の役割を果たしています。築城当時は帯曲輪の東側に大分川の河口が、北側に別府湾が迫っており、帯曲輪は川や海の水を押し切るために作られたのです。府内城が「海城」と呼ばれていた当時に思いをはせながら散策するのがおすすめです。
府内城の見どころ7 府内城の見どころ8 府内城の見どころ9
府内城のおすすめフォトスポット
おすすめは堀に映る石垣や櫓を撮影すること。堀端の遊歩道から高石垣を見上げるアングルも迫力があり、春は桜と櫓の組み合わせが絶好の撮影ポイントです。人質櫓を撮る場合は松栄神社側から撮影しましょう。このほか、天守台の上から現存・再建された櫓や門を撮影するのもおすすめです。
府内城の見どころ10 府内城の見どころ11 府内城の見どころ12
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。