中津藩(1/2)福沢諭吉を輩出

黒田家の家紋「藤巴」

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藩史
藩名
中津藩(1587年〜1871年)
所属
大分県
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中津藩は、現在の大分県中津市一帯を治めていた藩です。豊臣秀吉に知略で使えた黒田孝高と、肥後細川氏の祖である細川忠興氏が築いた中津城を藩庁とし、幕末まで4つの家が治めました。福沢諭吉を輩出した藩として知られています。そんな中津藩の歴史を紐解いていきましょう。

黒田氏・細川氏の統治

中津藩の基礎を築いたのは江戸時代以前と関ヶ原の戦い前後に中津の地を治めていた黒田氏と細川氏です。
黒田孝高は、豊臣秀吉に豊前国6郡12万3000石を与えられて中津に入り、黒田城の築城を開始しました。
しかし、黒田孝高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで戦功を立てたため、増石のうえ「福岡藩」へ移封になります。

黒田氏の後に中津の地を与えられたのが、肥後細川氏の祖である細川忠興です。
細川忠興は築城途中であった中津城を20年以上の歳月を得て完成させるとともに、城下町を整えました。
今でも中津市では細川忠興が整えた城下町の痕跡や地名を見ることができます。

なお、細川忠興は慶長7年(1602年)小倉城を築城、自身もそこへ移ったことで藩の名前が「小倉藩」となり、中津藩は支藩扱いになりますが、寛永9年(1632年)に細川氏が肥後藩へ移封となっため、再び中津藩は独立した藩となりました。

小笠原氏の統治

細川氏が肥後藩に移封になった後、播磨国龍野から、譜代大名小笠原長次が8万石で移動してきました。
この時期、九州北部はすべて譜代大名小笠原氏の支配下となっています。

初代藩主小笠原長次こそ、新田開発をしたり新田開発をしたりして藩の発展に貢献しましたが、2代目藩主小笠原長勝は、藩政を放り出して奢侈にふけり参勤交代の費用すら事欠く有様になりました。ついに幕府からお仕置きを受けるまでになったので、相当目に余る悪政を敷いたことが察せられます。

長勝は信濃守に左遷され、その後を甥である小笠原長胤が継ぎます。3代目藩主となった彼は藩主になってしばらくは大規模な治水工事を行って新田開発などを試みましたが、工事費がさらに藩政を圧迫するようになると、それに嫌気がさしたのか先代同様藩政をおろそかにするようになりました。

家臣がいさめるも聞き耳持たず、ついに幕府は元禄11年(1698年)に小笠原長胤を改易します。通常なら、ここで小笠原氏は断絶となりますが、先祖の功績を考慮されて4万石に減石されたうえ、初代藩主小笠原長次の孫にあたる小笠原長円が跡目を継ぐことを許されました。

しかし、長円も暗愚な藩主で2代藩主、3代藩主同様藩政を放り出して奢侈におぼれ、30代で死去します。
その後を長男の小笠原長?がわずか6歳で継ぎますが夭折し、ここに小笠原氏は断絶しました。
幕府に咎められるほどの悪政を3代続けて藩主が行った例はひどく珍しいといえます。

奥平家の統治

小笠原氏が五代で途絶えた後、代わって中津藩に入ったのは奥平昌成です。
彼は、下野国宇都宮藩主、丹後国宮津藩主を経て10万石で中津藩藩主になりました。
この奥平家が明治時代になるまで中津藩を治めます。

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執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。