長浜城滋賀県長浜市

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長浜城DATA
別称 今浜城
築城 1573年
住所 滋賀県長浜市公園町10-10
電話番号 0749-63-4611
開館時間 9:00〜17:00(入館受付時間は16:30まで)
休館日 展示替等による臨時休館、閉室あり
登閣料 大人410円/小・中学生200円
長浜城への交通アクセス
JR北陸本線長浜駅から徒歩7分。

HISTORY 秀吉の出世城と呼ばれた長浜城

長浜城は、滋賀県長浜市に存在した平城です。豊臣秀吉(羽柴秀吉)が築城した城で、秀吉が出世の階段を登り始めた時期に建てられた城であることから、秀吉の出世城とも呼ばれています。 そんな長浜城の歴史を紐解いていきましょう。

長浜城の築城
長浜の地は京極氏から浅井氏の手に渡り、天正元年(1573年)小谷城の戦いで浅井長政が滅ぼされた後、織田信長がこの戦で功績があった豊臣秀吉に与えました。豊臣秀吉はこの頃まだ「木下藤吉郎」と名乗っていましたが、長浜の地を与えられたことをきっかけに、はじめて城持ちの大名になったのです。豊臣秀吉の出世のはじまりとなった、小谷城の戦いは織田信長の妹、市とその娘3人を無事に浅井長政の元から救い出したエピソードも含めて、ドラマや映画で何度も描かれています。
当時、長浜は「今浜」と呼ばれていましたが、豊臣秀吉は織田信長の一字をとって「長浜」と改名しました。 長浜城の築城にあたり、豊臣秀吉は小谷城の資材や竹生島宝厳寺に浅井長政が復旧資材として寄進した材木などを用いたという伝説が残っていますが、正確な資料は残されていません。しかし、宝厳寺には豊臣秀吉の死後に大阪城にあった唐門が移築されています。 長浜城は城内の水門からじかに船の出入りができる造りでした。また、小谷城下からそのまま人民を異動させて造った長浜城下町は、秀吉が最初に造った城下町であり、天下人になる基礎を醸造した場所と伝わっています。
また、城を築城する際、「おかね」「おきく」という2人の女性が人柱になったという伝説が伝わっています。おかねの名前は天守北側にある「おかね堀」という堀の名前に残っており、おきくは、その御魂を祀った稲荷社が残っています。城を築城する際に人柱が立てられるケースは珍しくありません。しかし、その多くが「人柱が立てられた」という伝説が残されているのみで、素性ははっきりしません。長浜城のように人柱の名前が伝わっており、かつ堀の名前が残っているのはとても珍しいケースです。
長浜と石田三成
長浜は関ヶ原の戦いで徳川家康と戦って敗れたことで有名な石田三成の出生地でもあります。石田三成は、浅井氏に使えていた豪族と浅井氏の家臣の娘の間に生まれ、幼少時は 大原観音寺で過ごしたといわれています。豊臣秀吉は、長浜城城主時代、鷹狩りをおこなった際に大原観音寺で休息した際、石田三成と出会って利発さを買って家臣にした、という逸話が残されています。 「三献の茶」のエピソードで有名な石田三成と豊臣秀吉の出会いですが、秀吉が長浜の地を織田信長から下賜されなかったら、二人の出会いはもっと違った形になっていたかもしれません。
本能寺の変以降の長浜城
豊臣秀吉は、天正9年(1581年)に中国攻めに出立し、長浜城は信長の命令で堀秀正が長浜城の城主になります。翌天正10年(1582年)に本能寺の変が起き、織田信長が明智光秀に打たれると、長浜城は山本山城主の阿閉貞征という武将に占領されます。彼は、明智光秀に加担しており、豊臣秀吉の妻女や係累は近隣のお寺などに命からがら逃げ出しました。 阿閉氏はその後、中国地方から引き返してきた秀吉の軍に討たれて一族全員が滅ぼされます。
その後、長浜城は柴田勝家の甥、勝豊が城主となります。しかし、柴田勝家と豊臣秀吉が対立すると、最終的に勝豊は豊臣秀吉に攻められて降伏しました。柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れ、妻の「市」と共に自害します。
賤ヶ岳の戦いの後、長浜城は山内一豊、内藤信成・信正父子などが城主を務めます。山内一豊は、本人より妻のエピソードが有名な武将ですが、本人も秀吉の重臣として立身出世した人物です。彼が城主だったとき、天正13年(1585年)に発生した天正大地震によって、長浜城は全壊します。このとき、子どもの一人が犠牲になり、城の一部が琵琶湖の中に水没しました。この遺構は現在、長浜城遺跡・西浜千軒遺跡となり、残っています。
関ヶ原の戦い後の慶長11年(1606年)長浜城は最後の城主内藤信成・信正を向かえましたが、彼らは大坂の陣後の元和元年(1615年)に摂津国高槻(現、大阪府高槻市)に移封され、長浜城は廃城になりました。 なお、長浜城の資材はその多くが彦根城に移築されています。また、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移築したものと伝えられています。
現在の長浜城
1983年、伏見城や桃山城などをモデルとして現在の場所に長浜城の復興天守閣が建てられました。内部は長浜歴史博物館となっています。 城址は豊公園として整備されており、本丸跡に残った石を使って石塁を作り、公園道路となっています。 また、琵琶湖の湖岸には太閤井と呼ばれる秀吉が掘ったと言われる井戸の跡があり、琵琶湖の水位が下がると跡地近くまで近づけます。
まとめ
長浜城は、戦国三英傑の1人、豊臣秀吉が一番はじめに城主となった城です。映画やドラマなどでもたびたび登場しています。江戸時代初期に廃城になってしまいましたが、今でも長浜の城下町には当時の面影を偲ぶことができます。

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長浜藩DATA
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譜代・外様 譜代
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長浜城、羽柴秀吉が近江支配の拠点として築いた「出世城」

滋賀県長浜市にある長浜城は、羽柴(豊臣)秀吉が最初に築いた居城であることから「秀吉の出世城」として知られています。現在は3層5階建ての模擬天守が建っており、内部は歴史博物館となっています。

長浜城
長浜城の歴史
長浜城は天正3年(1575年)、織田信長から近江北部を与えられた豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が築城した琵琶湖畔の水城です。
天正元年(1573年)、小谷城の戦いで浅井氏が滅亡した後、秀吉は小谷山の小谷城(滋賀県長浜市)を与えられ、琵琶湖北の支配を任されました。しかし、秀吉は琵琶湖水運を掌握する交通の要衝である「今浜」に城を立てようと決意します。
天正3年(1575年)頃に長浜城は完成し、この際秀吉は「今浜」を「長浜」と改称しました。長浜城は水城で、天守と御殿があったことが分かっているほか、船着き場の跡と見られる石組みが見つかっています。しかし、城の絵図などが残されていないことなどから、当時の様子はあまりよくわかっていません。
天正10年(1582年)の本能寺の変後、6月27日の清洲会議を経て、長浜城は柴田勝家の甥の柴田勝豊が入ります。しかし、柴田勝家と権力争いを繰り広げた秀吉は、12月に長浜城を攻撃。城を包囲した結果、勝豊は降伏し城を明け渡しました。その後、秀吉は長浜城を拠点とし、天正11年(1583年)4月の賤ケ岳の戦いで柴田勝家に勝利しました。
その後、天正13年(1585年)長浜城には山内一豊が入城しますが、同年11月の天正地震により城はほぼ全壊し、一豊の一人娘の与禰が圧死してしまいました。
関ヶ原の戦いの後、慶長11年(1606年)には家康の異母弟である内藤信成とその子の内藤信正が入りますが、元和元年(1615年)に信正が摂津に転封されると城は廃城となりました。建物は彦根城の建築の際に使用されたほか、門が周辺の寺院に移築され、現存しています。
しばらくは田畑だった長浜城跡ですが、明治42年(1909年)に豊公園が開園しました。昭和58年(1983年)には寄付金などにより鉄筋コンクリート製の模擬天守が建てられ、歴史博物館となっています。
長浜城の見どころ①模擬天守
模擬天守は犬山城や伏見城をモデルに復元されたもので、3層5階建ての鉄筋コンクリート造りです。内部は「長浜城歴史博物館」となっており、2階では湖北・長浜の歴史や文化に関する企画展や特別展が、3階では秀吉と長浜をテーマとした常設展示が見学できます。長浜城築城の様子を描いたジオラマは見ごたえがありますよ。
5階は展望台となっており、琵琶湖が一望できるほか、小谷城があった小谷山や伊吹山も望めます。
長浜城の見どころ1 長浜城の見どころ2 長浜城の見どころ3
長浜城の見どころ②太閤井戸跡
豊公園内には琵琶湖沿いに「太閤井戸跡」が残っています。昭和14年(1939年)の夏、旱魃の際に湖中から厚さ3㎝程の木製の井戸枠が確認されたことで「秀吉時代の井戸では」と推察されているものです。琵琶湖の水位が高い時期は石碑のみが見学できます。
長浜城の見どころ③移築された門
長浜城は廃城の際、門が周辺の寺院に移築されました。その一つが大通寺の台所門で、長浜城の追手門を移築したものだとされています。大正2年(1913年)に修理した際、扉金具裏から「天正16年(1588年)8月16日」の刻銘が発見され、山内一豊によって修築された跡だと考えられています。
また、知善院の表門は長浜城の搦手門だったと伝えられています。
長浜城の見どころ4 長浜城の見どころ5 長浜城の見どころ6
長浜城のおすすめ撮影スポット
長浜城のフォトスポットは復興天守付近。豊公園は約600本の桜が植えられた桜の名所として知られており、天守を囲むように桜が咲く姿は「日本さくら名所100選」にも選ばれています。春は桜と天守のコラボが美しいですよ。
長浜城の天守跡には天守閣跡の石碑と豊臣秀吉の銅像が建てられており、こちらも押さえたいところです。全景を撮りたい場合は長浜ロイヤルホテルの最上階のレストランがおすすめです。
長浜城の見どころ7 長浜城の見どころ8 長浜城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。