中津城大分県中津市

春の中津城1 春の中津城2 春の中津城3 春の中津城4 春の中津城5 春の中津城6 春の中津城7
  • 黒田官兵衛が築城を始めた豊前の水城
  • 細川忠興・忠利父子が完成させた中津藩の城
  • 黒田氏時代と細川氏時代の石垣の違いが見られる城

中津城とは、大分県中津市二ノ丁にある江戸時代初期の城跡である。天正16年(1588)、豊臣秀吉から豊前六郡を与えられた黒田孝高、黒田官兵衛が築城を始めた。関ヶ原の戦い後、黒田氏に代わって細川忠興が豊前に入り、忠利が中津城の増改築を進めたことで、現在に近い城の形が整った。中津川の河口デルタに築かれ、北は周防灘、西は中津川、南と東は大家川を利用した水城で、日本三大水城のひとつに数えられることもある。現在は模擬天守が建ち、奥平家歴史資料館として公開されている。

中津城の特長
目的 豊前支配の拠点、中津藩の政庁、周防灘・中津川河口部の監視、城下町形成の中心
特長 黒田官兵衛、黒田孝高、細川忠興、細川忠利、奥平氏、水城、周防灘、中津川、石垣の継ぎ目、模擬天守、奥平家歴史資料館
他の城との違い ・黒田官兵衛が築城を始め、細川氏が完成させた水城である
・黒田氏時代と細川氏時代の石垣が接する「継ぎ目」を確認できる
・現在の天守は昭和39年(1964)に建てられた模擬天守で、史実上の天守を復元したものではない
中津城の石垣・土塁
石垣 現存
土塁 一部痕跡あり
種類 野面積、打込接、石垣、水堀、河口デルタの城、平城、水城
石材 花崗岩など
特長 中津城の石垣は、黒田氏時代と細川氏時代の石垣を見比べられる点が大きな特徴である。中津城北側には、黒田孝高が築いた本丸跡の石垣と、細川忠興の増築跡の石垣が接する場所があり、両者の違いがよく分かる。大分県の紹介では、黒田氏時代の石垣は本丸にふさわしい堅固な石垣で、細川氏時代の石垣は加工していない自然石を合理的に組んだものと説明されている。両時代の石垣には花崗岩が多く使われている。中津城では、模擬天守だけでなく、石垣の継ぎ目と水城としての立地を中心に見るのが自然である。
中津城DATA
別称 扇城、小犬丸城、丸山城
所在地 大分県中津市
築城 1588年着工。細川氏時代に増改築され、1620年頃に現在に近い形が整う
築城者 黒田孝高、黒田官兵衛。完成・整備は細川忠興・細川忠利
住所 大分県中津市二ノ丁本丸1273-2
電話番号 0979-22-3651
開館時間 9時~17時
休館日 年中無休。ただし臨時休館の場合あり
入館料 中学生以上1,000円、小学生以下無料。ドリンク付き
備考 現在の天守は昭和39年(1964)に旧藩主奥平家を中心に建てられた模擬天守で、史実上の天守を復元したものではない。天守内は奥平家歴史資料館として公開されている。中津城は黒田氏、細川氏、小笠原氏、奥平氏と城主が替わり、江戸時代後期から明治維新までは奥平氏の居城となった。令和7年(2025)以降、「日本唯一の花城」として運営方針が変わっているため、展示内容や入城料は最新情報の確認が望ましい。
中津城への交通アクセス
JR「中津」駅 徒歩約15分

HISTORY 二人の名高い戦国武将が築いた中津城

中津城(中津川城)は、現在の大分県中津市に築かれていた海城です。日本三大海城の1つに数えられており、黒田孝高(如水)と細川忠興という二人の名高い戦国武将によって築かれました。そんな中津城の歴史を紐解いていきましょう。

中津城の歴史
1587年 豊臣秀吉の九州平定後、黒田孝高、黒田官兵衛が豊前六郡を与えられる
1588年 黒田孝高が中津川河口部で中津城の築城を始める
安土桃山時代 黒田氏が中津城と城下町の基礎を整える
1600年 関ヶ原の戦い後、黒田氏が筑前へ移り、細川忠興が豊前に入る
1603年 細川忠利が中津城の増改築を進める
1615年 一国一城令により豊前国では小倉城以外の城が破却の危機にあったが、中津城は例外的に存続する
1620年 細川忠興が隠居して三斎と号し、中津城に入る。中津城は本丸・二の丸・三の丸、八門、二十二櫓を備える城として整えられる
1632年 細川氏が肥後熊本へ転封され、小笠原長次が中津へ入る
江戸時代前期 小笠原氏が城下町の整備を進める
1717年 奥平昌成が中津藩主となり、以後、奥平氏が明治維新まで中津を治める
1871年 廃藩置県により中津藩が廃止され、中津城は城としての役割を終える
明治時代 城郭建物の多くが失われ、堀の多くも埋め立てられる
1964年 現在の模擬天守が建てられ、奥平家歴史資料館として公開される
黒田孝高が築城を始める
中津城は、天正16年(1588年)に黒田孝高によって築城がはじまりました。黒田孝高は通称を黒田官兵衛ともいい、竹中半兵衛と並んで豊臣秀吉に知略をもって仕えました。 黒田孝高は天正15年(1587年)に豊臣秀吉に豊前国6郡12万3000石を与えられており、当初は豊前平野を見下ろす馬ヶ岳山頂にある、馬ヶ岳城に入っていました。
しかし、この城は戦いのための山城だったので、国を治めるには不向きです。 そこで、領地のほぼ中央にある山国川河口に新たに城を築くことにしたのです。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発し、黒田家は東軍に味方して黒田孝高の息子、長政が築城途中の中津城から西軍の所領を攻めました。 この功績で黒田家は筑前52万石に加増して、福岡県福岡市にあった「名島城」に移封となります。 その結果、中津城は築城が中断されてしまいます。
黒田城が名島城へ移封した後、細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封し、築城を引き継ぎました。 細川忠興は肥後細川家の祖にして、基礎を築いた人物です。また、明智光秀の娘、細川ガラシャの夫としても知られています。 細川忠興は21年の歳月をかけて中津城を現在残る史跡の形に作り上げました。 その間、細川忠興は福岡県北九州市に史跡が残る「小倉城」を築城して、城主として移封しています。 完成した中津城は、本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸が位置しており、三角形に近い扇形をしていました。そのため「扇城」という別名があります。
8つの門、22の櫓、6箇所の虎口を持ち、天守があったかどうかは不明です。 一説によると築城中だった天守は、細川忠興の三男、細川忠利の義兄弟小笠原忠真が築いていた明石城に送ったと伝わっていますが、明石城に天守はありません。
この説が正しければ中津城には最初から天守はなく、明石城に送られた天守も別の建物に流用された可能性があります。 堀には海水が引き込まれており、平城でありながら海城という様式です。
石垣は黒田孝高が築いたものが残っており、これは近世城郭の石垣としては九州最古のものです。本丸上段北面石垣には、黒田家が築いた石垣に細田家が新たに石垣を継いだ跡を見ることができます。
江戸時代の中津城
黒田家と細川家によって築かれた中津城は、江戸時代を通して中津藩藩主の居城となります。
細川家は寛永9年(1632年)熊本藩へ移封となり、それに後、小笠原氏、奥田氏が城主を務めました。
中津城は天災などで被害を受けたという記録は残っていない珍しい城です。
安政3年に海防強化のために山国川河口へ砲台を設置したり、文久3年に松の御殿を新築したりしていますが、砲台や建物は明治になってからも使われ続けました。
明治以降の中津城
明治を迎えて廃藩置県が実施された後、中津城は中津藩・藩士である福沢諭吉の進言によって松の御殿以外の建物が破棄されます。 そして、明治10年(1877年)に起こった西南戦争で増田宋太郎率いる中津隊の襲撃により、松の御殿も消失してしまいました。 その後、長い間中津城跡はそのままでしたが、昭和39年(1964年)旧藩主奥平家の奥平昌信 さんが寄付を募り、自身の私財と併せて模擬天守閣を築城します。 復元された模擬中津城天守は長い間中津市のシンボルであり、観光名所でしたが平成19年(2007年)に天守閣を所有していた「中津勧業」が、土地や建物を中津市か民間企業に売却する意向を示します。 そして、模擬天守閣は埼玉県の企業「千雅」に売却され、管理・運営が一般社団法人中津城に委託されました。 そのため、中津城は日本の城の中で唯一株式会社が所有している形です。
平成16年(2014年)築城主の黒田孝高を主人公にした大河ドラマ「軍師官兵衛」が放送されるのに先立ち、場内が全面整備されました。
平成18年(2016年)続日本の100名城に選出され、現代にいたります。

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中津藩DATA
藩庁 中津城
旧地域 豊前国下毛郡中津
石高 10万石
譜代・外様 外様・譜代
主な藩主 黒田家・細川家・小笠原家・奥平家
推定人口 10万人(明治元年)

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