宇和島藩(1/2)伊達家が治める

宇和島藩

伊達家の家紋「竹に雀」

記事カテゴリ
藩史
藩名
宇和島藩(1608年〜1871年)
所属
愛媛県
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現存天守
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宇和島藩は、藤堂高虎から富田信高、さらに庶子ではあるが伊達政宗の長男、伊達秀宗を祖とする宇和島伊達家によって治められてきました。
宇和島藩は何度も天災に襲われ、城が二度も大破しています。そんな宇和島藩の歴史をひもといていきましょう。

江戸時代以前の宇和島藩

宇和島藩は、豊臣秀吉によって封じられた藤堂高虎が宇和島城を築いて城下町を整備し、藩の基礎を築きました。
藤堂高虎は築城の名手と呼ばれ、慶長5年(1601年)に中世と近世の特徴を併せ持つ平城兼海城を作り上げます。
宇和島城は日本三大海城の一つとも呼ばれ、幕末まで宇和島藩の藩庁として機能しました。

「松葉騒動」など土豪の氾濫もありましたが、治世を揺るがすようなことはなく、藤堂高虎は関ヶ原の戦いなどで軍功をあげ、慶長13年(1608年)に伊勢津藩に増石のうえ、移封されます。

江戸時代初期の宇和島藩政

藤堂高虎と入れ替わるように伊勢津藩より宇和島藩に移封されたのが、富田信高です。富田信高は関ヶ原の戦いで東軍についた功績で宇和島藩10万1900石に封じられます。
宇和島藩の歴史はここからスタートしました。

富田信高は海運工事や掘削事業を積極的に手がけて宇和島藩の財政を安定させようとします。
しかし、伊勢津藩のときに起こった身内の醜聞が再燃します。伊勢津藩の時に幕府はこの醜聞を取り合いませんでした。でも、二度目の醜聞は幕府に問題視され、慶長18年(1613年)に富田信高は改易されます。この醜聞に富田信高自身はあまり関係なく、どちらかといえば夫人の血縁がおこした騒動です。それにもかかわらず、富田信高は改易され、蟄居を申しつけられます。

なお、この一件は醜聞は口実で富田信高は江戸初期の粛清事件「大久保長安事件」に関わりがあったため改易されたという節もあります。

富田信高が改易された後、宇和島藩に移封されたのは伊達政宗の長男伊達秀宗です。
伊達秀宗は、長男ではありますが側室の息子であったので庶子扱いでした。
幼い頃は豊臣家に人質に差し出され、豊臣秀吉の猶子扱いになり、名前を一字取って「秀宗」と名乗ります。
関ヶ原の戦いの時は、宇喜多秀家宅で対伊達政宗の人質になりました。

このように波乱の人生を送った伊達秀宗ですが、さらに父伊達政宗の正妻である愛姫に伊達忠宗が生まれて無事に成人したため、伊達秀宗が仙台藩を継ぐのは難しくなります。

そのため、父である伊達政宗が尽力して、息子を宇和島藩主にしたという意見もあります。
実際、秀宗が宇和島藩に入る際、伊達政宗は家臣をつけて6万両もの資金を持たせています。

しかし、このときに仙台から宇和島まで同行した山家公頼は、後に伊達秀宗と不仲になり、政敵の桜田元親とその一派により、長男・自身の母・妻以外の家族を皆殺しにされてしまいます。これは「和霊騒動」と呼ばれる騒動であり、これがきっかけで伊達秀宗と伊達政宗は一時期絶縁状態になりました。

なお、山家公頼は浪費がちな伊達秀宗を諫め、質素倹約を推進し年貢を軽くするために尽力した忠臣と伝わっています。
そのため、山家公頼は死後「和霊様」として神格化され、彼を祀る「和霊神社」も伊達秀宗によって作られました。
山家公頼が忠臣として名高いため、彼を見捨てた伊達秀宗は宇和島であまり評判が良くありません。

しかし、戦国末期に幼年期の大半を人質として過ごした肝が据わった人物であり、領内検知や年貢の固定化、さらに藩士の給料を米の現物支給である蔵米制にするなど、宇和島藩の藩政の基礎を作りました。

伊達秀宗の死後、藩主の座を継いだのは三男の伊達宗利でした。伊達秀宗の長男は病弱であり、次男の伊達宗時は伊達秀宗が中風に倒れて藩政を取るのが難しくなった後、摂政として藩政を取り仕切りましたが、父より早く早世してしまいました。
検地制度や村役人制度などを確立、さらに紙の専売制度も作りましたが宇和島城の大改築や父の隠居所の建築など出費が続き、藩の財政は苦しくなります。
さらに、伊達秀宗の五男である伊達宗純が伊達宗利が知らないうちに3万石を分知され、伊予吉田藩初代藩主となってしまいました。

この騒動が起こった理由は諸説ありますが、仙台伊達藩も巻きこんだ大騒動になり、結局は藩主伊達宗利が折れる形で伊予吉田藩の成立を認めます。

しかし、これにより宇和島藩と伊予吉田藩は不仲になり、何度も境界争いをしています。
さらに、宇和島藩では地震・日照り・洪水などの天災に襲われ、深刻な財政危機に見舞われました。
そのため、伊達宗利は質素倹約をすすめ、3代目藩主の伊達宗贇や4代目藩主の伊達村年もその政策を引き継ぎましたが、目立った成果は上がりませんでした。

江戸時代中期〜幕末までの宇和島藩

5代藩主伊達村候は、本家である仙台伊達藩から独立をすすめ、長らく不仲であった仙台伊達藩と表面上は和解します。しかし、二つの家にはしこりが残り、完全的な若いとはいきませんでした。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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