本多忠勝(1/2)皆からの評価が高い花も実も兼ね備えた武将

本多忠勝

本多忠勝

記事カテゴリ
人物記
名前
本多忠勝(1548年〜1610年)
出生地
愛知県
関連する城
桑名城

桑名城

大多喜城

大多喜城

関係する事件

その昔、日本を駆け巡った侍たち。その侍たちが活躍した時代、最後に250年も続いたのが江戸時代でした。江戸幕府を開いたのは徳川家康。徳川家康は幼いころから苦労続きの人生でしたが、最後には天下人となりました。そんな家康も、若いころ周囲から「過ぎたるもの(家康には不相応な持ち物)」と言われていたものがあります。それが「唐の頭に本多平八」という言葉。

唐の頭とはチベット高原に生息する犛牛(やく)という動物の毛で、中国からもたされたため「唐の頭」と呼ばれました。当時の輸入品でも特に貴重なものでしたが、家康はこれを兜の飾りとして付けていたそうです。
もう一つの本多平八が、この記事の主人公・本田平八郎忠勝。本多忠勝は大変な戦上手で生涯に参加した戦いは大小57回。その57回で、一度も傷を負わなかったと言われています。
忠勝は、幾度も家康の窮地を救ってきました。では本多忠勝とはどのような人物であったのか、ご紹介したいと思います。

本多忠勝の誕生から青年時代

本多忠勝は天文17年(1548年)、本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)にて生まれました。
本多家は安祥松平家(徳川本家)のうちでも最古参の安祥譜代でした。安祥譜代には、酒井・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村の7家が挙げられます。忠勝は、その本多家に生を受けたのです。
当時、三河の松平氏の状況は東に今川家、西は織田家に挟まれた状態。そのため、三河の武士は苦しめられていました。本多忠勝の父、忠高も天文18年(1549年)に戦死してしまいます。忠勝は、叔父の本多忠真のもとで育ちました。

本多忠勝は、幼い頃から徳川家康に仕え永禄3年(1560年)、13歳の時に元服すると桶狭間の戦いの前哨戦である「大高城兵糧入れ」で初陣しました。その後、「三河一向一揆」、家康が今川家から独立すると「上ノ郷城攻め」や「牛久保城攻め」などに参戦します。
これらの戦いを通じ、徳川家康は本多忠勝の将としての能力を見出します。永禄9年(1566年)には19歳にして旗本先手役に抜擢。与力54騎を配下として忠勝に預けます。以後、常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍しました。

元亀元年(1570年)、織田・徳川家と浅井・朝倉家とが戦った「姉川の戦い」にも参加しています。この戦いにおいて本多忠勝は朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せました。
徳川家は織田信長の要請により、援軍に行きながら武田家と長年戦っています。
本多忠勝は「三方ヶ原の戦い」に一手の将として参加、その戦い直後には犀ヶ崖に陣取った武田軍に夜襲を仕掛け、武田軍を大混乱に陥らせました。「長篠の戦い」、「高天神城奪還戦」にも参戦しています。
本多忠勝は、家康の側にありながら徳川家の戦いでは常に現場に身を置き、戦い続けていました。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起き織田信長が横死。
この時、家康は本多忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在中でした。家康は本能寺の変で信長が死んだことを知ると、京都に行き信長の後を追おうと取り乱しますが、忠勝が諌めます。そして、京都を避け伊賀を越えて三河に戻る「伊賀越え」を決行するのです。
この道中、木津川で船を渡し終わったときのこと。
渡し終えた船の船底を槍の石突で突き破り、追手が使用するのを防いだといわれています。忠勝の戦に関する勘が、用心に用心を重ねる行動という形となったのでした。

天正12年(1584年)4月、徳川家と豊臣家が戦った小牧・長久手の戦いで当初、本多忠勝は留守役を任されます。しかし、豊臣方10万の大軍の前に徳川家康が苦戦して崩れかけている報を聞くと、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけます。
なんと豊臣の大軍の前5町(約500m)先で立ちはだかり、豊臣軍の進軍を妨げたのでした。
忠勝の忠誠からでた無謀な行動ですが、玉砕覚悟で家康のために動いたのです。
このように、本多忠勝は初陣から青年期を経て壮年に達するまで徳川家の第一線に身を置いていました。戦場が忠勝の成長の場であり、職場です。そこで培った経験が戦に関する勘に磨きをかけ、名人のようになっていきました。

天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)10万石を与えられます。
この本多忠勝の配置は、安房国(現在の千葉県房総半島)の里見氏に対する備えでした。
そのため、忠勝は里見氏の北上を阻止するため突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町を造営しました。これが、今日の大多喜城の始まりです。
こうして忠勝も戦の現場から、より広い視野を要求される立場へと変わっていきます。

本多忠勝の評価

本多忠勝は日本三名槍の1つ「蜻蛉切」を持ち、鹿立の兜をかぶって戦場に臨みました。そして徳川家の戦いには誰よりも最前線で戦っています。そのため、さまざまな人々から評価されていました。
本多忠勝の配下の将達は「忠勝の指揮の下で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」と称えられています。背後を気にすることなく目の前の敵にだけ集中できるよう忠勝は配慮していました。

三方ヶ原の戦いの前哨戦となった一言坂の戦いでは、忠勝は殿を務めました。
その戦いぶりから敵であった武田軍の小杉左近に、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と讃えられたと言われています。
冒頭でも触れた通り、「唐の頭」は家康が中国産の珍しい動物の毛を兜飾りにしていた事。そして「本多平八」は忠勝の通称「平八郎」から取られており、家康にはもったいないほど優れた武将である、と敵から賞賛されたことになります。
主君の撤退のために不利な状況で戦場に踏みとどまり、決死の覚悟で自身の脱出にも成功した忠勝の武勇は、武田軍にも存在が知られるようになりました。

時代の覇者であった織田信長は、同盟軍として三河武士の力を幾度となく借りましたが、そのなかで本多忠勝を「花も実も兼ね備えた武将である」と評価しています。
天下人となった豊臣秀吉は、徳川家康と時には味方として、あるときは敵として争っています。そのため、誰よりも本多忠勝の仕事ぶりを見ていて「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と東の有能な武将として引き合いに出し評価しました。
当然主君の家康からの評価も高く、「まことに我が家の良将なり」と激賞。
「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ川柳もあります。
これほど多くの人々の口から評価される武将はそう多くありません。

関ケ原の戦い以後

天下人であった豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康は天下を狙います。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、本多忠勝は家康本軍に従軍。
但し、本多本隊は嫡男の忠政が指揮を執っており、忠勝は徳川本陣にあって、家康のそばに控えていたと言われています。この時、忠勝は井伊直政と連署の書状を送り、徳川方に寝返るよう促しました。本戦でも奮戦、僅かな手勢で90もの首級を挙げました。

この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)10万石に任じられます。これは大坂の豊臣秀頼に対し、東海道の重要地点であった桑名を信頼する本多忠勝に任せたことになります。また旧領・大多喜は次男・忠朝に別家5万石で与えられました。
しかし慶長9年に病にかかり隠居を申し出るも、この時家康は慰留。
その後、慶長12年には眼病を煩い、慶長14年(1609年)6月、嫡男・忠政に家督を譲って隠居します。

ところが翌年の慶長15年(1610年)10月18日、桑名で死去。享年63でした。
本多忠勝は臨終に際し「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺しています。まさに徳川家康ただ一人に忠誠を尽くした、忠勝の生き方を語った言葉でした。

本多忠勝と桑名城

本多忠勝は慶長15年(1610年)に桑名で死去しました。では忠勝終焉の地、桑名はどんなところだったのでしょうか。

本多忠勝の記事には続きがあります

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.03