興国寺城静岡県沼津市

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  • 北条早雲、伊勢宗瑞の旗揚げの城として知られる城
  • 今川氏・後北条氏・武田氏・徳川氏が争った境目の城
  • 大土塁と幅20mを超える大空堀が残る国指定史跡

興国寺城とは、静岡県沼津市根古屋にある戦国時代から江戸時代初期の城跡である。愛鷹山の尾根である篠山を利用して築かれ、北条早雲、伊勢新九郎盛時の旗揚げの城として知られる。盛時は、今川氏の家督争いで今川氏親を助けた功により、長享2年(1488)頃に富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となったとされる。その後、明応2年(1493)に伊豆の堀越公方足利茶々丸を攻め、戦国大名としての第一歩を踏み出した。興国寺城は駿河・伊豆・相模方面を結ぶ位置にあり、今川氏、後北条氏、武田氏、徳川氏の勢力がせめぎ合う境目の城となった。現在は本丸、二ノ丸、三ノ丸、北曲輪、清水曲輪などの跡が残り、大土塁、大空堀、伝天守台、石火矢台などを見ることができる。

興国寺城の特長
目的 駿河東部の軍事拠点、伊豆・相模方面への進出拠点、根方街道・東海道の監視、今川氏・後北条氏・武田氏・徳川氏の境目の城、東駿河支配の拠点
特長 北条早雲、伊勢宗瑞、伊勢新九郎盛時、今川氏親、今川氏、後北条氏、武田氏、徳川氏、天野康景、根方街道、東海道、篠山、大土塁、大空堀、伝天守台、石火矢台、穂見神社、続日本100名城
他の城との違い ・北条早雲、伊勢宗瑞が戦国大名として歩み出すきっかけとなった城として知られる
・駿河・伊豆・相模を結ぶ境目にあり、今川氏・後北条氏・武田氏・徳川氏の争奪の場となった
・石垣の城というより、大土塁と大空堀を中心にした土の城である
・伝天守台では礎石建物跡が確認されているが、瓦の出土がないため、一般的な天守閣とは異なる建物だったと考えられている
興国寺城の石垣・土塁
石垣 一部現存。伝天守台周辺に石垣遺構が残る
土塁 現存
種類 土塁、空堀、大土塁、大空堀、石垣遺構、伝天守台、石火矢台、曲輪、山城、境目の城、中世城郭
石材 現地周辺の石材。石垣を主体とする城ではなく、土塁と堀を中心にした城である
特長 興国寺城は、石垣よりも土塁と空堀が見どころとなる城である。沼津市の説明では、北から北曲輪、本丸、二ノ丸、三ノ丸が直線状に造られ、東側に清水曲輪が配されていたとされる。本丸背後には伝天守台があり、そのさらに背後には幅20m以上の大空堀が残る。文化遺産オンラインでも、本丸最高部に天守台伝承地と石垣遺構が残るほか、土塁・堀の遺構が良好に残ると説明されている。興国寺城では、石垣の高さよりも、大土塁、大空堀、曲輪の並び、根方街道や東海道を監視する立地を合わせて見るのが自然である。
興国寺城DATA
別称 根古屋城、杜若城、高国寺城
所在地 静岡県沼津市
築城 築城時期は明確ではない。長享2年(1488)頃、伊勢新九郎盛時、のちの北条早雲が興国寺城主となったとされる
築城者 築城者は不明。伊勢新九郎盛時、今川氏、後北条氏、武田氏、徳川氏らにより整備・利用された
住所 静岡県沼津市根古屋428
電話番号 055-935-5010(沼津市 文化財センター)
開館時間 城跡は見学自由。続日本100名城スタンプは興国寺城跡本丸の穂見神社境内では終日押印可能。浮島地区センターは9時~21時、月曜日と祝日の翌日は17時まで
休館日 城跡は見学自由。浮島地区センターは年末年始12月29日~1月3日休館
入館料 無料
備考 興国寺城は国指定史跡で、続日本100名城の145番に選定されている。沼津市公式では、平成7年(1995)3月に国の史跡に指定され、現在も整備に伴う発掘調査が続けられていると説明されている。見どころは、本丸背後の大土塁、伝天守台、その背後に残る幅20m以上の大空堀である。伝天守台からは原の市街地や駿河湾を望むことができる。続日本100名城スタンプは、興国寺城跡本丸の穂見神社境内「興国寺城跡説明看板」横と、浮島地区センターに設置されている。
興国寺城への交通アクセス
JR原駅から徒歩約39分。

HISTORY 興国寺城について

興国寺城の歴史
築城時期不明 愛鷹山の尾根である篠山を利用して、興国寺城の前身となる城郭が築かれたと考えられる
1476年 今川義忠が急死し、今川氏の家督争いが起こる
1488年頃 伊勢新九郎盛時が、甥の今川氏親を助けた功により富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となったとされる
1493年 伊勢新九郎盛時が伊豆韮山の堀越公方足利茶々丸を攻め、伊豆へ進出する
戦国時代 盛時はのちに北条早雲と呼ばれ、興国寺城は後北条氏の出発点として語られるようになる
戦国時代 興国寺城は、駿河東部の境目の城として、今川氏、後北条氏、武田氏の勢力争いに関わる
1568年 武田信玄が駿河へ侵攻し、駿河東部の城々は武田氏・今川氏・後北条氏の抗争の中に置かれる
1582年 武田氏滅亡後、興国寺城周辺は徳川氏と後北条氏の勢力が接する地域となる
1590年 小田原合戦により後北条氏が滅亡し、興国寺城は豊臣政権下の東国支配の中に組み込まれる
1601年 徳川家康の家臣である天野康景が1万石の城主となる
1607年 天野康景が出奔し、興国寺城は廃城となる
1982年 伝天守台の発掘調査で、東西2棟の礎石建物跡が確認される
1995年 3月17日、興国寺城跡が国の史跡に指定される
2017年 日本城郭協会により、興国寺城が続日本100名城のひとつに選定される
現在 国指定史跡として保存整備と発掘調査が進められ、大土塁、大空堀、伝天守台、曲輪跡を見学できる城跡となっている

興国寺城、北条早雲ゆかりの駿河東部の名城

静岡県沼津市にある興国寺城は、戦国大名・北条氏の祖となった北条早雲(伊勢盛時、伊勢宗瑞)ゆかりの城として知られる平山城です。駿河・甲斐・相模の境に近い要衝にあり、今川氏、北条氏、武田氏、徳川氏などの争奪戦の舞台となりました。江戸時代初期に廃城になり、現在は城跡が残っています。2017年に「続日本百名城」に選ばれました。

興国寺城
興国寺城の歴史
興国寺城は愛鷹山から南へ延びる尾根の先端に築かれた城です。城の南側には浮島沼が広がり、東西には根方街道、さらに南には東海道が通る交通の要所に建てられました。
築城年代は明らかになっていませんが、江戸時代に記された『北条記』『今川記』といった軍記物等によれば、伊勢盛時こと後の北条早雲が、今川氏親の家督相続を助けた功績により、長享元年(1487年)頃、富士郡下方12郷を与えられ、興国寺の城主となったとされています。
ただし、興国寺拝領に関する史料は確認されておらず、盛時が城主だったとする従来説を疑問視する研究もあり、議論が続いています。
伊勢盛時は興国寺城を拠点に伊豆へ進出し、明応2年(1493年) に伊豆韮山の足利茶々丸を攻撃。これが東国における戦国時代の始まりとされています(諸説あり)。伊豆国を奪取した盛時は明応7年(1498年)、韮山城へ本拠を移しました。
その後、興国寺城は駿河東部を支配する重要な城として今川氏、武田氏、北条氏の間で争われることとなります。
当初は今川氏の支配下にあり、天文18年(1549年)には今川義元が城地にあった興国寺を移転し、城域を拡大しています。その後、城は北条氏が治めるようになり、元亀2年(1571年)に北条氏と武田氏が和睦し甲相同盟が復活すると、興国寺城は武田方の城となります。天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると、駿河国は徳川家康の領国となり、興国寺城も徳川氏の支配下に入りました。
ところが同年6月に本能寺の変で信長が死去すると、旧武田領をめぐって家康と北条氏直らが争う「天正壬午の乱」が発生します。駿河と伊豆の境に近い興国寺城は、北条氏への備えとして重要な役割を担いました。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めでは北条氏が滅亡し、家康が関東へ移封されます。興国寺城には駿河を所領とした秀吉の家臣・中村一氏の家臣である河毛重次が残りました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、駿河は再び徳川氏の勢力下となります。翌慶長6年(1601年)、興国寺城には1万石を与えられた天野康景が入り、興国寺藩1万石が成立しました。この河毛・天野時代に城は大規模な改修が行われ、本丸の背後に大空堀が設けられたと推測されています。
しかし慶長12年(1607年)、康景の家臣が城の修築用の竹木を盗もうとした幕府直轄領の領民を殺害する事件が発生します。康景は幕府から犯人の引き渡しを求められましたが拒否し、息子とともに城を捨てて相模国西念寺に蟄居してしまいます。
康景の出奔によって興国寺藩は廃藩となり、興国寺城も廃城になり、城跡はその後農地となりました。
城跡は昭和50年代から沼津市による調査が行われ、平成7年(1995年)には「興国寺城跡」として国の史跡に指定されました。その後も発掘調査や保存整備が進められ、平成29年(2017年)には「続日本100名城」に選ばれました。
発掘調査から、城は本丸を中心に北曲輪、二の丸、三の丸などを直線状に並べた「連郭式」の縄張りだったことが分かっています。
興国寺城の見どころ①巨大な本丸大土塁
興国寺城最大の見どころは、本丸北側にそびえる巨大な大土塁です。高さは最大10m以上で、まるで巨大な壁のようです。
土塁上には「伝天守台」と呼ばれる場所があり、発掘調査では2棟の礎石建物跡が発見されました。ただし、瓦の出土がないことから、一般的な瓦葺の天守ではなかったと推察されています。
伝天守台からは市街地と駿河湾の景色が楽しめます。
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興国寺城の見どころ②本丸を守る巨大な空堀
本丸北側の土塁を越えると、その背後には巨大な空堀があります。土塁と空堀を組み合わせることで北側から侵入する敵を防ぐ構造です。
最大幅約30m、深さ20mを超える巨大な空堀は迫力満点。 土塁の上からはもちろん、ぜひ下に降りて堀底から見上げて深さを実感してほしいところです。
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興国寺城の見どころ③本丸にある穂見神社
本丸の一角には「根古屋高尾山穂見神社」が鎮座しています。これは本社の山梨県南アルプス市にある「高尾山穂見神社」から安政4年(1857年)に分祀された神社です。続百名城のスタンプが置かれていることでも知られています。
神社の近くには「北条早雲公碑」「天野康景公碑」が建てられています。
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興国寺城のフォトスポット
おすすめのフォトスポットは、本丸北側の巨大な土塁です。本丸側から見上げて壁のように撮影するもよし、北側大堀切の下から撮影して高さを強調するもよし、いろいろな構図を試してみてくださいね。
また、土塁上から本丸方面を見下ろすと、城が築かれた地形や曲輪の広がりが分かりやすく、城全体の規模感が分かりますよ。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。