武田勝頼偉大な父の後で苦労した優秀な武将
武田勝頼
武田 勝頼(たけだ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代に甲斐・信濃国を本拠とした戦国大名です。
父は武田信玄、その四男として生まれました。武田家を継いだ後、偉大な父の残した家臣たちの統制に苦労しました。周囲には、尾張の織田信長や三河の徳川家康といった有力大名とも敵対、長篠の戦いで敗北しました。
そのような悲運の武将であった武田勝頼を今回はご紹介したいと思います。
武田勝頼の誕生
武田勝頼は、天文15年(1546)、武田信玄の四男として生まれます。
母は信濃国諏訪(現在の長野県諏訪市付近)領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人でした。勝頼は躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられています。
母の実家であった諏訪家は父の信玄と同盟関係にありましたが手切れ(同盟破棄)となり、信玄は諏訪に侵攻、諏訪一族は滅亡しました。
武田家は信濃侵攻を本格化して越後国(現在の新潟県)の上杉家と対決し、永禄5年(1562)の川中島の戦いを経て、信濃平定が一段落します。晴信は信濃の統制に関して、かつて信濃を支配していた家に自らの子供たちを養子として送り出すことで融和策をとりました。勝頼の異母弟である仁科盛信は仁科家を継承し、勝頼も母の実家であった諏訪家の名跡を継いで、名前も諏訪四郎勝頼となります。
諏訪勝頼は信濃高遠城主となり、独自の裁量権を持った領主として武田家を支える事から戦国武将の人生を始めました。
初陣は、永禄6年(1563)の上野国(現在の群馬県)箕輪城攻めです。長野家の家臣・藤井豊後が、物見から帰るところを追撃し討ち取りました。その後の箕輪城、倉賀野城攻め等でも功を挙げます。その他に勝頼は、永禄12年(1569)、武蔵国(現在の東京都)滝山城攻めで北条氏照の家老・諸岡山城守と三度槍を合わせたとされます。そのほか小田原城攻めからの撤退戦では殿を務め、松田憲秀の家老・酒井十左衛門尉と馬上で一騎討ちを行いました。勝頼個人の勇気と力は大変に秀でており、武将としては大変優秀でした。
義信事件と家督相続
永禄8年(1565)、武田信玄の嫡男、武田義信とその傅役である飯富虎昌ら家臣が晴信の暗殺を企てました。ところが虎昌の実弟である飯富三郎兵衛の密書により計画は露見、虎昌以下は謀反の首謀者として処刑され義信も幽閉されます。
この頃の信玄は従来の信濃侵攻から、織田家と同盟して今川家が統治していた東海方面への侵攻を進めていました。
しかし桶狭間の戦いで戦死した今川義元の娘を妻とする義信を中心とした親今川派と対立が起こり、暗殺計画はそれを起因としていました。
次兄の竜宝は生まれつき盲目のために出家し、三兄の信之は夭逝していたことから、四男の勝頼が後継者と定められます。
もともと長男でもなく諏訪家を継いでいた勝頼が、武田家に戻って跡を継ぐことになったのです。このことが後々、家臣の統制を難しくする理由の一つになっていきます。
ところが織田家と友好関係を保っていた武田家は、諸勢力とともに将軍・足利義昭の信長包囲網に参加し、織田家と同盟を破棄すると元亀3年(1572)には西上作戦を開始しました。勝頼も西上作戦に参加し、12月には三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍と戦います。
しかし元亀4年(1573)4月12日、信玄が西上作戦の途中で病死してしまいました。
そこで急遽勝頼が諏訪姓から武田姓に戻り、家督を相続して武田家第20代当主となります。表向きは信玄の死を隠して隠居とし、勝頼が家督を相続しました。
長篠の戦い
元亀4年(1573)武田信玄が死去しました。この信玄の死と武田家の撤退により息を吹き返したのが織田信長と徳川家康です。
信長は窮地を脱すると室町幕府15代将軍である足利義昭を河内国に追放し、反織田勢であった朝倉家や浅井家を滅ぼしました。また家康も武田氏に従っていた奥平貞能を寝返らせるなど、武田家の西上で失った勢力を挽回していきます。
武田家を継いだ勝頼は、織田家や徳川家の勢力回復に対抗するため、信濃から美濃国(現在の岐阜県)や遠江国(現在の静岡県西部)へ攻め入り軍事活動で抵抗します。
天正3年(1575年)、勝頼は徳川家に寝返った奥平家を討伐するために15000人の兵を率いて三河国へ侵入しました。5月には奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始します。ところが長篠城に立て籠った奥平家は粘りを見せ、攻城戦に時間が掛かりました。
そこへ織田家と徳川家の連合軍およそ38000人が長篠(設楽ヶ原)に到着し、馬防柵を含む陣城の構築を開始します。これに対し、勝頼は長篠城の抑えに兵を残し、12000人を率いて設楽ヶ原へ進出、織田・徳川連合軍と対峙しました。初戦の戦闘では勝利していたこともあり武田軍の士気は高かったですが、兵力差もあって決戦か撤退かで議論が紛糾しました。しかし勝頼は、決戦を選びます。
5月21日、午前6時頃長篠の戦いが始まります。数で劣る武田軍でしたが、果敢に攻勢に出て連合軍の陣地へ攻め寄せます。何度かの攻勢を試みましたが、兵力の差と鉄砲を大量に打ちかけられて武田軍は総崩れとなりました。この敗走する中で織田家や徳川家の追撃は鋭く、武田家を支えてきた家臣を次々に失っていきます。
勝頼は菅沼定忠に助けられ一時的に武節城へ篭りましたが、最終的に退却しました。
この敗北で、武田軍は1万人以上の死傷者を出してしまいました。
織田家や徳川家も、必要以上の追撃は行わず長篠の戦いは終了します。ここから数年、武田家は徳川家と遠江国や駿河国(現在の静岡県東部)において一進一退の戦いを行いました。
御館の乱
長篠合戦で敗北した武田家は再建のため外交に力を入れます。そこで長年敵対してきた越後国(現在の新潟県)上杉家との同盟を模索します。上杉家とは川中島の戦い以降も緊張関係が続いていました。
天正3年(1575年)、都を追われた将軍足利義昭は武田家と北条家、それに上杉家の三者の間での和睦をするよう呼びかけます。武田家は上杉家や北条家と同盟し安定した状況を求めていたので申し出に同意します。
上杉家は武田との和睦には反対しませんでしたが、北条家との和睦には難色を示しました。北条・上杉間の不和により三家の同盟は実現しなかったものの、武田と上杉の和睦は成立し外交状況の改善に成功しました。
ところがその3年後の天正6年(1578年)、上杉家の当主であった上杉謙信が病死します。謙信には子供がおらず、上杉家の跡継ぎは決められていませんでした。そこで二人の候補が名乗りを上げます。北条氏政の弟で、上杉謙信に養子として出されていた上杉景虎(旧名・北条三郎)と、謙信の姉の子で謙信の養子となっていた上杉景勝です。
この二人の間で家督を巡って争いが起こりました、御館の乱です。勝頼は北条氏政から弟の景虎支援を要請され、勝頼自身が越後国へ出兵し、景勝・景虎間の調停を試みました。その中で景勝方から武田家へ和睦が持ちかけられ、受け入れています。勝頼は上杉景勝と和睦し、その条件であった上杉領を武田家へ譲り受けると、一方で景虎方との和睦調停も継続し、両者の和睦を成立させました。
勝頼は徳川家が武田領へ侵攻してきたので越後から引き返します。その間に景勝・景虎間の和睦は破綻し、天正7年(1579年)には上杉景勝の勝利により乱は収束します。
結果として勝頼は景勝にも景虎にも加担はしませんでした。ところが北条氏政が要請した景虎の応援が果たされなかったので武田家は北条家と険悪な関係となり、同盟関係は破綻しました。
徳川・北条氏の戦い
武田勝頼は織田家や徳川家に対抗する為、上杉家と同盟関係になりましたが、北条家と関係が悪化します。
天正7年(1579)、4月には勝頼は駿河江尻城へ出兵すると、徳川家と対峙します。また7月には東上野(現在の群馬県)に進出、北条家とも対峙しています。
こうして勝頼が各地の勢力と対峙している間に状況はますます悪化していきました。
天正7年(1579年)9月には徳川・北条間で同盟が成立し、北条氏政が沼津から三島へ侵攻、家康も氏政に同調し、武田領へと出兵しています。
反対に翌天正8年(1580)勝頼が出兵し北条家や徳川家と対峙しました。
こうして毎年、甲斐信濃の外に出兵を繰り返したので、武田家家臣の中に不満が積もっていきました。
勝頼の死
天正9年(1581年)、勝頼は新府城(現在の山梨県韮崎市)を築城し、本拠移転を開始します。
同年3月には徳川軍の攻撃によって武田家の高天神城が窮地に陥りました(高天神城の戦い)。この頃信長との和睦を試みていた勝頼は信長を刺激することを警戒し、後詰を派遣することができずに高天神城は落城してしまいます。
城を攻められているのにもかかわらず、応援に行かなかった事で武田家の家臣は大きく動揺しました。また、織田家はこれを契機に高天神城落城の喧伝を行い、織田・徳川からの調略が激しくなり、一門衆や日和見の国人の造反も始まります。
天正10年(1582)2月、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が美濃国の豪族・遠山友忠に仲介を頼み、織田方に寝返ります。同時期に駿豆国境を守る一門の穴山梅雪も徳川家に内応を約束していました。
この武田家の内部崩壊により織田家の武田家討伐が始まります。織田信忠が美濃国から、金森長近が飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻を開始しました(甲州征伐)。そして、同時期の2月14日に浅間山が噴火します。
周辺国から甲斐信濃を攻められ、浅間山が噴火した事は不吉な前触れとして武田家では動揺が広がります。組織的な抵抗は、勝頼の弟の仁科信盛が籠城した高遠城だけでした。
抵抗が出来なくなった勝頼は新しく築城した新府城を放火し、逃亡します。しかし天目山において織田家の追っ手に追いつかれ最期は自害しこの世を去りました(天目山の戦い)。享年37。
辞世は「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは 」。
この天目山で嫡男の信勝や正室の北条夫人も自害したため、甲斐武田家の宗家は途絶えました。しかし、武田信玄の次男で盲目であった海野信親は生き残り江戸時代、その子孫が高家武田家として代を重ねていきました。
躑躅ヶ崎館と新府城そして甲府城
武田信虎、晴信(信玄)、勝頼が居城としていたのが躑躅ヶ崎館です。躑躅ヶ崎館は、勝頼の祖父である武田信虎が永正16年(1519)、甲斐国山梨郡(現在の山梨県甲府市)に建てました。以来60年以上、甲斐武田家の居城となります。
ところが武田家が長篠の戦いで敗北し、それ以降形成が不利となると、天正9年(1581年)3月に御一門衆の穴山信君(梅雪)が勝頼に対し献策し新府城を築城します。新府城は周辺の地形全体が軍事的意味をもっていたことを考慮に入れれば非常に大規模な城でしたが、その直後に武田家が滅亡したこともあり未完成でした。
武田家の滅亡の後、甲斐の支配者となったのは織田家でしたが、織田信長も本能寺の変で討たれると徳川家が支配します。徳川家康は、最初の間は躑躅ヶ崎館を甲斐の拠点としていましたが、後に甲府城の築城に着手しました。
その後、豊臣家により支配されると関東に移封された徳川家康を監視する重要拠点として甲府城の整備は進められます。しかし関ヶ原の戦いの後、再び徳川家の支配となり甲斐は甲府を中心に統治されていきました。
現在、躑躅ヶ崎館の跡地には武田神社が創建され今に至ります。
新府城の跡地には昭和48年(1973)に「新府城跡」として国の史跡に指定されており、保存のため公有地化されました。本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されています。
甲府城は明治に入ると廃城となり建物は撤去され石垣だけが残ります。戦後、城跡の一部が「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として整備され、現在は市民のために開放されています。
武田勝頼のゆかりの場所
- 五郎山と仁科盛信の祠
- 武田家討伐に訪れた織田信忠と戦った仁科五郎盛信(武田信玄の5男)の祠があります。
天正11年(1582年)織田信忠は武田氏討伐の為、岐阜から信濃路に沿って50000人の兵を率い進撃してきました。仁科盛信は他の一族や家臣が武田家から離脱する中、勝頼の命令で高遠城主となり500人の兵で籠りこれを迎え撃ちます。
戦いは熾烈を極めましたが、高遠城は落城、盛信は討死しました。織田の兵が高遠から引き上げると、村の農民たちは盛信以下諸士の屍を捜して持ち帰り、火葬してこの山に埋めました。
以来この山は五郎山と呼ばれるようになり、盛信と武田の兵を祀る祠と像があります。 - 長篠設楽原(ながしのしたらがはら)パーキングエリア
- 愛知県新城市にある新東名高速道路のパーキングエリアです。PA周辺は長篠設楽原の戦いが起きた場所で、下りPAからは隣接する織田信長本陣跡に徒歩で移動できます。 パーキングエリアに設置されている建物は、上りと下りで特色を出した作りとなっています。上り(東京方面)は長篠設楽原の戦いにおける武田軍、下り(名古屋方面)は織田・徳川連合軍の本陣をイメージしたものです。
- 信玄ミュージアム
- 信虎、信玄、勝頼の武田氏三世代がすごした躑躅ヶ崎館、その跡地に建てられたのが武田神社です。その武田神社のそばに、武田氏の歴史や躑躅ヶ崎館の発掘調査の成果などを紹介する「甲府市武田氏館跡歴史館」があります。
エリア内には、ガイダンスやミュージアム機能を備えた展示室のほか、歴史講座やワークショップに活用できる学習室も併設します。また館内では、VR体験も実施していて武田の歴史を体験できます。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。