大多喜藩一度は廃藩になった

大多喜藩

本多家の家紋「丸に立ち葵」

記事カテゴリ
藩史
藩名
大多喜藩(1591年〜1871年)
所属
千葉県
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大多喜藩は、大多喜城を藩庁として上総国夷隅郡に存在していた藩です。
最初の藩主は徳川家康の重臣、本多忠勝でした。
しかし、一度廃藩となり、その後わずか2万石の藩としてほそぼそと存続していきます。
そんな大多喜藩の歴史を紐解いていきましょう。

本田家の統治

大多喜藩を開いたのは、徳川四天王の1人として有名な本多忠勝です。本多忠勝は幼い頃から徳川家康に仕え、13歳で初陣を飾った後は徳川家康が参戦した戦の大部分に参戦しています。武田信玄や織田信長にも武勇を認められ、「家康に過ぎたる者」とまで言われた武将として数々のテレビドラマや映画、小説などにも登場しているので、ご存じの方も多いでしょう。

本多忠勝は天正18年(1590年)に10万石で上総の国を与えられ、もともとあった小田喜城を大改築して大多喜城を築きました。本田忠勝自身は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで武勲を立てたため、新たに伊勢国桑名藩を与えられました。本田忠勝は長男を伴って桑名藩に移り、2代目の藩主には次男の本多忠朝が就任します。

このころ、フィリピン臨時総督であった「ロドリゴ・デ・ビベロ(ドン・ロドリゴ)」という人物が、マニラからアカプルコへ向けての航海中台風にあい、大多喜藩領の岩和田村に漂着するという事件が起こります。ロドリゴは村人に助けられ、本多忠朝が自ら兵を率いて彼と面会し、主君家康に寛大な処置を求めました。
ロドリゴは慶長15年(1610年)ウィリアム・アダムス(三浦按針)が築いた船に乗って無事に出国しましたが、日本に滞在した間の記録を記した書物は現在も「日本見聞録」として読むことができます。

本多忠朝は慶長20年(1615年)の大阪夏の陣で戦死、嫡子が幼かったために甥である本多政朝が3代目藩主となります。本田政朝は藩主になってわずか2年後の元和3年(1617年)に播磨龍野藩5万石に入封され、本多家の統治は終わりました。

一度目の廃藩から松平家の統治まで

本多政朝が播磨へ移封された後、阿部正次が3万石で藩主となりますが、わずか2年後に相模国小田原藩へ移封されました。これをきっかけに、一時的に大多喜藩は廃藩になります。

元和9年(1623年)、青山忠俊が徳川家光の勘気を被って老中を罷免され、武蔵国岩槻藩から減移封となって2万石で大多喜藩へやってきます。青山忠俊は老中まで務めた幕府の重臣ですが、3代目将軍の徳川家光へ度々諫言を行ったため、ついに老中を罷免されてしまいました。しかし、彼もすぐに下総国網戸へ移封されてしまったため、また大多喜藩は廃藩になってしまいました。

その後、一度は相模国小田原藩へ移封された阿部正次の孫にあたる阿部正令(正能)が1万石を分与され、大多喜藩を再立藩します。このとき、藩庁であった大多喜城は荒れ果ててしまい、「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」と記録に残されるほどの荒廃ぶりでした。

幕府は、阿部家にたびたび城の改修を命じますが、大改修が行われた記録は残っていません。小規模な回収をするので手一杯だった可能性もあります。なお、阿部正能は江戸幕府の老中を務めるまで出世しました。その後、大多喜藩の藩主は阿部正春という人物に移ります。正春は阿部正次の次男、阿部正重の子どもで阿部正令の従兄弟にあたります。阿部正重は、3代将軍徳川家康の死去に伴い殉死をした家臣です。ドラマなどで描かれることもあるので、ご存じの方も多いでしょう。

阿部正春は、元禄15年(1702年)まで藩主を務めた後で三河刈谷藩に移封されます。
なお、この時代に大多喜藩は城以外領地が丸ごと入れ替わっています。これは、阿部家が相模国小田原藩以外に、大多喜藩をはじめいくつもの飛び地の領地を持っており、子や孫に分割統治させていたためです。子や孫が藩主になると、それまで治めていた領地をそのまま大多喜藩の領地にして、それまでの領地を別の血族が治めたため、このような事態が
起こりました。全国的にも珍しい事例です。

その後、三河刈谷藩藩主であった稲垣重富が大多喜藩に移封されてきますが、着任後わずか21日で城地が狭すぎるという理由で下野烏山藩に移ったと言われています。
わがまますぎる理由ですが、彼は5代将軍徳川綱吉の若年寄を10年ほど勤めた位の高い人物なので、許されたことなのでしょう。

大河内松平家の統治

大多喜藩は本多家が移封された後、治める家が点々として落ち着きませんでした。しかし、本多忠勝から数えて9代目の藩主、松平正久から大河内松平家が幕末まで2万石で藩を治めます。松平正久はほとんど記録が残っていませんが、若年寄を不適格という理由で罷免された後、大多喜藩に移封されています。
大河内松平氏は徳川氏の家臣・大河内秀綱の次男、松平正綱を祖とする家です。

3代将軍徳川家光の時代は老中も出した名門の家柄で、大喜多藩の城主になってからも、大阪城加番という、要職を代々務めました。
その分、藩政はどの藩主も目立った功績は残していません。

松平家で7代目の藩主、松平正義が、大多喜城三の丸に望庵堂という学問所を創設した程度です。この学問所が後に藩校・明善堂となりました。

しかし、後を継いだ8代目藩主松平正和の時代、大喜多城が焼失、洪水による田畑の損害等苦難が続きました。
最後の藩主、松平(大河内)正質は、慶応4年(1868年)に発生した鳥羽・伏見の戦いでは総督として旧幕府軍を指揮しましたが、敗北してしまいます。しかし、敗北後は速やかに大喜多城を開城して藩を新政府軍に明け渡したため、藩の存続が許されました。

明治になると、松平正質は「大河内」と姓を改め、貴族院で政治家を務めました。
ちなみに、彼の長男が無名時代の田中角栄を引き立てた大河内正敏です。

大多喜藩まとめ

大多喜藩は徳川家康の重臣本多忠勝が開いた藩ですが、江戸時代半ばまで治める家が安定せず、大河内松平家も幕府の要職を務める藩主が多かったため、領地に戻る機会も少なかったと思われます。
藩主が何かをしたといった逸話の少ない藩ですが、最後の藩主大河内正質は幕末を舞台としたドラマなどに登場することもあるので、ご存じの方もいらっしゃるでしょう。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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