賤ヶ岳の戦い(2/2)豊臣秀吉が柴田勝家を下して天下取りへ!

賤ヶ岳の戦い

記事カテゴリ
事件簿
事件名
賤ヶ岳の戦い(1583年)
場所
滋賀県
関連する城

長浜城

岐阜城

大垣城

関係する人物

そんな状況下で4月16日、秀吉に降伏していた信孝が美濃で再度挙兵します。これにより、秀吉は勝頼の近江に加え、一益の伊勢、信孝の美濃と3方面への対策を迫られました。秀吉は岐阜城に迫る信孝に対処するため、一部の兵を残して美濃に向かいましたが、川の氾濫により足止めを受け、大垣城に入城することになりました。

これをチャンスとみた勝家は4月19日、猛将と名高い佐久間盛政を出陣させます。盛政は最前線の大岩山砦を落とした後、勢いに乗って黒田官兵衛軍を攻撃しますが攻めきれず、大岩山砦の隣の岩崎山砦に布陣していた高山右近にターゲットを変更して撃破。2つの砦を落としたことでさらに勢いづき、勝家の撤退命令を無視して岩崎山砦にとどまりました。

勝家としては、秀吉の大軍に備えるために守備を今一度固めたいところ。敵陣深くに入り込むのは危険との考えでしたが、盛政は止まらず賤ヶ岳砦の桑山重晴へと襲いかかります。

「賤ヶ岳の戦い」②豊臣秀吉の「美濃大返し」

佐久間盛政の動きに反応したのが、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀でした。部下の反対を押し切って賤ヶ岳砦から撤退を始めていた桑名重晴率いる秀吉軍と合流。奮戦の末、盛政軍を撃退して賤ヶ岳砦を奪還しました。

さらに、大垣城の豊臣秀吉も1万5000の兵を率いて賤ヶ岳にひき返します。大垣城から賤ヶ岳砦近くの木之本までは52km。勾配のある丘陵地帯を約5時間という驚異的なスピードで引き返し、夜には木之本に到着しました。俗にいう「美濃大返し」です。

そもそも秀吉が大垣城に入ったのは柴田勝家の油断を誘う計略だったという説が有力です。美濃大返しは想定されていた行軍で、このとき事前準備を担当したのが石田三成だったと言われています。三成はルートを選定し、近隣の民家に松明と握り飯を準備させておきました。兵たちに食料を補給しつつ松明を照らしながら休みなく行軍させ続けることで、美濃大返しが実現できたのです。

とはいえ、5時間で52kmを移動できるのか、疑問が残ります。そもそも武具や防具はどうするのか。こうした疑問に答えるため、NHKが2019年に実施したのが、コンピュータシミュレーションによる大返しの分析と、実際にマラソンランナーにルートを走ってもらう実験です。

その結果、少なくとも騎馬武者は約5時間後には木之本に到着していることが判明。渋滞を避けるため時間差で出発した歩兵は約7時間から8時間かけて到着し、4月21日の深夜2時には全軍が揃ったのではという仮説が生まれました。武具や防具は琵琶湖を水上輸送したと仮定しています。全軍が5時間でルートを走破したという通説より、この仮説の方が有力なように思えますね。

秀吉軍がハイスピードで木之本に押し寄せるなか、盛政は大岩山に布陣していました。秀吉軍が戻るのは少なくとも翌日以降だろうと考えて落ち着いていたところ、4月21日の未明にいきなり秀吉軍が攻めてきます。驚く盛政ですが、「鬼玄蕃」の異名を持つだけあって奮戦。このため秀吉軍はターゲットを勝家の養子、柴田勝政に変更します。盛政は勝政を助けて奮闘し、大激戦となりました。

「賤ヶ岳の戦い」③前田利家が退却

この激戦に一石を投じたのが柴田勝家側の前田利家です。利家は勝家軍の最前線である茂山砦で佐久間盛政と柴田勝政の背後を支えていましたが、いきなり撤退し戦線を離脱してしまいます。

撤退の理由ははっきりしませんが、秀吉が事前に利家を調略していたという説が有力です。もともと秀吉と利家は家族ぐるみの付き合いで仲良しでした。以前勝家の使者として秀吉を訪れた際、秀吉は利家に寝返るよう働きかけていますから、事前に何らかの密約があったのではないでしょうか

なお、利家がはっきり「寝返った」のではなく撤退した理由としては、長年付き合ってきた直属の上司である勝家への思いがあったからだと思われます。秀吉と勝家との間で板挟みに苦しんだ結果、秀吉に消極的に協力することになったのでしょう。

利家の撤退により、勝家軍の守備の陣は崩れ、士気も大きく下がりました。利家たちと対峙していた秀吉軍は盛政軍に集中攻撃を浴びせ、盛政軍は敗退。その後、秀吉軍が勝家の本隊に押し寄せたことで、本隊も総崩れとなり、勝家は北ノ庄城へと逃れました。こうして賤ヶ岳の戦いは秀吉の勝利で幕を下ろしたのです。

勝家、北ノ庄城でお市の方と自害

賤ヶ岳の戦い後も豊臣秀吉は柴田勝家を追撃します。さらに、越中の府中城に退いていた前田利家を味方につけ、追撃郡の先鋒に据えました。ちなみに、勝家は撤退の途中に前田利家と会い、秀吉と和解するようにと諭したという男気あるエピソードが残っています。

勝家は200の兵とともに北ノ庄城に立てこもり城の防備を固めましたが、秀吉軍に包囲されて追いつめられ、自害を決意。お市の方と娘を城から出そうとしましたが、お市の方は残ることを選択したため、3人の娘を秀吉に託しました。そして4月24日、勝家は天守に火をつけ、お市の方や側近とともに自害しました。

ここで登場する3人の娘というのは、浅井長政との間に生まれた茶々、初、江の「浅井三姉妹」のこと。このうち茶々は後に秀吉の側室「淀殿」として豊臣秀頼を産み、大阪夏の陣で豊臣家の一員として自害しました。初は京極高次の正室に。そして江は後の徳川幕府第2代将軍、徳川秀忠に嫁いで3代将軍の徳川家光を産んでいます。

「賤ヶ岳の七本槍」はプロパガンダ?

賤ヶ岳の戦いで大活躍した豊臣秀吉側の武将たちを「賤ヶ岳の七本槍」というのは有名な話ですね。よく知られるのが福島正則や加藤清正といった有名な人物で、他に脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則、加藤嘉明の5名がいます。もとは石河兵助と桜井佐吉を加えて9名いたようで、七本槍というのは語呂合わせ的な意味合いが強かったようです。

この「七本槍」はそもそも秀吉が自分の部下を喧伝するためのプロパガンダとして選ばれたようで、当時から虚名に近いという認識があったという説があります。清正は七本槍の話題を嫌がったという話が残っています。

ちなみに、賤ケ岳の七本槍のうち、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍についたのが加藤清正、福島正則、平野長泰、加藤嘉明で、関ヶ原での本戦に間に合わなかった長泰以外は藩主になっています。石田三成率いる西軍についた3名のうち、脇坂安治は途中で東軍に寝返ったことで本領安堵の後に淡路国(兵庫県)洲本藩主に、片桐且元は徳川家康に許されて大和国(奈良県)竜田藩の初代藩主になっています。糟屋武則は戦後家禄を没収されたようですが、詳しいことは分かっていません、

賤ヶ岳の戦い後、豊臣秀吉は天下統一へ

賤ヶ岳の戦いは豊臣秀吉の勝利に終わりました。柴田勝家は自害、佐久間盛政は捕らえられた後斬首、織田信孝は秀吉軍に降伏した後切腹を命じられて自害しています。滝川一益は出家して蟄居しました。

賤ヶ岳の戦い後、秀吉は戦で中立を貫いた毛利家に勝利を知らせる書状を送付し、暗に臣下になるよう促しました。これを受けた毛利家は秀吉に臣従を誓いました。その後、上杉家などが使者を送り、武将たちは次々と秀吉に臣従を誓っていきます。こうして織田家のトップに躍り出た秀吉は、天下統一への道を本格的に歩み始めるのでした。

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関係する人物
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。