久留里城千葉県君津市

春の久留里城1 春の久留里城2 春の久留里城3 春の久留里城4 春の久留里城5 春の久留里城6 春の久留里城7 春の久留里城8 春の久留里城9 春の久留里城10
夏の久留里城1 夏の久留里城2 夏の久留里城3 夏の久留里城4 夏の久留里城5 夏の久留里城6
冬の久留里城1 冬の久留里城2 冬の久留里城3 冬の久留里城4 冬の久留里城5
  • 「雨城」と呼ばれる房総の山城
  • 里見氏ゆかりの上総の要衝
  • 現在は天守風建物と久留里城址資料館が整備

久留里城とは、千葉県君津市にある中世から近世にかけての城跡である。別名を「雨城」といい、霧や雨にまつわる伝承を持つ山城として知られる。中世には里見氏、近世には土屋氏・黒田氏などの居城となり、明治初期の廃城まで続いた。現在は城山公園として整備され、再建された天守風建物と久留里城址資料館が、房総の城と武士の歴史を伝えている。

久留里城の特長
目的 里見氏の本拠、上総支配の拠点、久留里藩の政庁
特長 山城、雨城の別名、曲輪、堀切、土塁、天守風建物、久留里城址資料館
他の城との違い ・「雨城」と呼ばれる霧や雨にまつわる伝承を持つ
・房総丘陵の地形を活かした山城である
・現在の天守風建物は、史実上の天守を正確に復原したものではなく、昭和期に再建された建物である
久留里城の石垣・土塁
石垣 なし
土塁 現存
種類 土塁、堀切、曲輪、土橋、井戸、山城
石材 該当なし
特長 久留里城は石垣を主体とする城ではなく、房総丘陵の尾根や斜面を活かし、曲輪・土塁・堀切によって構成された山城である。城山には山城らしい地形が残り、現在の天守風建物周辺からは久留里の町並みを見下ろすことができる。城跡としては、石垣ではなく土塁・堀切・曲輪を中心に見るのが自然である。
久留里城DATA
別称 雨城、霧降城、浦田城
所在地 千葉県君津市
築城 室町時代
築城者 不明
住所 千葉県君津市久留里字内山
電話番号 0439-27-3478
開館時間 久留里城址資料館は9時~16時30分
休館日 久留里城址資料館は月曜日。月曜日が祝日の場合は開館し、翌日休館。祝日の翌日、年末年始
入館料 無料
備考 現在は城山公園として整備されている。天守風建物は昭和期に再建されたもので、久留里城址資料館では久留里城の築城伝説、戦国時代の里見氏、江戸時代の土屋氏・黒田氏など歴代城主に関する資料を見学できる。
久留里城への交通アクセス
JR久留里線久留里駅下車、徒歩約30分。

HISTORY 複数の別名を持つ「久留里城」

久留里城は、千葉県君津市久留里にあった平城です。中世に築城された後、江戸時代に近世城郭として整備され、明治時代まで久留里城の藩庁として機能しました。 「城の完成後、3日に一度、21回雨が降った」という不思議な伝説に基づき、「雨城」とも呼ばれています。この他、「霧降城」「浦田城」といった複数の別名を持っています。 このような久留里城の歴史を紐解いていきましょう。

久留里城の歴史
中世 久留里城の前身となる城が築かれたとされる
戦国時代 里見氏の拠点として整備され、上総支配の要衝となる
戦国時代 里見氏と後北条氏の抗争の中で、久留里城が房総の重要拠点となる
江戸時代初期 大須賀氏・土屋氏などが城主となり、久留里藩の拠点となる
1742年 黒田直純が久留里へ入り、以後、黒田氏が久留里を治める
1871年 明治4年秋、久留里城が廃城となる
1978年 天守風建物が再建される
1979年 久留里城址資料館が完成する
古久留里城の時代
久留里城の原型は、上総武田氏の祖である武田信長という人物が康正元年(1455年)に上総国守護代に任じられたことをきっかけに、翌年に築城した山城です。なお、平将門の三男頼胤が久留里城の原型となる城を築いたという伝説も残っていますが、それを示す資料はありません。
武田信長は第12代甲斐武田氏当主武田信満の子息です。彼に始まる上総武田氏は戦国時代半ばまで上総の地を治めていましたが、戦国時代になると相次ぐ戦乱や内紛で弱体化したところ、里見氏に攻められて古久留里城ごと領地を占領されました。
戦国時代以降の久留里城
里見氏は鎌倉時代から続く御家人の家柄で、戦国時代に頭角を現わし房総半島一帯を治める安房里見氏が台頭しました。上総武田氏から久留里城ごと領地を奪った後、里見義堯という人物が、天文4年(1535年)に古久留里城がある山の麓、現在の位置に新しい城を作りました。この頃、関東支配を狙う小田原北条氏と安房里見氏は敵対しており、完成した久留里城は一時期小田原北条氏に奪われましたが、後に安房里見氏が奪還しています。
天正18年(1590年)豊臣秀吉によって小田原征伐が行われ、里見氏も参戦します。その際、当主であった里見義康が禁じられている私戦を起こし、罰として上総国の領土を取り上げられました。 その後、関東に移封された徳川家康が上総の地を大須賀忠政に3万石で与えます。
大須賀忠政は、城下町整備等を行ない久留里城周辺の近代化に努めました。
江戸時代を通して、久留里城は久留里藩の藩庁として機能します。
なお、久留里城付近は雨が多く「城の完成後は3日に一度、21回雨が降った」という伝説が残っています。
また、城周辺はよく霧がかかり、遠くから見ると雨が降っているように見えた。霧が城の姿を隠して敵の攻撃を受けにくかったといったといった伝説もあり、久留里城周辺は雨が多かったことがわかります。 久留里城の別名「雨城」や「霧降城」は城周辺地域の気候に由来するものです。
別名を持つ城は珍しくありませんが、気候に由来する別名は珍しいでしょう。
明治以降の久留里城
明治を迎えると、廃城令によって久留里城の主な建物はほぼ破棄されました。 城址は国有地となりましたが、昭和30年(1955年)に国有地を借り受ける形で城山公園として整備されます。 その後、昭和43年(1968年)に始まった明治百年事業の一環として久留里城復興計画が立ち上がり、昭和54年(1979年)にRC造の模擬天守閣が建築されました。
なお、模擬天守閣は浜松城模擬天守を模した2層3階ですが、実際の久留里城は2層2階であったと記録に残っています。
模擬天守閣は展望台として利用されており、千葉眺望百景にも登録されています。
まとめ
久留里城は決して知名度は高くありませんが、関東支配をもくろむ北条氏に対抗する最前線の城であったなど、城本来の働きを十分に果たした城郭です。 現在残っている遺構は、堀切や切り通し、曲輪跡などで、これは里見氏が築いた古久留里城のものも含まれています。 なお、古久留里城遺構の周辺は豊富な水源があり、男井戸、女井戸、悲しい伝説が残るおたまが池などが整備されています。

久留里城を藩庁とする、久留里藩の歴史

久留里藩新井白石を輩出
久留里藩は、千葉県君津市久留里一帯を治めていた藩です。徳川四天王の1人榊原康政の嫡男である大須賀忠政が開藩し、幕末まで大須賀(松平家)・土屋家・黒田家の3つの家が治めました。6代、7代将軍に仕えて「正
久留里藩DATA
藩庁 久留里城
旧地域 上総国
石高 3万石
譜代・外様 譜代
主な藩主 黒田氏
推定人口 2万3000人(明治元年)

小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・榊原康政の嫡男・大須賀忠政(松平忠政)に久留里3万石を与えた。これが久留里藩の立藩である。