- 尾張藩江戸時代を通して尾張を治めた尾張徳川家
- 尾張藩は、徳川義直を祖とした尾張徳川家が治めた藩です。尾張徳川家は将軍家に後継ぎが絶えた際に後継者を出す御三家の筆頭家でした。また、将軍家との関わりも深く、将軍と親密になったり反発したりした藩主もいま
名古屋城とは、愛知県名古屋市にある江戸時代初期に築かれた近世城郭である。徳川家康が九男・徳川義直の居城として築かせた城で、加藤清正・福島正則などの大名を動員した天下普請により築かれた。大天守の金鯱は尾張徳川家の象徴となり、城下町の整備とともに名古屋発展の中心となった。現在は本丸御殿、隅櫓、城門、石垣、堀などが残り、特別史跡名古屋城跡として整備されている。
| 目的 | 尾張徳川家の居城、東海道の防衛、徳川幕府の西国への備え |
|---|---|
| 特長 | 金鯱、天下普請、本丸御殿、天守台石垣、隅櫓、城門、堀 |
| 他の城との違い | ・徳川家康が天下普請によって築かせた城である ・大天守の金鯱が名古屋の象徴となっている ・本丸御殿が復元公開され、江戸初期の武家御殿建築の華やかさを体感できる |
| 石垣 | 現存 |
|---|---|
| 種類 | 野面積、打込接、切込接、算木積みなど |
| 石材 | 花崗岩、砂岩、安山岩など |
| 特長 | 名古屋城の石垣は、天下普請により各大名が担当箇所を分担して築いたものである。天守台石垣は加藤清正が担当したとされ、巨石を用いた高石垣が城の威容を伝えている。城内では、自然石を用いた野面積、割石を整えて積む打込接、加工度の高い切込接、隅部の算木積みなど、場所や時期によって異なる石垣を見ることができる。石材には刻印が残るものもあり、天下普請の痕跡を今に伝えている。 |
| 別称 | 金鯱城、金城、柳城 |
|---|---|
| 所在地 | 愛知県名古屋市 |
| 築城 | 1610年 |
| 築城者 | 徳川家康 |
| 住所 | 愛知県名古屋市中区本丸1-1 |
| 電話番号 | 052-231-1700 |
| 開園時間 | 9時~16時30分。本丸御殿・西の丸御蔵城宝館への入場は16時まで |
| 休園日 | 12月29日~1月1日 |
| 観覧料 | 大人500円、中学生以下無料 |
| 備考 | 現在、天守閣は閉館中で内部には入場できない。本丸御殿は9時~16時まで入館可能で、入館料は無料。ただし名古屋城観覧料が必要。名古屋城跡は特別史跡に指定され、日本100名城にも選定されている。 |
現在の城は徳川家康の命令によって築かれ、江戸時代を通して尾張藩藩主の居城になりました。その歴史をひもといて行きましょう。
| 1609年 | 徳川家康が名古屋城の築城と清須からの遷府を決定する |
|---|---|
| 1610年 | 徳川義直の居城として名古屋城の築城が始まる |
| 1610年 | 本丸、二之丸、西之丸、御深井丸の石垣が完成する |
| 1612年 | 大小天守が完成し、大天守に金鯱が上げられる |
| 1612年 | 本丸御殿の造営が始まる |
| 1615年 | 本丸御殿が完成する |
| 1617年 | 二之丸御殿が完成する |
| 1634年 | 三代将軍・徳川家光が上洛の際に本丸御殿上洛殿に宿泊する |
| 1945年 | 名古屋空襲により天守や本丸御殿などが焼失する |
| 1959年 | 天守閣が再建される |
| 2006年 | 日本100名城に選定される |
| 2018年 | 復元された本丸御殿が全面公開される |
現在、復元されている名古屋城は慶長14年(1609年)に築城されました。しかし、名古屋城が建っている場所には、室町時代から那古野城という城があり、これが名古屋城の前身とされています。築城年数は定かではありませんが、16世紀半ばに今川義元の父、今川氏親が築城したと伝えられています。その後、那古野城城主になったのは今川氏豊という人物ですが、彼は天文元年(1532年)に織田信長の父、織田信秀の計略により城を追い出されてしまいます。その後、城は織田信秀の手に渡り織田氏の拠点となりました。なお、織田信長はこの那古野城で生まれたという節もあります。織田信秀は幼い信長を那古野城の城主に据え、自身は天文3年(1534年)に古渡城を築き、そこに移りました。
弘治元年(1555年)に父信秀の後を継いだ織田信長は一族の織田信友を滅ぼした後、拠点を清洲城へと移します。那古野城はその後信長の叔父、織田信光や信長の重臣、林秀貞が入城したと伝えられていますが、やがて廃城となりました。
慶長14年(1609年)徳川家康は清洲から名古屋遷府を命令し、同時に自身の九男である徳川義直の居城として、名古屋城築城を命じました。この徳川義直が「徳川御三家」の1つ、尾張徳川家、つまり尾張藩の祖となります。
城を築く前の整地や石垣造成の普請奉行には、滝川忠征、佐久間政実ら5名が任ぜられました。天守台石垣は普請助役の任に付いていた加藤清正が築いたと記録に残っています。なお、普請助役にはこのほか、寺沢広高・細川忠興・毛利高政・生駒正俊・黒田長政らが任ぜられています。彼らは石垣に用いる石に自らの家紋や名を刻印して大切な石材を管理しました。今でも名古屋城の石垣には刻印が施された石がたくさん残っています。
石垣の造成がわずか4か月で完了すると、作事奉行に大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられ、築城が始まります。大工頭には二条城の建築も行った中井正清が勤めました。慶長16年(1611年)6月より始まった築城は、11月21日には天守が完成するというハイスピードで行われたと伝えられています。
天守が完成した翌年の慶長17年(1612年)からは、清洲から名古屋へ社寺や清洲城小天守までが名古屋に移る、「清洲越し」も始まり、元和2年(1616年)に徳川義直が名古屋城に移り住み、名古屋遷府は完了しました。その後、名古屋城は将軍が上洛の途中で立ち寄ったり宿泊したりする場所としても利用されるようになりました。
明治時代になると名古屋城は藩主の住まいとしての役割を終えます。そして、陸軍の管轄下に入り、取り壊しの危機を迎えます。しかし、全国屈指の名城であることから取り壊し反対の声が上がり、紆余曲折の結果、永久保存されることが決まりました。1893年(明治26)、名古屋城は宮内庁管轄の名古屋離宮となります。しかし、陸軍の管轄下であった頃、二之丸御殿をはじめ多くの建物が、軍の施設を建てるために取り壊されてしまいました。また、1891年(明治24)に発生した濃尾地震により、本丸多聞櫓・西之丸の榎多門(えのきだもん)が倒壊、石垣も一部が崩れ落ちます。その後、榎多門(えのきだもん)と石垣は修復されますが、本丸多聞櫓はそのまま撤去されてしまいました。
名古屋離宮となった後の名古屋城は、天皇陛下をはじめとする皇族の宿泊所になりました。また、本丸多聞櫓に変わって旧江戸城の蓮池門が移築されます。大正12年1923年には、濃尾地震で崩れた西南隅櫓を宮内庁が修復しました。そのため、この櫓の瓦には菊の御紋が刻まれています。
なお、名古屋城のシンボル、金の鯱は明治3年(1870年)に14代尾張藩主であり、初代名古屋藩知事となった徳川慶勝によって宮内庁に献上されたため、いち早く城から下ろされ、日本初の博覧会や、ウィーンで行われた万国博覧会で展示されました。
これにより、名古屋城と金の鯱の知名度は一気に世界的な物になります。その後、鯱は明治19年(1879年)に再び名古屋城天守に戻されました。
昭和5年(1930年)になると、名古屋城は宮内庁から名古屋市に下賜されます。その後、昭和4年(1929年)に制定された国宝保存法により、天守・本丸御殿など場内の24棟の建物が城郭としてはじめて旧国宝に指定されました。昭和6年(1931年)には名古屋城が一般公開され、名実共に城は名古屋のシンボルとなります。
しかし、太平洋戦争中、昭和20年(1945年)の名古屋市北部空襲により、名古屋城は天守や本丸御殿などが焼失しました。焼け残ったのは、東南隅櫓・西南隅櫓・本丸表二之門・二之丸東二之門・二之丸大手二之門・御深井丸の西北隅櫓の6棟だけです。
昭和21年(1946年)には、焼け残った部分だけの一般公開が再開されますが、名古屋城再建の声は高まり、昭和32年(1957年)から天守閣再建工事が始まります。完成は、昭和34年(1959年)でした。これが、現在の名古屋城天守です。
また、平成21年(2009年)からは、残された写真を元に本丸御殿の修復も始まります。平成25年(2013年)、平成28年(2016年)と段階を踏んで公開されていった本丸御殿は、平成30年(2018年)に完全公開を迎えました。
そして現在は、往年の天守閣(木造復元化)が進んでいます。
名古屋城と関連する人物記を読む
| 藩庁 | 名古屋城 |
|---|---|
| 旧地域 | 尾張国愛知郡名古屋 |
| 石高 | 61万9500石 |
| 譜代・外様 | 親藩 |
| 主な藩主 | 徳川家 |
| 推定人口 | 84万人(明治元年) |
尾張徳川家が擁する御三家筆頭藩。石高だけでなく、産業や改革でも紀州家や水戸家を圧倒していた。積極的な経済政策により名古屋城下は東海地区の中核都市として発展した。
愛知県名古屋市にある名古屋城は、徳川家康が豊臣家の抑えとして築城した城です。金の鯱が乗った天守閣から「金鯱城」「金城」などの愛称を持っています。復元天守は老朽化のため2024年現在入城は禁止されていますが、2018年に復元された「本丸御殿」は絢爛豪華な内装で知られ、観光客から人気を博しています。