諏訪原城跡静岡県島田市

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諏訪原城跡DATA
別称 牧野城、牧野原城、扇城
築城 1573年
住所 静岡県島田市金谷
諏訪原城跡への交通アクセス
JR金谷駅から徒歩約25分。

HISTORY 諏訪原城跡について

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甲州征伐信長・家康が武田氏を攻め滅ぼす
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高天神城の戦い武田vs徳川の遠江攻防戦
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武田勝頼偉大な父の後で苦労した優秀な武将
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武田信玄風林火山の旗を掲げた甲斐の虎
戦国時代を通じて、日本を統一し江戸幕府を開いたのは徳川家康でした。その家康が戦って敗北し、また尊敬した人物が甲斐(現在の山梨県)の武田晴信(後年出家して武田信玄と名乗りました)です。また家康と並び戦国
徳川家康戦国時代を終わらせた天下人
皆さんは戦国時代について、どういった印象をお持ちでしょうか。例えば戦国時代の三英傑である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康。家康は1600年の関ケ原の戦い後、江戸幕府を開きました。三河の岡崎(現在の愛知県)

諏訪原城跡、日本最大級の丸馬出が残る山城

静岡県島田市にある諏訪原城は、武田勝頼が築いた山城です。戦国末期の武田流築城術が残り、丸馬出や三日月堀などが見応えがあります。続日本100名城にも選ばれています。

諏訪原城跡
諏訪原城跡の歴史
諏訪原城は天正元年(1573年)、甲斐武田氏の当主・武田勝頼が、徳川家康の勢力拡大を防ぐために築かせた城です。普請奉行は武田四天王の一人・馬場信房(信春)で、補佐を武田信豊が担当しました。名前の由来は城内に諏訪大明神を祀ったことからだと言われています。
諏訪原城は駿河国(静岡県中部)と遠江国(静岡県西部)の国境、牧野台地の北端部に近い、標高212mから220mの台地に築かれました。勝頼としては高天神城攻めの足がかりとして位置付けていたようです。
天正2年(1574年)5月、勝頼は高天神城を落とすことに成功します。その後は徳川家康の本拠地である三河攻略に乗り出しますが、翌天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、多くの重臣を失ってしまいます。
勢力が弱まった武田氏に対し、家康は次々と武田方の城を攻めていきます。天正3年8月(※諸説あり)、家康は諏訪原城を攻め落としました。
諏訪原城の落城後、徳川方は城の名前を「牧野城(牧野原城)」と改称して利用しました。この時城は整備され、堀や塀などが改修されました。
家康は諏訪原城を高天神城攻めの拠点として活用。天正9年(1581年)3月に高天神城を落とします。その後、織田信長とともに武田氏を攻める「甲州征伐」がはじまり、天正10年(1582年)3月、天目山の戦いで勝頼は自刃し、武田氏は滅亡しました。
すると城の必要性が薄れ、さらに家康が関東に移ったこともあり、天正18年(1590年)頃、牧野城は廃城となりました。
昭和29年(1954年)、城跡の一部が静岡県の史跡となり、昭和50年(1975年)に国の史跡に指定。平成28年(2016年)。薬医門の形式で二の曲輪の北馬出し城門が再建されました。平成29年(2017年)には続日本100名城に選ばれており、現在は堀や曲輪、馬出などの遺構が残ります。
諏訪原城跡の見どころ①二の曲輪の中馬出
諏訪原城跡の最大の見どころは、武田流築城術の象徴である三日月堀と半円状の曲輪からなる「丸馬出」です。馬出は虎口を守るために門の外に設けた防御設備のこと。
武田氏が築いたものと思われがちですが、近年の発掘調査により、徳川氏の城になってから土塁や堀などを改修したことが分かっています。これにより、徳川家康が武田流築城術を上手く活用しつつ、牧野城を堅固な城に改修した可能性が高いのでは、との説が指摘されました。
諏訪原城内には現在丸馬出が数か所ありますが、代表的なのが城のシンボル的存在の二の曲輪中馬出。日本最大級の大きさを誇る馬出で、当時の形が良好な状態で残されています。
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諏訪原城跡の見どころ②城内に残る空堀
諏訪原城には空堀が縦横に走っており、散策して回ることができます。地図を片手に周ると、城の攻めにくさが)実感できます。
城を囲む巨大な空堀も見どころの一つ。最大で深さ約8m、幅25mにも及びます。
諏訪原城跡の見どころ③本曲輪
諏訪原城の本曲輪は眺めの良さで知られています。城は大手側は平坦ですが、裏にあたる本曲輪東側は断崖絶壁で、城の眼下を大井川が流れるという天然の地形が城の守りを深くしていました。
現在東側からは大井川に島田市や藤枝市の市街地を一望できます。天気が良い日には富士山や駿河湾を望めます。
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諏訪原城跡の見どころ④ビジターセンター
諏訪原城ビジターセンターでは、諏訪原城の歴史や構造などをパネル展示で確認できます。さらに発掘調査で出土した陶器や鉄砲玉などの資料も展示されています。
島田工業高校の学生によるジオラマは、徳川方の城になった諏訪原城を武田方が攻撃している様子を描いたもの。迫力満点のジオラマは、ラグビーボールを持った武士がいるなど、随所に遊び心が隠されています。
諏訪原城跡の撮影スポット
諏訪原城は山城なので、草が生い茂る夏以外の訪問が写真を撮るのにおすすめ。二の曲輪中馬出堀と、本曲輪東側からの撮影は欠かせません。また、天気が良い日は復元された薬医門を額縁にして、なかの富士山を撮影するのもおすすめです。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。