細川忠興秀吉子飼いの七将

細川忠興

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人物記
名前
細川忠興(1563年〜1646年)
出生地
京都府
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戦いに明け暮れた戦国時代、そんな荒れた時代にも文化の華は大きく咲きました。茶の湯や連歌です。戦国の世で文化を育みながら、室町幕府から織田・豊臣・徳川に仕えた大名が細川忠興です。忠興は細川藤孝の子として生まれ、父の盟友だった明智光秀の娘玉子(ガラシャ)を娶りました。そのような環境の中で忠興は、熊本の大大名にまで上り詰めたのです。今回は、細川忠興を見ていきます。

忠興が生まれた細川家

細川忠興が生まれた細川氏。細川氏と言えば応仁の乱で東軍の総帥となった細川勝元が有名ですが、細川忠興の家はその細川氏の庶流にあたります。
細川氏は後に室町幕府を興す事になる足利氏の一族でした。鎌倉時代、三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)を支配し、この土地を名字とし細川を名乗ります。
南北朝時代になると足利家に従い活躍しました。足利尊氏は支えてくれた細川氏を優遇、畿内(近畿)四国を中心に8ヶ国の守護とします。また将軍家の中でも高い位、管領に就任できる3管領の1つとしました。

細川忠興の父、細川藤孝は三淵晴員の次男として生まれます。そして父晴員の兄であった細川家の支流、細川元常の養子となりました。(細川藤孝が継いだ家などは諸説あります)藤孝は室町幕府13代将軍足利義輝、15代将軍足利義昭に仕えます。
足利義昭は織田信長の助けを借り将軍となりましたが、後に疎まれ都を追われました。そこで藤孝は織田信長に仕える事になります。

忠興の幼少期

永禄6年(1563)、細川忠興は京都で生まれます。室町幕府13代将軍足利義輝に仕えていた細川藤孝の長男として誕生しました。
永禄8年(1565)永禄の変が起き、藤孝が仕えていた足利義輝が殺されます。義輝が殺された事で将軍後継問題が起こり、藤孝など旧義輝家臣たちは尾張、美濃国の大名織田信長を頼り、義輝の弟義昭を担ぎ出します。義昭は15代将軍に就きましたが、やがて信長と義昭が対立。信長は義昭を追放し、室町幕府は終焉を迎えました。
足利義昭に仕えていた細川藤孝は信長に臣従、子の細川忠興は信長の嫡男・信忠に仕えました。

細川忠興は、天正5年(1577)15歳で織田家が行った紀州征伐に加わり初陣を飾ります。
天正6年(1578)に元服。同じ年、主君織田信長の勧めもあり、細川藤孝の盟友であった明智光秀の三女、玉子(ガラシャ)と結婚します。
天正7年(1579)には、細川藤孝、忠興親子、更に舅の明智光秀が丹後国(現在の兵庫県)守護だった一色家を滅ぼします。翌年には丹後国を攻め取った功績として、細川家は丹後の南半分を領地として与えられました。

忠興と本能寺の変

ところが天正10年(1582)6月2日。細川忠興の舅、明智光秀は主君織田信長を本能寺において自害に追い込みました。
光秀は本能寺の変の直後、細川藤孝、忠興の父子を味方に誘います。しかし細川家は明確な回答を出さずに、信長の喪に服し剃髪することを表明しました。事実上、明智家に対する非難の意思表示です。この時、剃髪した事から父藤孝は幽斉、忠興は三斉と号しました。

さらに、忠興の妻で光秀の三女玉子を幽閉します。又、細川藤孝はこの時に隠居したので領地は息子の忠興が統治し、忠興は丹後宮津城主となりました。
細川父子に協力を断られた明智光秀は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と激突した山崎の戦いで敗死します。細川家は明智光秀を討った羽柴秀吉と懇意になり、光秀側に付いた丹後国北部の一色家を亡ぼし、秀吉から丹後全域の領有を許されました。

豊臣家の時代

織田信長が自害し豊臣秀吉の時代に入ると、細川忠興は豊臣政権下で活躍します。小牧・長久手の戦いから九州征伐、小田原征討、朝鮮の役に参戦します。この間、忠興は従四位下・侍従に叙任に叙任されました。
そして豊臣政権下での細川忠興。忠興はこの豊臣家の時代に武人とは別の才能を開花させていきます、文化人としての側面です。

当時流行った茶の湯では千利休に師事し利休七哲の一人に数えられます。利休が秀吉形切腹を命じられたとき、利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行った者は、忠興と古田織部だけであったとされます。
また、武具や甲冑の作成、和歌、能、絵画の造形にも深く携わりました。父の細川藤孝が古今伝授を受け近世歌学を確立させ、武芸百般、和歌、茶道、連歌、蹴鞠等の造詣に深く、当代一の教養人であった血を引いていた故でしょう。

さて文禄4年(1595)の話です。豊臣秀吉の甥、関白豊臣秀次に嫌疑が掛けられ、秀次は切腹を命ぜられました。この時、細川家は秀次に借金があった為に秀次との親密な仲を疑われます。家老の松井康之は奔走し金を用立てて、秀吉に返納しました。この時、細川家に金を貸したのが徳川家康でした。
慶長3年(1598)に豊臣秀吉は亡くなります。この翌年、豊臣家の筆頭であった徳川家康は特に推挙し、細川家に丹後国12万石の他、九州豊後国杵築6万石を加増します。細川家は合計18万石の大名となり、九州には松井康之などの重臣を置いて統治に当たらせました。こうして細川忠興と徳川家康とは距離を縮めていきます。

関ヶ原の戦い

慶長3年(1598)豊臣秀吉が亡くなります。秀吉が亡くなると奉行であった石田三成と秀吉子飼いの武将たちとの間で軋轢が生まれ、三成は武将たちに襲撃を受けます。この時、細川忠興も襲撃側に参加していました。
慶長5年(1600)大老の1人、上杉景勝が徳川家康の行動を問題視します。これに対して家康は、景勝に謀反の疑いがあるとして征討の軍を上げました、忠興もこの軍に加わります。
家康たち征討の軍は大坂を発ち関東まで来ます。すると今度は大坂で石田三成が徳川家康に対して挙兵しました。

この時、家康の軍に参加していた武将たちの妻子は大坂に集められ住んでいました。忠興の妻玉子(ガラシャ)も同様です。石田三成は妻子を人質に取り、家康に付いている武将たちを離反させる事にしました。
ところが武将の妻子たちはこれを拒否します。多くの妻子が屋敷を抜け出し逃げましたが、玉子は逃げる事も人質になる事も拒否します。細川忠興は上杉征討の軍が動いたら、石田三成が立ち上がる事を予期していました。そこで玉子には、人質となるぐらいなら名誉を守り自害するよう言い渡していました。忠興の苛烈な性格の側面が見られます。
キリスト教を信仰していた玉子は自害を拒み、家臣に介錯させ遺体は残らぬように火を付けられました。
玉子が人質となる事を拒み亡くなった事を知った忠興は奮起し、関ヶ原の戦いで活躍します。忠興の奮戦もあり、関ヶ原の戦いでは徳川家康が勝利し、後に石田三成は捕らえられました。

徳川時代

細川家は関ヶ原の戦いを通し、本戦である関ケ原、その前哨戦となった丹後国田辺城の攻防戦、飛び地である九州の豊後国で戦い徳川家に大きく貢献します。
徳川家は貢献の大きかった細川忠興の本領である丹後国を召し上げ、豊前国中津を与えます。それまでの豊後杵築と合わせると40万石にならんとする大大名となりました。

忠興は新領地となった豊前の国に入るとさっそく小倉城を改修し、藩庁とします。この豊前国を細川家が治めていた時の話です。慶長17年(1612)豊前国に船島という島がありました。この島で二人の剣豪が戦い、一人が亡くなります。勝ったのは宮本武蔵、亡くなったのは佐々木小次郎です。そう、この時に行われたのが巌流島の戦いでした。諸説あり定かではありませんが、どちらかが細川家、或いは細川家の重臣の家臣、又は客将(正式に扶持されていない侍)であったと言われています。船島は佐々木小次郎の号をとり、巌流島と呼ばれるようになりました。

元和6年(1620)、忠興は病気の為に家督を三男の忠俊に譲り隠居します。
さて、寛永9年(1632)の話です。加藤清正の息子、忠広が幕府より改易されます。この加藤家が治めていた肥後国熊本を細川家が国替えにより治める事になりました。領地は更に増え約55万国になります。このとき忠興は八代を隠居地として治めました。
この忠興に従って八代に移って来た朝鮮人陶工、金尊楷(上野喜蔵)とその一族が八代の高田焼(こうだやき)を創設します。

そして正保2年(1645)忠興は亡くなりました、享年83。
戦国大名の内でも名門の家に生まれ、勇猛な戦国武将として、またこの時代を代表する文化人の1人として細川忠興は戦国時代を駆け抜けました。この後も熊本は細川家が治め、明治まで続きます。

細川忠興ゆかりの地

長岡京ガラシャ祭
京都府長岡京市は、細川藤孝、忠興が治めた勝龍寺城があった場所です。長岡市全域に古墳や神社仏閣、城跡があり歴史に彩られた町です。平成4年(1992)、勝龍寺城を整備し公園が造成されました。これを記念して、細川忠興の下に嫁いできた玉子(ガラシャ)の輿入れを再現する巡行を行うお祭りが行われるようになります。
毎年11月の第2日曜日、「長岡ガラシャ祭」として輿入れ行列が模様され、その他に飲食ブースやステージイベントなど市民に親しまれるお祭りとなります。
八代城跡松井神社
松井神社は明治14年(1881)、細川家の家臣であった松井家の旧家臣を始め、ゆかりのある人々により創建されました。祭神は、肥後細川家筆頭家老の松井康之です。
松井康之は、もともと細川藤孝などと共に足利義輝に仕えていました。ところが義輝が永禄の変で亡くなると、足利家の家臣は離散します。松井康之は細川藤孝と行動を共にしました。二人は同輩の関係として、最初は織田家でも扱われます。ところが藤孝が丹後国を領するようになる頃から主従関係への形に変わり筆頭家老となりました。
松井康之は文武に優れ、細川家の外からも一目置かれる存在でした。その為、江戸時代に入ると松井家は肥後細川家の筆頭家老であり、松井康之の子に跡継ぎが生まれなかった事から細川家から養子を貰ったので細川家一門に準じる家ともなり、肥後八代城主であり、徳川家直参の資格も持っていました。細川家躍進を支えた家です。
この松井康之を祭神とした神社、松井神社は細川忠興の住居があった場所でもありました。その神社の中には樹齢三百数十年の梅の木、臥竜梅(がりゅうばい)があり、熊本県天然記念物にも指定されています。この梅の木は細川忠興が「八代から百花の魁となる人材出でよ」と念じて、自ら植えたと伝えられている名木です。
勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)
勝龍寺城は、現在の京都府長岡京市勝竜寺にあった城です。
室町時代前期、山城国守護畠山義就が郡代役所として築城したと考えられています。
戦国時代に入ると位置的に都の近くにある事から軍事拠点となり、度々城の城主は変わります。
元亀2年(1571)、細川藤孝は山城西岡地域を織田信長より与えられました。この時、藤孝は勝龍寺城主となり、堅固な城に改修したとされます。やはり都に近い槇島城と共に、都を守る拠点として信長も重要視していました。
天正6年(1578)8月には細川忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が婚姻を結び、新婚生活を送った城でもありました。細川藤孝は天正9年(1581)に丹後に入封し、藤孝の後は織田家の代官が勝龍寺城の城主となります。そして江戸時代初期にはこの地域一帯の拠点が淀城となった事も有り、勝龍寺城は廃城となりました。
現在、城のあった場所には勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓や模擬の土塁などが往時をしのばせています。また、令和元年(2019)には展示室や園内看板などが新装され城の出土遺物を展示し紹介しています。
田辺城
田辺城(たなべじょう)は、京都府舞鶴市にあった城で別名は舞鶴城(ぶがくじょう)とも言います。鎌倉幕府・室町幕府には丹波国守護所の後身ともされています。
天正6年(1578)、細川藤孝は織田信長の命によって守護大名の一色家を滅ぼし、この地を治める事になりました。はじめは宮津城を居城としましたが田辺城を築き、経営の中心地とします。藤孝の隠居後は、忠興が居城としました。
田辺城で有名な話は関ヶ原の戦いです。慶長5年(1600)当主であった細川忠興は石田三成の誘いを蹴り、徳川家康に付きました。石田三成に味方した大名は徳川方に付いた近畿の城を攻撃します。この時、細川藤孝は宮津城にいましたが、藤孝もまた例外ではなく石田方に攻められました。藤孝は宮津城では防げないと考え、田辺城に移り籠城します。小勢の藤孝に対して石田方は15000の兵で囲み50日戦います。しかし藤孝を失う事を嘆いた後陽成天皇が間に立って調停し、藤孝は城を退去しました。
細川家は江戸時代に入ると豊前国小倉に転封されます。その後、京極家、牧野家と領主が続き明治時代を迎えました。現在の田辺城跡は舞鶴公園になっており、田辺城資料館、天守台石塁などが復興されています。
熊本城
熊本城は現在の熊本県熊本市中央区にある城で、別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」とも呼ばれています。
室町時代、肥後国守護菊池氏の一族がこの地に「隈本城」を築いた事が始まりとされます。
戦国時代も末期、豊臣秀吉の時代に入ると佐々成政が領主として入りますが、成政は経営に失敗し切腹させられます。その後に領主として入ったのが加藤清正でした。清正は隈本城の場所に新たに城を築き、江戸時代まで工事を続け熊本城を建てました。
ところが加藤清正の子、加藤忠広はその行動から藩主としての資格に疑問を持たれ、江戸幕府は加藤家を取り潰します。その加藤家の後に入ったのが細川家でした。細川家は明治時代になるまで領主として君臨し、城の拡張を続けました。
明治時代になると、熊本城は陸軍の施設となります。西郷隆盛が明治政府に反抗した西南戦争では、明治政府の重要施設であり、西郷軍の攻略目標となります。熊本の地は、両軍が戦った激戦地となります。この戦いの直前、熊本城の天守閣は謎の大爆発を起こし焼失しました。
現在の熊本城は、櫓・城門・塀が現存し、13棟(櫓11棟、門1棟、塀1棟)が国の重要文化財に指定され城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定。
平成28年(2016)に起こった熊本地震により被災し、熊本城は復興作業が続いています。
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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。