戊辰戦争(2/2)幕末・維新の趨勢を決した大戦

戊辰戦争

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事件簿
事件名
戊辰戦争(1868年〜1869年)
場所
東京都・京都府・福島県・新潟県・北海道
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五稜郭

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そして新政府軍は3月6日の軍議で、3月15日に江戸城総攻撃を実施することを決定。ただし、この時点で貿易に影響が出ることを懸念したイギリス公使のハリー・パークスから「江戸城の総攻撃を止めろ」という圧力がかかったことから、総攻撃に反対する勢力は一定程度いました。さらに、第13代将軍・徳川家定の妻で薩摩藩島津家一門の娘だった篤姫や、第14代将軍・徳川家茂の妻で明治天皇の叔母にあたる和宮は、西郷隆盛に総攻撃を訴える手紙を書いています。

さらに旧幕府側の勝海舟・山岡鉄舟は、西郷隆盛と会談し、総攻撃の中止を訴えました。こうした活動が功を奏し、3月14日の会談では、江戸城明け渡しやなどを条件に総攻撃を中止することが合意されたのです。その後、西郷隆盛は京都に戻り、合意内容を改めて朝議にかけて正式に決定。慶応4年(1868年)4月11日、江戸城は無血開城し、江戸が戦火にさらされることは回避されました。なお、徳川慶喜については新政府側からの引き渡し要求にも旧幕府側が屈せず、最終的には水戸での謹慎で落ち着いています。

戊辰戦争③上野戦争勃発、抗戦派の抵抗続く

江戸城無血開城後、徳川家への処遇などに不満を持つ旧幕臣、特に新政府軍との徹底抗戦を唱えていた幕臣たちは、新政府軍に抵抗を続けます。市川や船橋、宇都宮などで戦いが起こりましたが、いずれも新政府軍が勝利しています。そんな戦いのなかでも有名なのが旧幕臣の彰義隊と新政府軍が争った上野戦争です。

彰義隊はそもそも、徳川慶喜が大坂城から江戸に逃げ帰って寛永寺で謹慎している最中、一橋家家臣を中心にした旧幕臣で結成された、慶喜の警護のための軍隊です。江戸市中の警備を任されており、隊員数は徐々に増え、最盛期には3000人以上いたとされています。江戸無血開城後、勝海舟から解散を求められましたが、彰義隊はこれを拒否し、江戸市中で新政府軍と小規模な争いを続けていました。

このため新政府軍は彰義隊の討伐を決定します。司令官で長州藩士の大村益次郎の指揮の下、5月15日、彰義隊をせん滅するための掃討戦がスタート。1万人の新政府軍が4000人の彰義隊を、最新のアームストロング砲などを活用して攻撃し、わずか10時間で彰義隊をほぼ全滅に追い込みました。上野は戦によりほぼ焼け野原になり、難を逃れたわずかな生き残りは北上して東北戦争に加わることになります。

なお、新政府軍との徹底抗戦を唱えていた幕臣で注目したい人物が1人います。戊辰戦争最終戦のキーマン・海軍副総裁の榎本武揚です。武揚は4月11日に抗戦派の旧幕臣達と艦隊8隻を率いて品川を脱出。勝海舟の説得もあり一度は引き返しますが、こっそり旧幕臣を支援して新政府軍に抵抗を続けた後、8月19日、再び軍艦8隻とともに、戦の続く東北めざして出航しています。

戊辰戦争④会津戦争(東北戦争)

関東圏の旧幕府軍を一網打尽にした新政府軍は、徳川慶喜に協力し続けていた会津藩と庄内藩に目を向けます。会津藩は鳥羽・伏見の戦いの主戦力で、藩主の松平容保は幕末に京都守護職として、新撰組などを利用して尊王攘夷派を弾圧していた人物。庄内藩主の酒井忠篤は江戸の薩摩藩邸の討伐を担当しており、両藩とも新政府軍の恨みを買っていました。このため2藩は「会庄同盟」を組んで新政府に対抗していきます。

新政府軍は仙台藩など東北の諸藩に会津藩の討伐を命じますが、東北諸藩は会津藩に同情的。新政府軍に会津と庄内藩の赦免を訴えますが認められませんでした。そこで5月3日に25藩が正式に奥羽列藩同盟を設立。5月6日には北越の藩が加わり合計31藩による奥羽越列藩同盟が成立しました。こうして東北では、旧幕府軍(会津・庄内・奥羽越列藩同盟)と新政府軍の戦いが起こっていきます。

同盟と前後する形で起こったのが「白河口の戦い」。4月20日、会津軍と仙台軍が幕府の直轄領で奥州街道の要地・陸奥国白河城(福島県白河市)を占領。その後、新選組隊長の山口二郎(斎藤一)らが新政府軍から城を防衛しましたが、新政府軍の増員と新型の銃により、白河城は5月1日に新政府軍に取り戻されてしまいました。その後旧幕府軍は7月まで白河城を取り戻そうと奮戦しますが、奪回できずに終わります。

この会津戦争の裏側で、長岡藩(新潟県長岡市)の軍事的要地・新潟港を巡って北越戦争が行われています、新潟港は奥羽越列藩同盟の武器の調達地。さらに会津に攻めるためのルートとして押さえておくべき場所だったため、旧幕府軍側が手厚く守っていました。ところが新政府側が5月に長岡城を攻めて陥落させます。旧幕府軍は1度城を取り返しますが、7月末には新政府軍が長岡城を再占領。その後、新政府軍は越後を制圧し、奥羽越列藩同盟の参加藩のなかには新政府に寝返るものも出てきました。

こうした戦の影響で勢いづいた新政府軍に対し、旧幕府軍は二本松城なども落とされる羽目に。8月23日には会津若松城を巡って戦が行われますが、その際の西郷頼母邸での女性陣の自刃や、白虎隊など少年兵士たちの戦死・自刃は悲劇として知られています。その後、1ヶ月にわたって会津若松では激戦が繰り広げますが、他藩が次々と新政府軍に降伏しはじめたことで窮地に陥ります。結局会津藩が9月22日に降伏したことで、会津戦争は終結しました。

戦争後、土方歳三率いる旧新選組をはじめとした旧幕府軍の残党は会津から脱出を果たします。そして8月26日、仙台藩内の港に停泊していた榎本武揚らと合流し、総勢約2千数百名で船で蝦夷地(北海道)へと移動。新政府軍への反抗を続けていくことになります。

戊辰戦争⑤最後の戦い、箱館戦争

戊辰戦争最後の戦いとなったのが、箱館(北海道函館市)で起きた箱館戦争です。旧幕府軍を次々と打ち破った新政府軍に対し、残された榎本武明率いる旧幕府軍は10月21日に蝦夷地に渡り、箱館府のある五稜郭を攻めて10月26日に箱館を占領。その後は土方歳三らが松前城を落とし、蝦夷地を平定しました。

蝦夷地閉廷後、榎本武明は新政府に嘆願書を提出。旧幕臣を蝦夷地に入植させ、蝦夷地を開拓するとともに対ロシアの防衛を担いたいので許可してほしいというものでしたが、新政府は却下しました。そして12月15日、旧幕府軍は箱館政権を樹立します。総裁には士官らによる投票で選ばれた榎本武明が就任。英国やフランスとの外交を開始するなど「蝦夷共和国」の俗称にふさわしい動きを見せていきます。

一方の新政府側は青森に拠点を置いて蝦夷地攻めの準備を開始。旧幕府軍との小競り合いはありましたが、4月9日に乙部(北海道爾志郡乙部町)に上陸して旧幕府軍との戦いを開始します。新政府軍は総勢9500名、一方の旧幕府軍は約3500名とわずかでした。人数差に加え、新政府軍の最新鋭の武器を前に、旧幕府軍は徐々に押され始めます。

土方歳三率いる部隊が新政府軍を撃退することもありましたが、多勢に無勢。5月11日、新政府軍による陸海両方からの箱館総攻撃の際に土方歳三は銃弾に倒れ、5月18日には榎本武明らが降伏し、五稜郭は開城。こうして戊辰戦争最後の戦いとなる箱館戦争は終結し、日本は新政府によって統一されました。その後、明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県などにより、日本は中央集権国家への道のりを歩んでいくことになるのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03