黒井城兵庫県丹波市

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  • 夏
  • 秋
  • 冬
  • 「丹波の赤鬼」と呼ばれた赤井直正の居城
  • 明智光秀の丹波攻めで激しい攻防が繰り広げられた山城
  • 土塁・空堀と野面積の石垣が残る国指定史跡

黒井城とは、兵庫県丹波市春日町にある南北朝時代から戦国時代の城跡である。建武2年(1335)、赤松貞範が築いたと伝えられるが、正確な築城時期は明らかではない。標高約356mの猪ノ口山に築かれ、山頂に本丸、二の丸、三の丸を置き、周囲の尾根には砦や曲輪を配置した大規模な山城である。天文23年(1554)には赤井直正が黒井城主となり、城の大規模な改修を進めた。直正は「丹波の赤鬼」と呼ばれ、天正4年(1576)には明智光秀の攻撃を退けたが、天正6年(1578)に病死。翌天正7年(1579)、黒井城は明智軍によって攻略された。その後、光秀の重臣斎藤利三らによって石垣を備えた城郭へ改修されたと考えられている。現在は本丸周辺の石垣、土塁、空堀、曲輪などが残り、国指定史跡として保存されている。

黒井城の特長
目的 赤井氏・荻野氏の居城、奥丹波支配の拠点、丹波・但馬方面の交通路の監視、織田氏の丹波攻略に対する防衛拠点、丹波攻略後の地域統治
特長 赤松貞範、赤井直正、荻野直正、丹波の赤鬼、明智光秀、斎藤利三、春日局、猪ノ口山、保月城、山城、野面積、算木積、二重石垣、土塁、空堀、曲輪、興禅寺、続日本100名城
他の城との違い ・「丹波の赤鬼」と呼ばれた赤井直正が居城とし、明智光秀の攻撃を退けた城である
・山頂の主郭部だけでなく、三方に延びる尾根に砦群を配置し、山全体を要塞化している
・赤井直正時代の土の城と、明智氏による丹波攻略後の石垣城郭の特徴が残る
・本丸や二の丸周辺には野面積の石垣が残り、初期的な算木積も確認できる
黒井城の石垣・土塁
石垣 現存
土塁 現存
種類 野面積、初期的な算木積、二重石垣、土塁、空堀、堀切、曲輪、虎口、山城
石材 自然石を主体とした石材。加工の少ない石を組み合わせた野面積の石垣が残る
特長 黒井城の石垣は、猪ノ口山の山頂部に位置する本丸、二の丸、大手口などに残る。丹波市の説明では、赤井直正時代の土の城に加え、明智光秀による丹波攻略後、斎藤利三らの時代に築かれた石垣が残されているとされる。石垣には自然石を加工せずに積む野面積が用いられ、隅角部では初期的な算木積も確認できる。本丸と二の丸の間には長さ約30m、高さ約5mの石垣が残り、東曲輪では二重石垣も見られる。また、山頂から延びる尾根には土塁、空堀、堀切、曲輪などが広範囲に配置されている。黒井城では、山全体を利用した戦国時代の防御構造と、石垣を取り入れた織豊期の築城技術を比較することができる。
黒井城DATA
別称 保月城、保築城
所在地 兵庫県丹波市
築城 建武2年(1335)に赤松貞範が築いたと伝えられるが、確証はない。戦国時代に赤井直正が大規模に改修した
築城者 赤松貞範(伝承)。戦国期の大規模改修は赤井直正、石垣の整備は斎藤利三らの時代とされる
住所 兵庫県丹波市春日町黒井ほか
電話番号 0795-70-0819(丹波市教育委員会 社会教育・文化財課)
開館時間 城跡は見学自由
休館日 城跡は見学自由
入館料 無料
備考 黒井城は平成元年(1989)8月11日に国の史跡に指定され、続日本100名城の163番に選定されている。標高約356mの猪ノ口山を中心に、広範囲に曲輪、土塁、空堀、石垣などが残る。山麓の興禅寺はかつての下館跡で、明智光秀の重臣斎藤利三の娘である春日局の出生地と伝えられている。登城口から山頂までは約20~50分で、急坂や滑りやすい場所があるため登山に適した装備が必要。周辺ではクマやイノシシの目撃情報もある。続日本100名城スタンプは春日住民センターに設置されており、押印時間は9時~22時、12月29日~1月3日は休館となる。
黒井城への交通アクセス
JR「黒井」駅、徒歩約21分。

HISTORY 黒井城について

黒井城の歴史
1335年 赤松貞範が丹波国春日部荘を与えられ、黒井城を築いたと伝えられるが、確証はない
室町時代 赤松氏に代わり荻野氏が黒井城を支配し、奥丹波の拠点として利用する
1554年 赤井直正が荻野秋清を討ち、黒井城主となる。以後、赤井氏・荻野氏の勢力拡大とともに城の大規模改修が進む
1565年頃 赤井直正が丹波各地へ勢力を広げ、黒井城は奥丹波支配の中心的な城となる
1570年 赤井直正は織田信長から丹波奥三郡の所領を安堵されるが、その後、反織田勢力と結びつく
1575年 織田信長の命を受けた明智光秀が丹波攻略を開始し、黒井城への攻撃を進める
1576年 明智光秀が黒井城を包囲するが、波多野秀治らの離反によって明智軍が敗退し、黒井城は攻撃を退ける
1577年 明智光秀が再び丹波攻略を開始し、黒井城を含む赤井氏・荻野氏の勢力圏に攻撃を加える
1578年 3月、赤井直正が病死する。その後は一族の赤井忠家らが黒井城の防衛を担う
1579年 明智光秀の軍勢が黒井城を包囲し、8月9日に落城する。これにより丹波攻略が完了する
1579年以降 明智光秀の重臣斎藤利三が黒井城の城代となり、山麓の下館を拠点に奥丹波の統治を進める
安土桃山時代 斎藤利三らによって山頂部の石垣が整備され、黒井城は石垣を備えた城郭へ改修されたと考えられている
1579年頃 斎藤利三の娘で、のちに徳川家光の乳母となる春日局が、黒井城下の下館で生まれたと伝えられる
1582年 本能寺の変と山崎の戦いで明智光秀・斎藤利三が敗死し、その後、羽柴秀吉の家臣堀尾吉晴が黒井城に入る
安土桃山時代末期 堀尾氏や川勝氏らによって利用された後、黒井城は城としての役割を終えていく
1989年 8月11日、黒井城跡が国の史跡に指定される
2017年 日本城郭協会により、黒井城が続日本100名城のひとつに選定される