- 大多喜藩一度は廃藩になった
- 大多喜藩は、大多喜城を藩庁として上総国夷隅郡に存在していた藩です。最初の藩主は徳川家康の重臣、本多忠勝でした。しかし、一度廃藩となり、その後わずか2万石の藩としてほそぼそと存続していきます。そんな大多
大多喜城とは、千葉県大多喜町にある中世から近世にかけての城跡である。戦国時代には正木氏の拠点となり、徳川家康の関東入国後は徳川四天王のひとり・本多忠勝が城主となった。夷隅川沿いの台地と谷地形を活かした平山城で、房総における徳川方の重要拠点として整備された。現在は千葉県指定史跡「上総大多喜城本丸跡」に、天守風建物の千葉県立中央博物館大多喜城分館が建つ。
| 目的 | 正木氏の拠点、本多忠勝の居城、大多喜藩の政庁 |
|---|---|
| 特長 | 平山城、本多忠勝ゆかりの城、天守風建物、大井戸、薬医門 |
| 他の城との違い | ・徳川四天王のひとり本多忠勝が初代城主となった城である ・現在の天守風建物は、史実上の天守を正確に復原したものではなく、博物館施設として建てられた建物である ・城下町には大井戸や薬医門など、大多喜城ゆかりの史跡が点在する |
| 石垣 | 一部あり |
|---|---|
| 土塁 | 一部現存 |
| 種類 | 土塁、空堀、水堀、曲輪、一部石垣 |
| 石材 | 不明 |
| 特長 | 大多喜城は石垣を主体とする城ではなく、台地地形を活かし、土塁や堀を組み合わせた平山城である。城跡には曲輪、土塁、空堀、水堀などの遺構が残るとされ、現在の天守風建物周辺にも城跡の地形を感じることができる。石垣だけで見る城ではなく、夷隅川沿いの地形と土の防御をあわせて理解するのが自然である。 |
| 別称 | 大滝城、小田喜城 |
|---|---|
| 所在地 | 千葉県大多喜町 |
| 築城 | 16世紀前半 |
| 築城者 | 真里谷氏、または正木氏と伝わる |
| 住所 | 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481 |
| 電話番号 | 0470-82-3007 |
| 開館時間 | 千葉県立中央博物館大多喜城分館は施設改修のため休館中。休館前は9時~16時30分、入館は16時まで |
| 休館日 | 千葉県立中央博物館大多喜城分館は施設改修のため休館中 |
| 入館料 | 休館中。休館前は一般200円、高校生・大学生100円、中学生以下・65歳以上は無料 |
| 備考 | 大多喜城分館は2021年12月27日から施設改修のため休館中。建物部分には立ち入れないが、一部を除き敷地内への立ち入りは可能で、敷地内から城郭風建物の写真撮影ができる。休館中は敷地内の研修館などを利用した展示が行われている。 |
大多喜城は、千葉県夷隅郡大多喜町にあった平城です。甲斐武田家から派生した真里谷武田氏の一族である真里谷信清が築き、徳川四天王の1人、本多忠勝が大改築を行って近代城郭になったと伝えられています。そんな大多喜城の歴史を紐解いていきましょう。
| 16世紀前半 | 大多喜城の前身となる城が築かれたと伝わる |
|---|---|
| 戦国時代 | 正木氏の拠点として、上総東部の支配に関わる |
| 1590年 | 徳川家康の関東入国にともない、本多忠勝が大多喜城主となる |
| 江戸時代 | 大多喜藩の藩庁として機能する |
| 1871年 | 廃藩置県により大多喜藩が廃止される |
| 明治時代 | 城内の建物が失われ、大多喜城は廃城となる |
| 1975年 | 本丸跡に天守風建物の千葉県立中央博物館大多喜城分館が開館する |
| 2017年 | 続日本100名城に選定される |
| 2021年 | 施設改修のため、大多喜城分館が休館となる |
大多喜城と関連する人物記を読む
| 藩庁 | 大多喜城 |
|---|---|
| 旧地域 | 上総国 |
| 石高 | 2万石 |
| 譜代・外様 | 譜代 |
| 主な藩主 | 本多家・阿部家・青山家・阿部家・稲垣家・松平家 |
| 推定人口 | 2万1000人(明治元年) |
天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・本多忠勝に上総国に10万石を与えた。忠勝は当初は万喜城に入城したが、遅くとも天正19年(1591年)までに居城を大多喜城に移した。これが大多喜藩の起源である。
千葉県夷隅郡大多喜町の大多喜城は、本田忠勝の居城として知られる城です。大多喜町のシンボル的な存在でもあり、続日本100名城に選ばれています。昭和に入って天守を模した博物館が建てられていますが、2025年5月現在、施設改修のため休館中です。