府内藩(1/2)天災に多く見舞われる

大給松平家の家紋「丸に釘抜」

記事カテゴリ
藩史
藩名
府内藩(1601年〜1871年)
所属
大分県
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府内藩は現在の大分県大分市一帯を治めていた藩です。府内城を藩庁とし、3つの家が明治維新まで藩を治めていました。そんな府内藩の歴史を紐解いていきましょう。

竹中家と日根野家による支配

府内周辺は、慶長5年(1600年)まで豊臣秀吉の側近であった福原長高という武将が治めていました。彼は石田三成の妹を正室にしていたため、石田三成が失脚するとそれに連座するかのように徳川家康によって改易されてしまいます。

関ヶ原の戦い後、福原長高が築城した府内城は豊臣秀吉の宰相として知られる竹中重治(半兵衛)の甥、もしくは従兄弟と伝わる竹中重利に与えられ、府内藩が開かれました。

竹中重利は福原長高が築いた府内城を大改修して、現在の姿としたほか、城下町や皆とを整備して現在の大分市につながる府内藩発展の基礎を築きました。

府内藩二代目の藩主竹中重義は竹中重利の嫡男です。
二代目将軍徳川秀忠の寵愛を受け、大名には異例の江戸幕府長崎奉行の地位に就きました。
長崎奉行は日本にやってきたオランダの貿易商の窓口となったほか、キリシタンの監視や弾圧、さらに九州を治める大名達の監視など大きな権限を持っています。

竹中重義は長崎奉行時代、キリシタンに壮絶な弾圧を加えて多くの殉教者を出したといわれています。
雲仙地獄におけるキリシタンの拷問や踏み絵も竹中重義が始めたという説があり、間接的に「島原の乱」のきっかけを作ったともいえます。

徳川秀忠が将軍の座を降り、三代将軍徳川家光の時代になると日本は鎖国へと舵を切ります。このとき、竹中重義は長崎奉行時代に密貿易を行ったなど業務上の不正をオランダ商館長などから訴えられ、奉行職を免職された上で嫡子と共に切腹を命じられました。
これにより、竹中家は断絶となり、竹中家の支配は二代で終りました。

竹中家に代わり、府内城に入城したのは日根野吉明です。彼は、日光東照宮の造営副奉行を務めるなど功績を挙げたため、増石されて府内藩に移封となりました。

日根野吉明が藩主になったとき、府内藩は干ばつや水害が繰り返されていたうえ、寛永18年(1641年)からの3年間、寛永の大飢饉が発生します。府内藩内でもたくさんの餓死者がでましたが、日野根吉は、田畑に水を送る井路を複数開発するなどして、多くの水田に用水を送る術を確立し、多くの人命を助けました。そのため、現在でも名君として毎年顕彰が行われています。

また、府内藩ではこの時期結城秀康の長男である松平忠直の身柄を預かり、監視していました。
松平忠直は、大坂の陣の論功行賞の不満から武力を用いた乱行を行い、徳川秀忠から蟄居を命じられて身柄を府内藩に送られた人物です。
日野根吉明はよく支え、松平忠直は彼の地で没しています。

このような賢君でありながら、日野根吉明は嫡子に先立たれ、死の直前に末期養子を取ったものの、家臣の反対により養子を解消されました。これにより日野根家は断絶し、府内藩は、日野根吉明の正妻の兄弟の子どもである松平忠昭が継ぐことになりました。

そして、明治時代まで府内藩は松平家が治めることになります。

松平家の支配

松平家は松平忠昭から10代、約220年にわたって府内藩を治めました。
初代松平忠昭が府内藩に入った後は寺社に寄進したり新田を開発したりして藩政を確立しようと努力しました。
二代目、三代目の藩主も初代藩主に習って城下町や港の整備を行い、城下で度々起こっていた火災を防ぐための防水路拡大建設などを行っています。

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執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。