武田勝頼(2/2)偉大な父の後で苦労した優秀な武将

武田勝頼

武田勝頼

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人物記
名前
武田勝頼(1546年〜1582年)
出生地
山梨県
関連する城
甲府城

甲府城

躑躅ヶ崎館

躑躅ヶ崎館

関係する事件

同年3月には徳川軍の攻撃によって武田家の高天神城が窮地に陥りました(高天神城の戦い)。この頃信長との和睦を試みていた勝頼は信長を刺激することを警戒し、後詰を派遣することができずに高天神城は落城してしまいます。
城を攻められているのにもかかわらず、応援に行かなかった事で武田家の家臣は大きく動揺しました。また、織田家はこれを契機に高天神城落城の喧伝を行い、織田・徳川からの調略が激しくなり、一門衆や日和見の国人の造反も始まります。

天正10年(1582)2月、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が美濃国の豪族・遠山友忠に仲介を頼み、織田方に寝返ります。同時期に駿豆国境を守る一門の穴山梅雪も徳川家に内応を約束していました。

この武田家の内部崩壊により織田家の武田家討伐が始まります。織田信忠が美濃国から、金森長近が飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻を開始しました(甲州征伐)。そして、同時期の2月14日に浅間山が噴火します。
周辺国から甲斐信濃を攻められ、浅間山が噴火した事は不吉な前触れとして武田家では動揺が広がります。組織的な抵抗は、勝頼の弟の仁科信盛が籠城した高遠城だけでした。
抵抗が出来なくなった勝頼は新しく築城した新府城を放火し、逃亡します。しかし天目山において織田家の追っ手に追いつかれ最期は自害しこの世を去りました(天目山の戦い)。享年37。
辞世は「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは 」。

この天目山で嫡男の信勝や正室の北条夫人も自害したため、甲斐武田家の宗家は途絶えました。しかし、武田信玄の次男で盲目であった海野信親は生き残り江戸時代、その子孫が高家武田家として代を重ねていきました。

躑躅ヶ崎館と新府城そして甲府城

武田信虎、晴信(信玄)、勝頼が居城としていたのが躑躅ヶ崎館です。躑躅ヶ崎館は、勝頼の祖父である武田信虎が永正16年(1519)、甲斐国山梨郡(現在の山梨県甲府市)に建てました。以来60年以上、甲斐武田家の居城となります。
ところが武田家が長篠の戦いで敗北し、それ以降形成が不利となると、天正9年(1581年)3月に御一門衆の穴山信君(梅雪)が勝頼に対し献策し新府城を築城します。新府城は周辺の地形全体が軍事的意味をもっていたことを考慮に入れれば非常に大規模な城でしたが、その直後に武田家が滅亡したこともあり未完成でした。

武田家の滅亡の後、甲斐の支配者となったのは織田家でしたが、織田信長も本能寺の変で討たれると徳川家が支配します。徳川家康は、最初の間は躑躅ヶ崎館を甲斐の拠点としていましたが、後に甲府城の築城に着手しました。
その後、豊臣家により支配されると関東に移封された徳川家康を監視する重要拠点として甲府城の整備は進められます。しかし関ヶ原の戦いの後、再び徳川家の支配となり甲斐は甲府を中心に統治されていきました。

現在、躑躅ヶ崎館の跡地には武田神社が創建され今に至ります。
新府城の跡地には昭和48年(1973)に「新府城跡」として国の史跡に指定されており、保存のため公有地化されました。本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されています。
甲府城は明治に入ると廃城となり建物は撤去され石垣だけが残ります。戦後、城跡の一部が「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として整備され、現在は市民のために開放されています。

武田勝頼のゆかりの場所

五郎山と仁科盛信の祠
武田家討伐に訪れた織田信忠と戦った仁科五郎盛信(武田信玄の5男)の祠があります。
天正11年(1582年)織田信忠は武田氏討伐の為、岐阜から信濃路に沿って50000人の兵を率い進撃してきました。仁科盛信は他の一族や家臣が武田家から離脱する中、勝頼の命令で高遠城主となり500人の兵で籠りこれを迎え撃ちます。
戦いは熾烈を極めましたが、高遠城は落城、盛信は討死しました。織田の兵が高遠から引き上げると、村の農民たちは盛信以下諸士の屍を捜して持ち帰り、火葬してこの山に埋めました。
以来この山は五郎山と呼ばれるようになり、盛信と武田の兵を祀る祠と像があります。
長篠設楽原(ながしのしたらがはら)パーキングエリア
愛知県新城市にある新東名高速道路のパーキングエリアです。PA周辺は長篠設楽原の戦いが起きた場所で、下りPAからは隣接する織田信長本陣跡に徒歩で移動できます。 パーキングエリアに設置されている建物は、上りと下りで特色を出した作りとなっています。上り(東京方面)は長篠設楽原の戦いにおける武田軍、下り(名古屋方面)は織田・徳川連合軍の本陣をイメージしたものです。
信玄ミュージアム
信虎、信玄、勝頼の武田氏三世代がすごした躑躅ヶ崎館、その跡地に建てられたのが武田神社です。その武田神社のそばに、武田氏の歴史や躑躅ヶ崎館の発掘調査の成果などを紹介する「甲府市武田氏館跡歴史館」があります。
エリア内には、ガイダンスやミュージアム機能を備えた展示室のほか、歴史講座やワークショップに活用できる学習室も併設します。また館内では、VR体験も実施していて武田の歴史を体験できます。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.03