藤堂高虎(2/2)多数の主君に仕えた築城の名手

藤堂高虎

藤堂高虎

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人物記
名前
藤堂高虎(1556年〜1630年)
出生地
滋賀県
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赤井直義
丹波の有力な国人であった赤井直正の子で通称は父と同じ悪右衛門。赤井家が明智光秀に滅ぼされると、京都に隠棲していたが慶長十五年(1610年)、高虎に足軽大将として仕えるようになりました。
桑名吉成
長曾我部元親の三家老だった桑名氏の一族。 吉成は土佐の中村城城代でした。関ケ原の戦いでは仕えていた長曾我部家が改易され、浪人となりましたが、後に藤堂家に仕えます。後年、大坂夏の陣において藤堂家は長曾我部元親の子である盛親と激戦を繰り広げました。吉成はその旧主との戦いの中で、討死した或いは、自刃したとも言われています。
菅達長
淡路の水軍を率い、方々に仕えていましたが豊臣秀吉の水軍衆として伊予国(愛媛県)に所領を与えられます。関ケ原では西軍に与したため、菅家は改易。その後、同じ伊予の大名であった藤堂家に仕えるようになりました。
渡辺了
近江国浅井郡出身で、高虎と同様に主君を変えながら名をあげていきます。 中村一氏に仕えていた時は、豊臣秀吉より「捨てても1万石は取るべき」と言われる程、評価されていました。 関ケ原の戦いでは豊臣家五奉行の一人、増田長盛に仕えています。増田家が西軍に与したため、関ケ原の戦い後に改易されると藤堂家に二万石で仕えました。

既に説明した通り、この頃は自分の実力次第で仕える主君を選べる時代でした。ところが高虎のもとでは、元大名や元家老たちを多く召し抱えています。当時、世間から高虎が評価されていたからこそ召し抱えることができたのでしょう。

迎え入れた武将たちとのいざこざ

ただ、菅達長や渡辺了には大坂冬の陣・夏の陣で続きの話があるのです。

まず、菅達長。冬の陣が徳川・豊臣家の一時停戦で終わると、徳川方は大阪城の外堀と内堀とを埋めて、次の戦いでは優位に進めようとしたことはよく知られています。

この時、菅達長は大坂城の堀を埋め立てるよう高虎より命じられますが、この命令を拒否しました。元は豊臣家の大名であったこともあり、命令に不満があったのかもしれません。

ちょうど現地視察に来た高虎がその態度を咎め、口論に・・・。結局、命令違反を理由に菅達長はその場で切腹を命じられてしまいました。

渡辺了は、大阪夏の陣の時、八尾の戦いにおいて高虎の命令を無視し独断専行を行い、終始戦いました。戦い自体は渡辺了の活躍で優勢に進んだのですが被害も大きく、戦いのあとに藤堂家を出奔しています。ところがこの渡辺了の行動に対して、高虎は奉公構(「大名家が名指しした浪人には遺恨があるので、他の大名は雇うな」と触れを出す事)を出し、その奉公構は終生解けませんでした。そのため、世間から評価の高かった渡辺了はその後、他家に仕える事ができず亡くなりました。

高虎は、人に対して義理堅く家来に目をかけ重んじてきた人でした。しかし、反面叩き上げで大名にまで上り詰めたこともあって、組織(大名家)としての命令や秩序を大事にしていたようです。

高虎が徳川家康についたのはなぜ?

藤堂高虎を大名まで引き立てた豊臣秀吉は、慶長3年(1598年)に亡くなりました。羽柴秀長に仕官したのが天正四年(1576年)でしたので、豊臣秀吉が亡くなるまで足掛け22年間も豊臣家に仕えた事になります。

しかし、高虎は秀吉が亡くなると急速に徳川家康に接近していきます。それまで、豊臣家が家康に行った饗応などで多少接点はあっても、そこまで親密な間柄ではありませんでした。にもかかわらず、高虎が家康に接近したのはなぜだったのでしょうか。

おそらく、「次の天下を取るのは徳川家康だ」と見極めたからでしょう。身一つで成り上がってきた男の嗅覚と、納得できる主君を探し度々仕官先を変えてきた高虎の経験から出した大きな決断だったといえます。

慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いにでは、高虎は徳川方(東軍)の最前線で大谷吉継などと戦います。しかし、この戦いが始まる前に敵の石田三成方(西軍)の武将だった、小川祐忠・朽木元綱・赤座直保などを調略し戦いの最中に寝返らせました。結局この3人に加え、小早川秀秋、脇坂安治が西軍を裏切った事が、関ケ原の戦いの勝敗に大きく影響しています。これらの結果をみても、高虎の功績は大きかったと言っていいでしょう。

この戦いの後、高虎は従来の宇和島城八万石に加え今治城十二万石の加増を受け、伊予の半分を治めることになりました。

慶長13年(1608年)には伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封にともない、今治城周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀国内10万石、並びに伊勢安濃郡・一志郡内10万石で計22万石に加増移封され、津藩主となっています。伊賀と津は、江戸と上方を結ぶ東海道がある重要な地。徳川家康は、この要衝を新参の高虎に任せたことになります。

それほど高虎を信任していた家康は、古くからの徳川家の家臣同様に譜代大名格(別格譜代)として処遇するようになります。その厚遇ぶりは、家康が臨終に際し枕元にまで侍らせ亡き後の処置を相談したほどです。

高虎の最期とその後

徳川家康亡き後も藤堂高虎は徳川幕府に忠節を誓い、三代将軍徳川家光の時代、寛永七年(1630年)十月五日に江戸藤堂藩邸で死去しました。享年七十五歳。
高虎の死後、近習が高虎の体を清めようと寝具を脱がし体を見て大きく驚きます。身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪はありませんでした。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であったと言われています。一介の侍から成り上がり、戦国の世を駆け抜け大名にまで上った苦労がその遺体に刻み込まれていたのでしょう。
このような高虎の人生から、藤堂家の家臣達は高虎の遺訓を座右の銘としました。

「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」

高虎は「毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよ」と考え生きていました。その教えを家臣達は重く胸に刻んで座右の銘にしたのでしょう。

高虎は、東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院に葬られました。その他、三重県津市の津城跡がある「お城公園」内、高山神社にも祀られています。

「高山」は高虎が津市発展の礎を築いた開祖として、戒名よりとられた「高山居士」「高山公」の諡(おくりな)に由来。現在、毎年10月に津で行われている「津まつり大パレード」では、高虎が津に入城した様子を模した高虎時代絵巻を行っています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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