甲州征伐信長・家康が武田氏を攻め滅ぼす

甲州征伐

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事件簿
事件名
甲州征伐(1582年)
場所
山梨県
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甲府城

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諏訪原城跡

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高天神城跡

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天正10年(1582年)2月から3月にかけて、織田信長が徳川家康らとおこなったのが武田氏を攻める「甲州征伐」。跡継ぎ問題による内乱や、長篠の戦いに敗れたことで弱体化した武田氏を信長は見逃さず、大軍をもって攻め滅ぼしました。今回はそんな甲州征伐について、分かりやすくまとめて解説します。

武田信玄の跡継ぎ問題

元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄は東三河から甲斐に引き返す途中で亡くなりました。その跡を継いだのが4男の武田勝頼でした。もともと勝頼は武田氏の跡継ぎではなく、母の諏訪御料人の一族である諏訪氏の跡継ぎとして育てられました。

ところが永禄8年(1565年)、信玄の嫡男の武田義信が謀反を疑われて廃嫡され、他の兄弟も出家したり亡くなったりしていたことから、勝頼は急遽跡継ぎに。これに反発したのが武田家臣団たちでした。家臣になるはずの人物が武田氏のトップになるわけですから、いい思いはしませんよね。

このため信玄は勝頼の息子・武田信勝を正式な跡取りとし、まだ幼い信勝が育つまでの後見人・中継ぎの当主として勝頼を指名しました。信玄の遺言状でも「勝頼は陣代(後見)」であると明記されています。

そんな状態で家督をついだ勝頼でしたが、家臣団との不和は続き、なかなか家中を掌握しきれません。そんな武田氏をまとめ、自らの力を誇示して従わせるために勝頼は周辺諸国に攻め込みます。東美濃(現在の岐阜県南部)の織田方の18の城を奪うなど活躍を見せていくのです。

「高天神城の戦い」で信玄を超えた?

武田勝頼の活躍として触れておくべきなのが天正2年(1574年)5月に徳川氏が治める遠江国・高天神城(静岡県掛川市)を攻めた「高天神城の戦い」です。もともと武田信玄と信長は友好関係にありました。勝頼の妻として信長の養女が嫁いでいることからもその関係が分かります。

ところが信長による比叡山延暦寺の焼き討ちや、足利義昭の信長包囲網などの結果、両者は徐々に対立。勝頼もその跡を継ぎ、織田領や徳川領に侵攻を繰り返します。その一つが高天神城でした。

高天神城は「高天神を制する者は遠江を制す」と言われる交通の要衝で、自然の地形を生かした難攻不落の要衝として知られていました。もともとは今川氏の城でしたが、桶狭間の戦いを機に徳川氏の城へ。実は武田信玄も元亀3年(1572年)の西上作戦の時に高天神城を攻めたものの一日にして撤退。このため高天神城を落とすのは父親を超えるということに繋がったのです!…と言いたいところですが、実は近年の研究では攻城戦はなかったという説が有力視されています。

さて、勝頼は2万5000の大軍で高天神城を攻めます。このとき高天神城の城主は小笠原信興で、1000人ほどの兵と詰めていました。圧倒的な戦力差に徳川家康は信長に援軍を要請しましたが、間に合わず高天神城は武田方の猛攻に屈して開城。この際、勝頼は高天神城の要望を受け入れ、開城の条件として兵士たちの命を保証するともに、武将達の身柄も拘束せず、武田方に下るも徳川方に残るも自由としました。この寛大な措置で勝頼の株はかなり上がる一方、徳川氏は援軍が間に合わなかったことから信頼関係がガタガタに。結果、武田方に多くの武将が下りました。

長篠の戦いの敗戦が滅亡への第一歩

当初は調子よく周囲を攻めていた武田勝頼。徳川氏の城を次々と落とし、天正2年(1574年)9月には浜松城下まで迫りました。武田氏の領土は過去最大まで広がり、このまま行けば徳川氏も滅ぼせる!?というところでしたが、天正3年(1575年)5月に起きた「長篠の戦い」で風向きががらりと変わります。

長篠の戦いは、武田氏を裏切って徳川氏についた奥平貞能・貞昌親子を討伐するため、勝頼が二人のいる長篠城を攻めた戦いです。武田氏の軍勢は1万5000(諸説あり)。これに対し、徳川家康は織田信長に援軍を要請します。今回援軍は間に合い、3万8000の織田・徳川連合軍が武田軍を破りました。

この戦いで武田軍は大きな被害を受けます。武田信玄の時代から仕える重臣で「武田四天王」と称される山県昌景、馬場信春、内藤昌秀が討ち死にしたほか、土屋昌続、真田信綱・昌輝親子などをはじめ1万人以上が死亡。勝頼は何とか高遠城(長野県伊那市高遠町)まで退却しました。

北条氏と対立、高天神城も落城

その後、武田勝頼は大きな打撃を受けた武田氏の立て直しに注力しますが、織田・徳川軍は武田氏の城を次々と攻め落とします。こうした動きにより高天神城が孤立。天正8年(1580年)10月には徳川軍が高天神城を取り囲んで兵糧攻めを開始します。

高天神城は勝頼に救援を求めますが、援軍は来ませんでした。理由としては勝頼が信長の出陣を恐れたとも、信長と融和を図っていたため影響を恐れたとも、北条氏と対立していたためそれどころではなかったとも言われています。

長篠の戦いの後、勝頼は上杉氏や北条氏との同盟を強化して武田氏を立て直そうとしました。天正3年(1575年)10月には上杉氏と和睦し、天正5年(1577年)に北条氏政の妹を後室に迎えています。こうしてそれぞれとの関係は強化したものの、上杉氏と北条氏の関係は悪く三国同盟には至りませんでした。

そうしているうちに天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が病死すると家督争い「御館の乱」が発生。北条氏政の弟の上杉景虎(北条三郎)VS謙信の甥・上杉景勝の争いでしたが、勝頼はこのとき立ち回りに失敗し、上杉とは和睦できたものの北条氏との関係が悪化し、信玄の頃から続いていた同盟は破たん。その後北条氏は徳川氏と同盟を結び、武田氏とは完全に敵対することになります。勝頼は敵を増やしてしまったのです。

高天神城に話を戻しましょう。勝頼からの援軍が期待できない中、高天神城を守る岡部元信は天正9年(1581年)1月、徳川方に助命嘆願の書状を送りました。が、家康から相談を受けた信長はこれを拒否。勝頼が援軍を出せば叩き潰すチャンスですし、援軍が出せないのであれば「勝頼は高天神城を見殺しにした」と、武田氏の威信を削ぐチャンスだと考えたのです。

高天神城はひどい飢えに苦しめられた結果、餓死者を多数出します。耐えきれなくなった元信達は天正9年3月、城兵700名超とともに城から打って出て激戦の挙句玉砕。城は落ちました。

甲州征伐①木曾義昌の離反

高天神城を見捨てたことで武田勝頼の威信は地に落ち、武田氏の重臣のなかから織田方に寝返る者が出てきました。しかも、勝頼は天正9年(1581年)から新たに新府城(山梨県韮崎市中田町)を築城。躑躅ヶ崎館の防衛力不足と武田領の統治のための本部移転だったのですが、新府城の築城と相次ぐ出兵により、勝頼は領民に対しかなりの年貢や賦役を内に課すことに。勝頼から人心が離れる大きな要因になりました。

織田方に寝返った武将の一人が木曾義昌。武田信玄の時代から武田氏に仕えた武将で、正室は武田信玄の娘・真理姫。勝頼の義理の弟にあたります。

木曾義昌は天正10年(1582年)1月に織田方に離反。これを知った勝頼は大いに怒り、人質として預かっていた義昌の生母と側室、子どもたちを新府城で磔にして処刑しました。さらに従兄弟の武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に向けて派遣し、自らも軍勢1万とともに出陣し、諏方上原城(長野県茅野市)に入ります。

一方、織田信長も勝頼討伐を決意して軍を編成して出陣させます。こうして天正10年2月、武田氏が滅亡する「甲州征伐」が開始したのです。

甲州征伐②織田軍3万VS武田軍3000

甲州征伐は織田信長の後継者・織田信忠を総大将に、森長可、木曾義昌、河尻秀隆、毛利長秀、織田長益、滝川一益などが主軍として参加しました。総勢は約3万でした(※諸説あり)。さらにその後ろを織田信長と明智光秀、細川忠興、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政などが率いる兵が続きます。その数は6万にも及んだそうです。

信忠と信長は伊那街道方面から新府城に侵攻。加えて金森長近が飛騨方面から、同盟者の徳川家康が駿河方面から新府城をめざします。さらに北条氏政も甲州征伐に便乗して侵攻を開始しました。

一方、さまざまな方面から攻められ、離反者も出た武田軍は武田勝頼、信豊、信勝、信廉に穴山梅雪などの武田氏一門を中心とした約3000が甲州征伐に立ち向かいます。そう、このころはまだ3000いたんです…。

甲州征伐③次々と勝頼を見限る家臣たち

織田軍は2月3日に先発の森長可らが岐阜城を出陣し、木曽口と伊那街道から信濃国(長野県)に入ります。恐れをなした周辺地域の領主たちは次々と織田軍に下りました。さらに、2月14日に浅間山が噴火。もともと浅間山の噴火は異変や不吉なことが起こる前兆として恐れられており、武田氏の士気は下がり、織田軍に寝返る者がさらに増えました。

2月16日には鳥居峠で今福昌和率いる武田軍と、木曾義昌ら織田軍が激突。織田軍が勝利をおさめます。2月18日には織田信忠は飯田(長野県飯田市)まで侵攻。このとき飯田城主の保科正直は高遠城に逃亡し、それを知った勝頼の叔父・武田信廉も、戦の要的存在だった大島城(長野県下伊那郡)に火をかけて逃亡し、大島城は織田軍の手に落ちました。関係者が逃げる、または投降することにより、織田軍はほとんど戦うことなく南信濃を制圧してしまいました。

一方織田方の友軍はといえば、2月18日に徳川家康が浜松城から出陣し、20日には武田方の田中城(静岡県藤枝市)を攻略。2月21日には駿府城に進軍しました。また、調略の結果、勝頼の従兄弟で義兄でもある重臣・穴山梅雪(信君)を寝返らせることに成功しています。

重臣の梅雪がなぜ勝頼を裏切ったのかは諸説ありますが、勝頼が娘を梅雪の嫡男に嫁がせるという約束を破り、武田信豊の子に嫁がせたことが一因という話があります。この結婚話は信玄の遺言だったそうですから、梅雪が怒るのも無理はありません。

また、もともと勝頼とは不仲だったという説も。自分の息子を武田氏の跡継ぎにしたかったという考えがあったようで、裏切る際も自らの領土安堵を条件とすることに加え、「武田を継ぐのは穴山」という話を家康としていたそうです。

梅雪の裏切りは残る武田家臣団に大きな衝撃を与え、武田氏を見限る者が一気に増加。さらに北条氏も2月下旬には駿河東部を攻めて武田方の城を落としており、他方面から次々に攻められた武田氏はほぼ死に体でした。そんななか唯一武田氏を見捨てず踏ん張っていたのが高遠城(長野県伊那市)の仁科盛信です。

甲州征伐④高遠城の戦い

高遠城を守る仁科盛信は武田信玄の五男で勝頼の異母兄弟にあたります。約3000人の兵と共に高遠城に立てこもる盛信達を、織田信忠率いる織田軍は約3万の兵で取り囲みました。

信忠は圧倒的な数の優位性を背景に、盛信に使者と黄金を送って降伏を促しますが、盛信はこれを拒否し、使者の耳を削ぎ落して追い払いました。3月2日、両軍は激突。盛信は織田軍の総攻撃に決死の奮闘を繰り広げますが、500名あまりの家臣と共に討ち死に(または自害)しました。

高遠城の落城を知った勝頼は3月3日、新府城を放棄。火を放って残る兵とともに、武田氏譜代家老の小山田信茂を頼って逃亡します。このとき残っていた兵はわずか700名でした。

実はこの前日、新府城では軍議が繰り広げられていました。軍議では次の動きとして(1)新府城に籠城して誇り高く討ち死にする(2)小山田信茂の岩殿城(山梨県大月市)に移動する(3)真田昌幸の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)に移動するという3つの案が出されました。特に岩櫃城は上杉方の援軍も期待できます。

ところが、真田氏は武田氏のなかでも外様であるという理由で岩櫃城案は受け入れられず、小山田氏を頼って岩殿城に行くことが決まってしまったのです。小山田信茂は武田信玄の時代から武田氏に仕える重臣で、武田二十四将の一人。数々の軍功を立てており信用されていました。これが武田氏にとって最後のターニングポイントでした。

甲州征伐⑤天目山の戦いで武田氏滅亡

武田勝頼・信勝一行は残る約200人の家臣たちと岩殿城を目指して移動します。その後、鶴瀬(甲州市大和町)で一足先に出発していた小山田信茂の迎えを1週間ほど待ちますが、なかなか現れません。

『甲陽軍鑑』によれば3月9日、信茂は岩殿城までの道をいきなり封鎖。勝頼を招き入れるふりをして、勝頼に向かって鉄砲を放ちました。そう、小山田信茂は最後の最後で勝頼を裏切ったのです!自らの領地と領民を守る結果で本人は相当苦悩した結果だったようですが、この裏切りが駄目押しとなり、武田氏は滅亡することになります。

勝頼はその後、武田氏の祖先の墓がある天目山棲雲寺(現山梨県甲州市大和町)に向かいます。残された兵士たちはわずか40名でした。そのあとを滝川一益率いる織田軍が追いかけます。

3月11日、ついに天目山の山麓で織田軍に追いつかれた勝頼一行は最後まで徹底抗戦します。土屋昌恒と小宮山友晴は大奮戦の末討ち死に。これは勝頼たちが自刃する時間を稼ぐためでした。そして勝頼は午前11時ころ、嫡男の信勝、正室の北条夫人とともに自害。享年37歳でした。勝頼親子の京都に送られた後、六条河原でさらし首にあいました。それ以外の武田氏一族についても自刃したり、織田軍により処刑されたりしています。

こうして武田氏は滅亡。旧武田領(甲斐国、信濃国、上野国)は織田信長の部下たちにより分割統治されることになるのです。

関係する人物
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。