三木城兵庫県三木市

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  • 冬
  • 別所長治が羽柴秀吉の兵糧攻めに耐えた東播磨の城
  • 「三木の干殺し」と呼ばれる長期包囲戦の舞台となった城
  • 周囲の付城・包囲土塁とともに国指定史跡となった土の城

三木城とは、兵庫県三木市上の丸町にある室町時代後期から江戸時代初期の城跡である。15世紀末頃、赤松氏の重臣であった別所則治が築いたと考えられている。美嚢川左岸の三木台地北端に位置し、本丸、二の丸、新城、鷹尾山城、宮ノ上要害などを組み合わせた大規模な平山城であった。戦国時代には東播磨に勢力を広げた別所氏の居城となり、天正6年(1578)には城主別所長治が織田信長に反旗を翻したことで、羽柴秀吉との三木合戦が始まった。秀吉は周囲に多数の付城と土塁を築いて兵糧の搬入を断ち、「三木の干殺し」と呼ばれる包囲戦を展開した。天正8年(1580)、長治らの自害によって三木城は開城した。その後も城として使用されたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。現在は本丸跡や二の丸跡などが整備され、周辺の付城跡・土塁とともに国の史跡に指定されている。

三木城の特長
目的 別所氏の居城、東播磨支配の拠点、美嚢川流域の監視、播磨の交通路の掌握、城下町形成の中心、織田氏の播磨攻略に対する防衛拠点
特長 別所則治、別所長治、羽柴秀吉、織田信長、三木合戦、三木の干殺し、兵糧攻め、美嚢川、釜山、本丸、二の丸、鷹尾山城、土塁、空堀、付城、包囲土塁、かんかん井戸、伝天守台、国指定史跡
他の城との違い ・東西約600m、南北約700mに及ぶ、戦国時代の播磨を代表する大規模な土の城である
・羽柴秀吉が周囲に多数の付城と包囲土塁を築き、兵糧の搬入を遮断した城として知られる
・城跡だけでなく、攻め手が築いた付城跡や土塁も一体となって国指定史跡に指定されている
・本丸跡には伝天守台やかんかん井戸が残り、発掘調査では堀や瓦葺き礎石建物跡などが確認されている
三木城の石垣・土塁
石垣 確認されていない
土塁 一部現存。城郭周辺の付城跡や包囲土塁にも遺構が残る
種類 土塁、空堀、堀切、曲輪、虎口、付城、包囲土塁、平山城、中世城郭
石材 石垣を主体とする城郭ではないため、該当なし
特長 三木城は、石垣ではなく土塁と堀によって守られた戦国時代の平山城である。美嚢川左岸の台地北端に本丸と二の丸を置き、南側には新城、鷹尾山城、宮ノ上要害などを配置して防御を固めていた。本丸跡には伝天守台やかんかん井戸が残り、発掘調査では城内を区画する堀や瓦葺き礎石建物跡が確認されている。ただし、伝天守台は堀が埋められた後に造成されたことが判明しており、天守の存在を直接示すものではない。また、三木合戦では羽柴秀吉が周囲に多数の付城と土塁を築き、三木城への交通と兵糧の搬入を遮断した。文化庁の説明では、付城を結ぶ包囲土塁は総延長約5.5kmに及び、そのうち約2.5kmが現存している。三木城では、城本体の土塁や堀だけでなく、周囲の付城と包囲土塁を含めて見ることで、戦国時代の攻城戦の仕組みを理解できる。
三木城DATA
別称 釜山城、別所城
所在地 兵庫県三木市
築城 15世紀末頃、別所則治が築いたと考えられる
築城者 別所則治
住所 兵庫県三木市上の丸町5番付近
電話番号 0794-82-5060(三木市立みき歴史資料館)
開館時間 城跡は見学自由。みき歴史資料館は9時~17時、入館は16時30分まで
休館日 城跡は見学自由。みき歴史資料館は月曜日、月曜日が祝日の場合は開館、祝日の翌日、年末年始12月28日~1月4日
入館料 城跡、みき歴史資料館ともに無料
備考 三木城は平成25年(2013)3月27日、周辺の付城跡や土塁とともに「三木城跡及び付城跡・土塁」として国の史跡に指定された。現在の本丸跡は上の丸公園として整備され、伝天守台、かんかん井戸、別所長治の騎馬像などがある。二の丸跡には三木市立みき歴史資料館があり、三木合戦や三木の歴史に関する資料を展示している。三木合戦に際して築かれた付城は約40ヶ所と推定され、そのうち20ヶ所が現存するとされる。史跡をめぐる際は、三木城跡だけでなく、秀吉の本陣が置かれたと伝わる平井山ノ上付城跡などもあわせて訪れると、長期包囲戦の全体像が分かりやすい。
三木城への交通アクセス
神戸電鉄粟生線「三木上の丸」駅、徒歩約4分。

HISTORY 三木城について

三木城の歴史
15世紀末頃 赤松氏の重臣であった別所則治が、美嚢川左岸の三木台地北端に三木城を築いたと考えられる
室町時代後期 三木城は別所氏の居城となり、東播磨支配の中心的な城郭として発展する
戦国時代 別所氏が東播磨で勢力を拡大し、三木城の本丸、二の丸、周囲の曲輪や防御施設が整備される
1554年 三好長慶の勢力が東播磨へ進出し、別所氏と三好氏の抗争が起こる
1572年頃 別所長治が織田信長と主従関係を結び、織田氏の勢力下に入る
1577年 織田信長が羽柴秀吉に中国地方の毛利氏攻略を命じ、秀吉が播磨へ進軍する
1578年3月 別所長治が織田氏に反旗を翻して毛利方に付き、三木合戦が始まる
1578年7月 織田信忠の軍勢が三木城周辺に付城を築き、三木城を包囲する。平井山ノ上付城は後に秀吉の本陣となる
1578年~1579年 秀吉軍が周囲に付城や土塁を築き、三木城への兵糧搬入路を遮断する長期包囲戦を展開する
1579年4月 織田信忠が三木城周辺に新たな付城を築き、包囲網を強化する
1579年6月 羽柴秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛が、三木城を包囲する平井山の陣中で病死する
1579年9月 平田大村合戦が起こる。毛利方による三木城への兵糧搬入が阻止され、城内の食料不足が深刻化する
1579年10月 秀吉軍がさらに付城と包囲土塁を整備し、三木城への補給路をほぼ遮断する
1580年1月 秀吉軍が三木城への最終攻勢を開始し、鷹尾山城などの防御拠点を攻略する
1580年1月17日 別所長治が城兵の助命を条件に降伏を受け入れ、一族とともに自害する。三木城は開城し、約1年10ヶ月に及ぶ三木合戦が終結する
1580年以降 羽柴秀吉の支配下となり、杉原家次、前野長康らが城主を務める
1585年 中川秀政が三木城主となる
1592年 中川秀成が三木城主となる
1590年代 中川氏の転封後、三木は豊臣氏の直轄地となる
1600年 関ヶ原の戦い後、池田輝政が播磨姫路へ入り、三木城には家老の伊木忠次が配置される
1615年 一国一城令により三木城が廃城となる
江戸時代 城郭としての役割は失われるが、三木は交通と商業の拠点として発展する
20世紀後半 三木城跡の発掘調査が進み、本丸・二の丸の堀跡や礎石建物跡、備前焼大甕群などが確認される
2013年 3月27日、三木城跡と周辺の付城跡・土塁が一体となって国の史跡に指定される
2016年 二の丸跡に三木市立みき歴史資料館が開館する
現在 三木城本丸跡、二の丸跡、鷹尾山城跡や周囲の付城・包囲土塁などが保存され、三木合戦の歴史を伝える史跡として公開されている