高天神城跡静岡県掛川市

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高天神城跡DATA
別称 鶴舞城
築城 不明
住所 静岡県掛川市上土方嶺向3136
高天神城跡への交通アクセス
JR掛川駅からバス約24分、徒歩約16分。

HISTORY 高天神城跡について

高天神城跡と関連する事件を読む

甲州征伐信長・家康が武田氏を攻め滅ぼす
天正10年(1582年)2月から3月にかけて、織田信長が徳川家康らとおこなったのが武田氏を攻める「甲州征伐」。跡継ぎ問題による内乱や、長篠の戦いに敗れたことで弱体化した武田氏を信長は見逃さず、大軍をも
高天神城の戦い武田vs徳川の遠江攻防戦
遠江国(現静岡県西部)の要衝・高天神城(静岡県掛川市)は、「高天神を制する者は遠州を制す」と言われるほど重要な拠点でした。このため戦国時代には、高天神城をめぐって武田氏と徳川氏が激しい覇権争いを繰り広

高天神城跡と関連する人物記を読む

武田勝頼偉大な父の後で苦労した優秀な武将
武田 勝頼(たけだ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代に甲斐・信濃国を本拠とした戦国大名です。父は武田信玄、その四男として生まれました。武田家を継いだ後、偉大な父の残した家臣たちの統制に苦労しまし
武田信玄風林火山の旗を掲げた甲斐の虎
戦国時代を通じて、日本を統一し江戸幕府を開いたのは徳川家康でした。その家康が戦って敗北し、また尊敬した人物が甲斐(現在の山梨県)の武田晴信(後年出家して武田信玄と名乗りました)です。また家康と並び戦国
徳川家康戦国時代を終わらせた天下人
皆さんは戦国時代について、どういった印象をお持ちでしょうか。例えば戦国時代の三英傑である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康。家康は1600年の関ケ原の戦い後、江戸幕府を開きました。三河の岡崎(現在の愛知県)

高天神城跡、徳川と武田の激戦地

静岡県掛川市にあった高天神城は、「高天神を制する者は遠州を制す」と言われた要衝です。戦国時代には徳川氏と武田氏が城をめぐって激しく争いました。標高132mの鶴翁山にあり、「鶴舞城」の別名を持ちます。続日本100名城にも選ばれています。

高天神城跡
高天神城跡の歴史
高天神城は今川氏家臣の福島氏が築いたとされる、3方向が断崖絶壁の難攻不落の山城です。なお、鎌倉時代初めに土方義政が城砦を築いた、または室町時代の半ばに今川了俊が築いた、という異説もあります。
福島氏の没落後は、今川氏の重臣・小笠原氏が城代となります。その後、今川氏は永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、急速に衰退しました。その後、永禄11年(1568年)に武田信玄が駿府を、徳川家康が遠江を攻め、掛川城の戦いで今川氏真が敗退すると、高天神城の小笠原氏は遠江の支配者となった家康に仕えるようになりました。
通説によれば元亀2年(1571年)、武田信玄が遠江に侵攻し、高天神城を包囲。元亀3年(1572年)には高天神城と浜松城を結ぶ二俣城が信玄により落とされ、高天神城は孤立したといわれています。ただし、現在では発掘調査などの結果から、信玄は高天神城を攻めていなかった、という説が有力です。
信玄の死後、跡を継いだ武田勝頼は遠江を支配しようと、要衝の高天神城を狙います。天正2年(1574年)5月、高天神城を武田軍2万5000が包囲します(高天神城の戦い)。高天神城を守るのは小笠原長忠をはじめとした1000名の兵士たち。守り切れないと踏んだ家康は織田信長に援軍を要請しますが、援軍は間に合わず、6月に高天神城は落城しました。このとき、高天神城を奪取した勝頼は城を大改修しています。
武田氏のものとなった高天神城でしたが、武田氏が天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れると、徳川軍は高天神城を攻めようと、城の補給路となる諏訪原城など周辺の城を攻撃しました。このため高天神城の周囲では武田軍と徳川軍の間で熾烈な戦いが起こりました。
補給路を絶った徳川軍は天正8年(1580年)8月、高天神城を包囲するための「高天神六砦」を完成させました。そして10月に5000の軍で高天神城を攻めます(第二次高天神城の戦い)。当時高天神城を守っていた岡部元信は、武田勝頼に援軍を求めましたが、勝頼は当時の情勢から援軍を送れませんでした。
その後、高天神城は兵糧攻めに苦しめられた挙句、天正9年(1581年)3月、激戦の末落城。その後城は廃城となりました。
江戸時代は高天神城の遺構のみが残っていましたが、明治9年(1876年)に地元の有志達が地域のシンボルとして模擬天守を建設。なお、本来の高天神城には天守はありません。そんな模擬天守も第二次世界大戦下に炎上・焼失し、その後再建されることはありませんでした。
高天神城跡は昭和50年(1975年)に国の史跡に指定され、平成10年度(1998年度)から掛川市が発掘調査を実施。戦国時代の高天神城の様子が徐々に明らかになってきています。
高天神城跡の巡り方:搦手門からの登城がおすすめ
高天神城跡は中央の井戸曲輪をはさみ、東峰に本丸や御前曲輪、的場曲輪、三の丸、西峰に西の丸、二の丸、堂の尾曲輪、井楼曲輪と分かれています。城跡はハイキングコースとして整備されてはいますが、山に適した歩きやすい靴や服装で訪れるのがおすすめです。
登城口は北側の搦手門、南側の追手門の2種類。広い駐車場がある搦手門からのルートは、登山道も整備されているので楽にアクセスでき、おすすめです。一方の追手門は頂上までの距離は近いものの、道が悪いところがあるので注意しましょう。
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高天神城跡の見どころ①随所に残る横堀や堀切
高天神城跡にはさまざまな場所に横堀や堀切が残ります。特に西峰の場合、発掘調査によればそれぞれの曲輪の西側斜面の下に総延長約100m、幅4m、深さ2mの横堀があったことが分かっており、その一部を見ることができます。尾根をV字に切り開いた堀切は、今はだいぶ埋まっているものの、当時は6mの深さを誇っていたとのこと。歩いて高天神城の要衝ぶりを実感しましょう。
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高天神城の見どころ②大河内石窟
本丸の北側斜面には大河内正局が捕らわれていたという「大河内石窟」があります。高天神城の戦いで武田勝頼に徳川軍が敗れた際、軍監を務めていた正局は唯一城の明け渡しに反対。このため武田軍に捕らえられて幽閉されました。なお、約8年後、徳川軍が高天神城を奪還した際、救出されています。
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高天神城の見どころ③甚五郎抜け道
西峰の馬場平から続く「甚五郎抜け道」は、非常に狭く歩きにくいことから、犬や猿も恐れて戻る「犬戻り・猿戻り」とも言われています。こちらは天正9年(1581年)に城が徳川方により落城される際、武田方の軍監・横田甚五郎が通ったとされる道です。甚五郎は細い尾根道を決死の思いで馬で走り抜け、甲州の武田勝頼に落城を伝えました。歩きにくいので、訪問する際はしっかりとした装備を備えましょう。
高天神城跡のフォトスポット
おすすめなのが高天神城の東峰にある御前曲輪跡。「高天神六砦」の一つの「火ヶ峰砦」が見えるほか、晴れた日は富士山が望めます。また、西峰の馬場平は見晴らしがよい抜群のフォトスポットで、遠州灘が一望できます。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。