フランシスコ・ザビエル(1/2)日本最初の宣教師

フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエル

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人物記
名前
フランシスコ・ザビエル(1506年〜1552年)
出生地
スペイン
関連する城

日本中が戦乱の世となった戦国時代。しかし戦国時代は同時に海外との接触を深めた時期でもありました。特に日本に影響力を及ぼしてきた中国などアジアの国々だけではなく、ヨーロッパと初めて接した時期でもあります。そして日本にキリスト教を布教すべく一人の宣教師が日本やってきました、ザビエルです。今回は日本最初の宣教師フランシスコ・ザビエルについて見ていきたいと思います。

生まれについて

フランシスコ・ザビエルは1506年4月、ナバラ王国(現在のスペイン、バスク地方にあった王国)にあるハビエル城で地方貴族の子(兄2人、姉2人を持つ末っ子)として生まれます。フランシスコ・ザビエルの姓フランシスコは生家の城がある街より由来。また、名のザビエルはスペイン語では「ハビエル」、日本の教会では「ザベリオ」と呼ばれていましたが、現在ではザビエルに統一されています。

ザビエルの父ドン・フアン・デ・ハッソはナバラ王ファン3世(ファンの妹シャルロットはチェザーレ・ボルジアと結婚したためファンはチェザーレの義兄にあたる)の宰相を務めていましたが、ザビエルが生まれた頃には老齢に差し掛かっていました。そしてザビエルが幼少の頃、ナバラ王国はフランスとスペインの紛争地帯になります。父のファンはこの紛争期間の間に逝去、家族は翻弄されました。

青年期

1525年、19歳になったザビエルはパリ大学に留学。聖バルバラ学院(パリ大学を構成するカレッジの1つ)に入り、自由学芸を修めます。更に哲学を学んでいる時にフランス出身のピエール・ファーブルと同室になりました。後にザビエルと同じバスク出身の傷病騎士だったイニゴ(イグナデオ・デ・ロヲラ)も加わります。同室の3人は深く語りあい同志となりました。哲学を学んでいたザビエルでしたがイニゴの影響を受け、聖職者を志す様になります。

イエズス会の創設

この時期、ザビエルの他にもイニゴに影響を受けた青年たちがいて、ザビエル、ファーブル、イニゴなど7人がモンマルトン聖堂に集まります。その7人の中で司祭であったファーブルによって神に生涯を捧げるという誓いを立て(モンマルトンの誓い)、イエズス会は創立されました。イエズス会は「エルサレムへの巡礼」や「清貧と貞操」などを創立目的としています。特に初代総長となったイニゴは騎士出身であることから軍隊的な厳しい会風を特徴とし、「神の軍隊」「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれました。

1537年、イエズス会の一行はイタリアに赴き、教皇から修道会の許可を得ようとします。ヴェネツィアにおいて教皇パウル3世は彼らの徳と学識を認め、既に司祭であったファーブルを除いた他の叙階を与え後に全員が司祭となりました。しかしローマ帝国とオスマン帝国との争いでエルサレムに渡れなかった一行はひとまずイタリア半島において宗教活動に専念します。

東洋へ

およそイタリアにおいて3年が経過した頃、イエズス会は世界各地への布教を考えていました。そんなイエズス会にポルトガルの王ジョアン3世がインドのゴアにイエズス会宣教師を派遣するよう要請します。この時選ばれたのが、赴任先が未定であったザビエルでした。

1540年3月、ローマを出発したザビエルその他の宣教師たちはポルトガル経由でインドへと向かいます。およそ2年かけヨーロッパからアフリカを周りインドへ辿り着きました。
インドへと赴いたザビエルの一行はそこから約5年の間、インド各地からマラッカなどの東南アジアを回って布教活動を行います。

1547年12月、マラッカにおいてザビエルは鹿児島出身の武士ヤジロウ(アンジロー)と出会います。ヤジロウは若い頃に人を殺め、マラッカに逃亡していました。ヤジロウは司祭であったザビエルに会いその罪を告白すべく来ました。話を聞いたザビエルはヤジロウの人柄を高く評価しゴアに連れて戻ると、ヤジロウは日本人として初めて洗礼を受けます。ザビエルはヤジロウの人となり、更にヤジロウの薦めもあり日本への渡航を行う事にしました。

日本へ

1549年4月。ザビエルはトーレス(神父)、フェルナンデス(修道士)、アマドールというインド人、マヌエルという中国人、ヤジロウなどとゴアを出発、日本へ向かいます。明の上川市(中国広東省江門市台山)を経由し薩摩半島の坊津に上陸、鹿児島市に入りました。9月には薩摩国守護大名島津貴久に謁見し宣教の許可を得ます。

この鹿児島での布教の時、後に日本人として初めてヨーロッパに留学しローマ法王にも謁見した「鹿児島のベルナルド」(日本名不明)にも会っています。ところが島津貴久は仏僧の進言を受け入れキリスト教を禁教としたため、ザビエル一行は鹿児島を後にしました。

長崎から京、そして山口へ

1550年(天文19)8月、鹿児島をあとにしたザビエルたちは肥前国平戸(長始崎県平戸)に入り布教を行います。ところが3ヶ月後には二手に分かれザビエルたちは京へ向かいます。途中周防国山口(山口県)に入ると守護大名大内義隆に謁見します。そこから海路に変え堺に上陸、1551年(天文20)1月、京へ辿り着きました。
ザビエルは全国での布教を認めて貰うため、ゴアの司教の親書を携え後奈良天皇や征夷大将軍足利義輝への謁見を求めます。ところが献上の品がなかった事や朝廷、幕府の権威低下により謁見は認められませんでした。京での布教を諦めたザビエルは再び山口を経て平戸へ戻ります。

平戸に戻ったザビエルは献上品を携えると来た道を引き返し、山口に入ります。そこで大内義隆に再謁見、ゴア司教の親書の他、望遠鏡などの献上品を献じると義隆は布教の許可を出しました。更に廃寺となっていた大道寺を住居兼教会として与えます(日本最初の教会)。
ここでザビエルは1日2度の布教を行い、信者を獲得していきました。

豊後へ、そして日本出国

山口において布教活動を行っていたザビエルは、豊後国府内(現在の大分県大分市)にポルトガル船が来た事を聞きつけ、山口での布教を仲間に託すと豊後へと赴きました。1551年9月ザビエルは豊後国守護大名、大友義鎮(大友宗麟)と対面し布教の許可を得ます。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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