賤ヶ岳の戦い豊臣秀吉が柴田勝家を下して天下取りへ!
賤ヶ岳の戦い
天正11年(1583年)4月、豊臣秀吉と柴田勝家が近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で激突しました。これが「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれる合戦です。秀吉と勝家の最後の戦いであり、秀吉の天下取りの第一歩ともいえる賤ヶ岳の戦いですが、「美濃大返し」「前田利家の撤退」「お市の方の自害」と気になるキーワードもたくさんあります。今回はそんな賤ヶ岳の戦いについて、解説していきます。
清洲会議で秀吉が勢力を拡大
賤ヶ岳の戦いの原因は、天正10年(1582年)6月27日に開催された清洲会議まで遡ります。6月2日の本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたのち、豊臣秀吉が山崎の戦いで光秀を倒したことで争乱は一段落しました。しかし、織田家の跡継ぎはまだ決まっていません。そこで、織田家筆頭家老の柴田勝家が後継者の決定と領地の再分配のために清州城で会議を開催しました。それが清洲会議です。
このとき集まったのは勝家、秀吉と丹羽長秀、池田恒興の4名。このとき勝家は信長の三男の織田信孝を、秀吉は信長の後継者だった信忠の嫡子で当時わずか2歳の三法師(織田秀信)を推挙しましたが、信長の敵討ちを果たした秀吉の意見が強く、三法師が後継者に決まったというのが通説です。
最近の研究では三法師がいる清州城で会議が開催されたことなどから、「三法師=後継者」路線は決定しており、三法師のサポート体制の話し合いがメインだったという説が有力です。その後、三法師は美濃国(岐阜県)を得た信孝とともに岐阜城に入り、安土城が再建した後安土城に移ることになりました。
領地の再配分については、秀吉が河内国(大阪府)、山城国(京都府南部)、丹波国(京都府中部・兵庫県北部)の3国を得て28万国の加増。勝家は越前国(福井県)安堵のうえ、秀吉の領地だった長浜城と北近江3郡(滋賀県)を得て12万石の加増となりました。この結果、秀吉が一気に力をつけ、勝家との力関係が逆転することになります。
秀吉がここまで成果を得たのは、やはり明智光秀を討ったため。勝家は当時上杉攻めのために越中国(富山県)の魚津城を包囲しており、光秀を討ちたくても上杉側の抵抗にあいその場を動くことができなかったのです。
また、このときの会議の承認により、勝家は信長の妹であるお市の方と結婚しています。この結婚、実は秀吉が進めたものでした。主君の妹の嫁ぎ先を重臣の勝家にすることで、「織田家を乗っ取るつもりはないよ」とアピールするとともに、勝家の不満を押さえこもうとしたのではと言われています。
ちなみに、お市の方と言えば戦国一の美女。勝家や秀吉がお市の方を巡って敵対していたという話がよく小説や漫画で出てきます。そういった恋愛バトルが本当にあったかどうかは定かではありませんが、もし本当なら秀吉としては憧れの美女を敵に渡したわけですから、さぞかし悔しい思いをしたことでしょう。
秀吉と勝家の調略合戦
清洲会議の後、豊臣秀吉と柴田勝家は織田家の2台巨頭として勢力争いを続けます。勝家は、織田信孝や清洲会議に間に合わなかったことで失脚した織田家の重臣・滝川一益を味方につけ、長曾我部元親や雑賀衆などを取り込みます。
秀吉は丹羽長秀や池田恒興、上杉景勝や稲葉一鉄などを味方にしました。さらに、山崎の戦いの跡地である天王山に山崎城を築城し、「信長の敵を討ったのは自分」とアピールしながら、織田家傘下の武将たちと個人的に同盟を結びます。
秀吉の動きに対し、勝家は武将たちと私的に同盟を結んだことを批判する書状を送ります。一方の秀吉は、清洲会議で決めた「安土城を再建し、三法師を安土城に移す」という約束を果たさず、信孝が三法師を囲い込んでいると責める書状を送ります。安土城の再建が数ヶ月で終わるわけがありませんから、こちらは言いがかりですよね。
さらに10月15日から17日、秀吉は自らの養子で信長の4男の秀勝を喪主に、京都の大徳寺で信長の葬儀を大々的に行い、自らが信長の後継者であることを盛大にアピールしました。この時勝家は越後国(新潟県)の北ノ庄城にいましたが、雪で動きにくいことや、秀吉側の武将による暗殺の危険などから葬儀には参加しませんでした。
その代わり、勝家は11月に秀吉に和睦を働きかけます。北陸の越後国は雪が深まると身動きが取れなくなることを懸念したためで、いわば時間稼ぎ。使者として前田利家と金森長近、不破直光を派遣しました。秀吉はこの和睦交渉は時間稼ぎであると理解していたようで、逆に使者たちに味方になるよう調略を仕掛けています(ただし失敗)。
冬がチャンス!秀吉、大軍で長浜・岐阜城攻め
12月、秀吉は「勝家が雪で身動きが取れない今がチャンス!」と和睦を無視して近江に出兵。「信勝が独占している三方師を開放する」という大義名分のもと、5万の大軍を率いて長浜城と岐阜城を攻めました。
長浜城には勝家の養子の柴田勝豊が城主として詰めていましたが、実は勝家と勝豊は不仲でした。こうした家族間の不和を秀吉は巧妙につき、大谷吉継に調略を命じます。その結果、勝豊は長浜城ごと秀吉方に寝返りました。
その後、雪のせいで勝家からの援軍が望めず孤立していた岐阜城の信孝も秀吉に降伏。信孝は三法師を秀吉に引き渡すとともに、母と娘を人質に取られてしまいました。
勝家、滝川一益と巻き返しをはかる
天正11年(1583年)1月、今度は柴田勝家側が攻撃を開始します。伊勢の滝川一益が挙兵し、亀山城や国分城をはじめとした秀吉側の城を奪取。一益自身は伊勢国桑名郡の長島城に籠城して秀吉を迎え撃つ準備を進めました。
秀吉は諸勢力への調略のために京に兵を引いていましたが、2月には7万の大軍を率いて伊勢に侵攻します。亀山城や国分城は取り戻したものの、一益のいる長島城はなかなか落とせません。
こうした状況の中、一益を助けるため、ついに勝家が動きます。雪がまだ残るなか、2月末に近江に向けて出陣するのです。賤ヶ岳の戦いの始まりです。
「賤ヶ岳の戦い」①勝家軍が先制攻撃、砦を落とす
3月12日、柴田勝家は3万の軍を率いて前田利家、佐久間盛政らとともに近江国の柳ヶ瀬に布陣します。対する豊臣秀吉は、1万強の軍を長島城対策として伊勢に残し、約5万の兵を率いて木之本に布陣しました。しばらくは両軍ともに砦を作って自軍の防衛ラインを構築し、敵を偵察しながら戦に備えていました。秀吉側の丹羽長秀も敦賀(福井県)と海津(岐阜県)に出兵して勝家側をけん制したため、戦は膠着状態になります。
そんな状況下で4月16日、秀吉に降伏していた信孝が美濃で再度挙兵します。これにより、秀吉は勝頼の近江に加え、一益の伊勢、信孝の美濃と3方面への対策を迫られました。秀吉は岐阜城に迫る信孝に対処するため、一部の兵を残して美濃に向かいましたが、川の氾濫により足止めを受け、大垣城に入城することになりました。
これをチャンスとみた勝家は4月19日、猛将と名高い佐久間盛政を出陣させます。盛政は最前線の大岩山砦を落とした後、勢いに乗って黒田官兵衛軍を攻撃しますが攻めきれず、大岩山砦の隣の岩崎山砦に布陣していた高山右近にターゲットを変更して撃破。2つの砦を落としたことでさらに勢いづき、勝家の撤退命令を無視して岩崎山砦にとどまりました。
勝家としては、秀吉の大軍に備えるために守備を今一度固めたいところ。敵陣深くに入り込むのは危険との考えでしたが、盛政は止まらず賤ヶ岳砦の桑山重晴へと襲いかかります。
「賤ヶ岳の戦い」②豊臣秀吉の「美濃大返し」
佐久間盛政の動きに反応したのが、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀でした。部下の反対を押し切って賤ヶ岳砦から撤退を始めていた桑名重晴率いる秀吉軍と合流。奮戦の末、盛政軍を撃退して賤ヶ岳砦を奪還しました。
さらに、大垣城の豊臣秀吉も1万5000の兵を率いて賤ヶ岳にひき返します。大垣城から賤ヶ岳砦近くの木之本までは52km。勾配のある丘陵地帯を約5時間という驚異的なスピードで引き返し、夜には木之本に到着しました。俗にいう「美濃大返し」です。
そもそも秀吉が大垣城に入ったのは柴田勝家の油断を誘う計略だったという説が有力です。美濃大返しは想定されていた行軍で、このとき事前準備を担当したのが石田三成だったと言われています。三成はルートを選定し、近隣の民家に松明と握り飯を準備させておきました。兵たちに食料を補給しつつ松明を照らしながら休みなく行軍させ続けることで、美濃大返しが実現できたのです。
とはいえ、5時間で52kmを移動できるのか、疑問が残ります。そもそも武具や防具はどうするのか。こうした疑問に答えるため、NHKが2019年に実施したのが、コンピュータシミュレーションによる大返しの分析と、実際にマラソンランナーにルートを走ってもらう実験です。
その結果、少なくとも騎馬武者は約5時間後には木之本に到着していることが判明。渋滞を避けるため時間差で出発した歩兵は約7時間から8時間かけて到着し、4月21日の深夜2時には全軍が揃ったのではという仮説が生まれました。武具や防具は琵琶湖を水上輸送したと仮定しています。全軍が5時間でルートを走破したという通説より、この仮説の方が有力なように思えますね。
秀吉軍がハイスピードで木之本に押し寄せるなか、盛政は大岩山に布陣していました。秀吉軍が戻るのは少なくとも翌日以降だろうと考えて落ち着いていたところ、4月21日の未明にいきなり秀吉軍が攻めてきます。驚く盛政ですが、「鬼玄蕃」の異名を持つだけあって奮戦。このため秀吉軍はターゲットを勝家の養子、柴田勝政に変更します。盛政は勝政を助けて奮闘し、大激戦となりました。
「賤ヶ岳の戦い」③前田利家が退却
この激戦に一石を投じたのが柴田勝家側の前田利家です。利家は勝家軍の最前線である茂山砦で佐久間盛政と柴田勝政の背後を支えていましたが、いきなり撤退し戦線を離脱してしまいます。
撤退の理由ははっきりしませんが、秀吉が事前に利家を調略していたという説が有力です。もともと秀吉と利家は家族ぐるみの付き合いで仲良しでした。以前勝家の使者として秀吉を訪れた際、秀吉は利家に寝返るよう働きかけていますから、事前に何らかの密約があったのではないでしょうか
なお、利家がはっきり「寝返った」のではなく撤退した理由としては、長年付き合ってきた直属の上司である勝家への思いがあったからだと思われます。秀吉と勝家との間で板挟みに苦しんだ結果、秀吉に消極的に協力することになったのでしょう。
利家の撤退により、勝家軍の守備の陣は崩れ、士気も大きく下がりました。利家たちと対峙していた秀吉軍は盛政軍に集中攻撃を浴びせ、盛政軍は敗退。その後、秀吉軍が勝家の本隊に押し寄せたことで、本隊も総崩れとなり、勝家は北ノ庄城へと逃れました。こうして賤ヶ岳の戦いは秀吉の勝利で幕を下ろしたのです。
勝家、北ノ庄城でお市の方と自害
賤ヶ岳の戦い後も豊臣秀吉は柴田勝家を追撃します。さらに、越中の府中城に退いていた前田利家を味方につけ、追撃郡の先鋒に据えました。ちなみに、勝家は撤退の途中に前田利家と会い、秀吉と和解するようにと諭したという男気あるエピソードが残っています。
勝家は200の兵とともに北ノ庄城に立てこもり城の防備を固めましたが、秀吉軍に包囲されて追いつめられ、自害を決意。お市の方と娘を城から出そうとしましたが、お市の方は残ることを選択したため、3人の娘を秀吉に託しました。そして4月24日、勝家は天守に火をつけ、お市の方や側近とともに自害しました。
ここで登場する3人の娘というのは、浅井長政との間に生まれた茶々、初、江の「浅井三姉妹」のこと。このうち茶々は後に秀吉の側室「淀殿」として豊臣秀頼を産み、大阪夏の陣で豊臣家の一員として自害しました。初は京極高次の正室に。そして江は後の徳川幕府第2代将軍、徳川秀忠に嫁いで3代将軍の徳川家光を産んでいます。
「賤ヶ岳の七本槍」はプロパガンダ?
賤ヶ岳の戦いで大活躍した豊臣秀吉側の武将たちを「賤ヶ岳の七本槍」というのは有名な話ですね。よく知られるのが福島正則や加藤清正といった有名な人物で、他に脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則、加藤嘉明の5名がいます。もとは石河兵助と桜井佐吉を加えて9名いたようで、七本槍というのは語呂合わせ的な意味合いが強かったようです。
この「七本槍」はそもそも秀吉が自分の部下を喧伝するためのプロパガンダとして選ばれたようで、当時から虚名に近いという認識があったという説があります。清正は七本槍の話題を嫌がったという話が残っています。
ちなみに、賤ケ岳の七本槍のうち、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍についたのが加藤清正、福島正則、平野長泰、加藤嘉明で、関ヶ原での本戦に間に合わなかった長泰以外は藩主になっています。石田三成率いる西軍についた3名のうち、脇坂安治は途中で東軍に寝返ったことで本領安堵の後に淡路国(兵庫県)洲本藩主に、片桐且元は徳川家康に許されて大和国(奈良県)竜田藩の初代藩主になっています。糟屋武則は戦後家禄を没収されたようですが、詳しいことは分かっていません、
賤ヶ岳の戦い後、豊臣秀吉は天下統一へ
賤ヶ岳の戦いは豊臣秀吉の勝利に終わりました。柴田勝家は自害、佐久間盛政は捕らえられた後斬首、織田信孝は秀吉軍に降伏した後切腹を命じられて自害しています。滝川一益は出家して蟄居しました。
賤ヶ岳の戦い後、秀吉は戦で中立を貫いた毛利家に勝利を知らせる書状を送付し、暗に臣下になるよう促しました。これを受けた毛利家は秀吉に臣従を誓いました。その後、上杉家などが使者を送り、武将たちは次々と秀吉に臣従を誓っていきます。こうして織田家のトップに躍り出た秀吉は、天下統一への道を本格的に歩み始めるのでした。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。