箱館戦争(1/2)戊辰戦争最後の戦い、土方歳三散る

箱館戦争

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事件簿
事件名
箱館戦争(1868年〜1869年)
場所
北海道
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五稜郭

五稜郭

約260年の長きにわたって続いた江戸幕府の終焉の後、慶応4年/明治元年(1868年)から明治2年(1869年)まで、新政府軍と旧幕府軍が争ったのが戊辰戦争です。その最後の戦いが蝦夷地・箱館(現北海道函館市)で起きた「箱館戦争」。五稜郭の戦いとも呼ばれる戦では、榎本武揚率いる旧幕府軍が新政府軍と激しい戦闘を繰り広げました。新撰組の副長だった土方歳三が討ち死にしたのもこの戦いです。今回はそんな箱館戦争について詳しく解説します。

大政奉還・王政復古の大号令で徳川幕府が終焉を迎える

幕末の嘉永6年(1853年)にペリーが黒船で来航して開国を要求しました。天皇は開国を拒否しましたが、江戸幕府は結局、翌年に日米和親条約を結んでなし崩しに開国し、その後も英国やフランスなどと次々と通商条約を結びます。こうした幕府の動きをきっかけに国内には開国派、鎖国派、尊王派(天皇を尊重)、攘夷派(外国人を追い出す)、討幕派などさまざまな派閥が生まれ、時には武力行使による対立が起こるようになりました。弱退化した幕府はそうした動きを抑えきれず、国は動乱の時代を迎えます。

徐々に尊王攘夷、倒幕運動が盛んになるなか、外国との戦に敗れて諸外国の強さを知った薩摩藩と長州藩は倒幕・開国で協調。薩長同盟で手を組んだことで、倒幕への流れが加速します。それを察知した当時の将軍・徳川慶喜は慶応3年(1867年)10月14日、京都の二条城で諸藩に大政奉還を宣言。政権を天皇に返上しました。

徳川家は朝廷に政権を返上しても、政権運営能力のない朝廷が徳川家を頼ってくるので、結局政治的な実権を握り続けることができると考えていたと言われています。事実、朝廷は大政奉還の後も、幕府に対し当面は政治を担い続けるとともに、新政権について合議するよう依頼しています。

これに反発したのが薩摩藩と長州藩で、岩倉具視と共に、徳川家を政権から排除しようと朝廷に働きかけます。そして12月9日、御所で討幕派の公家や藩士たちによるクーデターが発生。同日、明治天皇の名で「王政復古の大号令」が発せられ、幕府の廃止と新政府の樹立が決定。新しい政府は天皇がトップに立ち、総裁・議定・参与の三識が政権運営を担うことになりました。そして、その夜開かれた小御所会議により、徳川家に対して「辞官納地」、つまり徳川慶喜の内大臣の位を返上させ、すべての領土を朝廷に返還するよう求めることも決まりました。

当然のことながら、徳川家を中心とした旧幕臣はこれを拒否します。旧幕府側と新政府側の対立が深まり、徳川慶喜は薩摩藩への挙兵を決意。1万5000の兵と共に大坂城を出立して京都に向かいます。一方の新政府軍も会議を行い、旧幕府討伐のため、朝廷から大坂城攻撃の勅書と「官軍」の名称を得ました。

こうして慶応4年(1868年)1月3日、山城国の鳥羽・伏見(京都市南区・伏見区)で「鳥羽・伏見の戦い」が起こります。約2年にわたって続く、戊辰戦争の始まりでした。

戊辰戦争で旧幕府軍の敗退相次ぐ

鳥羽伏見の戦いは、旧幕府軍1万5000対新政府軍約5000の争いでした。旧幕府軍が圧倒的に有利のように思えますが、新政府軍は英国などから輸入した最新鋭の武器と、朝廷からのお墨付きがありました。「錦の御旗」を掲げて自軍の正当性を主張する新政府軍の姿から、自らが賊軍だと理解した旧幕府軍の士気は低下。さらに、総大将の徳川慶喜が大坂城から脱出して船で江戸に逃げ帰ってしまったことで、士気はさらに低下します。こうして鳥羽・伏見共に新政府軍が勝利し、旧幕府軍は撤退しました。

その後、慶喜は江戸の寛永寺で謹慎して新政府軍に恭順の意を示しますが、新政府軍は江戸を攻めようと準備を進めます。江戸が戦火に沈む可能性がありましたが、旧幕府側の勝海舟と西郷隆盛が会談をおこない、「江戸城を明け渡せば総攻撃をしない」という条件で合意。その結果、慶応4年(1868年)4月11日、江戸城は無血開城しました。その後、慶喜は水戸に出発して謹慎。その後は駿府藩(静岡)に居を移しました。

榎本武揚、幕府艦隊とともに北上

新政府軍の徳川家の処置を不満に思ったのが当時海軍副総裁だった榎本武揚です。武揚は幕臣の息子として生まれ、11歳の時に昌平坂学問所に入学。ジョン万次郎の私塾で英語を勉強しました。その後、19歳で箱館奉行の従者として箱館を訪問して樺太探検に参加後、長崎海軍伝習所で勝海舟の下で航海術や蘭学などを学びました。1862年(文久2年)にオランダに留学し、オランダで造船された開陽丸と共に、1867年(慶応3年)3月に日本に帰国しました。幕府に開陽丸の艦長に任命された後に順調に出世。海軍副総裁に任命されたのは鳥羽伏見の戦いの後で、新政府軍に対し徹底抗戦を主張していました。

江戸の無血開城の際、条件の1つとしてあげられたのが、旧幕府艦隊の明け渡しでした。これに対し、武揚は新政府軍への軍艦の引き渡しを拒否。4月11日に抗戦派の旧幕臣達と共に、艦隊8隻を率いて品川沖から出航します。一度は勝海舟の説得により品川に戻り、8隻のうちの4隻を新政府軍に渡しますが、結局8月19日、開陽丸を含む艦船8隻とともに出航し、新政府軍と旧幕府軍が戦闘中の東北に向かいました。

会津を中心に東北戦争勃発

4月以降、戊辰戦争の場所は、上野の山に立てこもった彰義隊との「上野戦争」などを経て東北に場所を移していました。新政府軍が次に目をつけたのは会津。会津藩主・松平容保は幕末に京都守護職を務め、尊王攘夷派を新選組などにより武力で弾圧していた人物。加えて会津藩は鳥羽・伏見の戦いの主戦力でした。このため会津藩は新政府の討伐対象となってしまいます。

一方、周辺の東北諸藩は会津に同情的で、奥羽越列藩同盟を結成して結束し、新政府に対し会津藩の赦免を訴えますが認められません。こうして東北で旧幕府軍(会津・奥羽越列藩同盟)と新政府軍(薩摩・土佐藩中心)の戦い「東北戦争」が起こります。東北各地で戦いが起こりましたが、有名なのは大河ドラマ『八重の桜』でもとりあげられた「会津戦争」。少年兵士たちの戦死や自刃は悲劇の1つとして知られています。なお、ここでも土方歳三率いる新選組は活躍しています。この戦いでも旧幕府軍は敗退し、同盟の各藩も次々に降伏しています。

これで戦は終了かと思いきや、新選組を含む旧幕府軍の残存勢力は会津から脱出して北上します。そして8月26日、仙台藩内の港に停泊していた榎本武揚率いる艦隊と合流。総勢約2千数百名で蝦夷地(北海道)へと逃れていくのです。

箱館戦争①旧幕府軍が箱館制圧、箱館政権成立

当時、蝦夷地には新政府による箱館府が置かれており、江差など松前藩の領地を除くほぼ全域を統治していました。旧幕府軍は10月20日に箱館の北の鷲ノ木(北海道茅部郡森町鷲ノ木町)に上陸し、2手に分かれて箱館府のある五稜郭に向かって南下。残っていた新政府軍を撃破し、五稜郭を攻略して箱館を占領します。その後、新政府軍側についていた松前藩と戦い、松前城を制圧。蝦夷地を平定しました。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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