甲府城山梨県甲府市

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甲府城DATA
別称 舞鶴城
築城 1583年
住所 山梨県甲府市丸の内1-5-4

甲府城は日本100名城の一つ。現在は舞鶴城公園として開放。

甲府城への交通アクセス
JR中央線「甲府」駅南口から徒歩約5分。

HISTORY 武田氏滅亡後に築城された甲府城

甲府城は、山梨県甲府市にあった平城です。甲府は織田信長によって滅亡されるまで甲斐武田氏の所領でした。武田氏の所領を一気に広げた武田晴信(信玄)は、要害山城を含む躑躅ヶ崎館 を本拠地としており、自ら築城することはありませんでした。 甲府城は豊臣秀吉の命によって築城され、徳川政権下でも西側の外様大名達を監視するための拠点として幕府の要所となりました。そんな甲府城の歴史を紐解いていきましょう。

武田氏が支配していた甲府
江戸時代以前、甲府の支配者として広く知られているのは甲斐武田氏です。甲斐武田氏は武田信玄の名で知られている武田晴信とその父、武田信虎の時代に甲府を統一して大きく領土を拡大します。武田氏の居城は 要害山城を含む躑躅ヶ崎館であり、甲府の城下町も館中心に作られました。
武田晴信は他の戦国大名のように山城を自分で築城せず、戦で奪い取った他の大名が築城した城を自分好みに改築して使用していました。
「人は城、人は石垣、人は堀 情けは味方、仇は敵なり」 と信玄が述べたという逸話が有名であり、それに関連付けて「武田信玄は城を築かなかった」といった意見もあります。しかし、武田晴信は石垣を持たない「中世城郭」はいくつか築いていた記録は残っています。私たちが「城」と聞いた時にイメージする「近世城郭」は織田信長が築いた安土城が始まりです。武田晴信が甲斐の支配者として君臨していた時代、城のスタンダードは石垣を持たない中世城郭でした。 そのため、武田晴信は人を大切にして城を作らなかったといった意見が生まれたとも考えられます。
なお、武田晴信の嫡子武田勝頼は韮崎に新たな近世城郭「新府城」 を建築しようとしていました。 しかし、長篠の戦いで織田信長に敗北、さらに織田軍勢に甲斐まで攻め込まれた勝頼は築城中の城に火を放って廃城にした後、最終的に武田氏は織田氏によって滅ぼされました。
甲府城の築城と江戸時代
武田氏が滅んだ後、甲府の地は織田家臣の河尻秀隆に与えられました。しかし、本能寺の変で織田信長が嫡男織田信忠と共に打たれると、甲府の地を後北条・徳川・上杉、さらに甲府周辺に領地を持つ真田氏をはじめとする国人が加わって奪い合う「天正壬午の乱」が勃発します。最終的に徳川氏と北条氏の和睦によって乱は集結しますが、北条氏弱体化のきっかけになりました。 「天正壬午の乱」は、2016年に放映された大河ドラマ「真田丸」の中でも描かれています。
天正壬午の乱の後、甲府の地は豊臣家の直轄地になり、豊臣秀次の弟に当たる豊臣秀勝に与えられました。甲府城はこの時代に築かれましたが、豊臣秀吉の命で築城された説が有力ですが、徳川家康が 築城種であったという説もあります。 しかし、現在も残っている甲府城の石垣は豊臣大名時代の築造 の特徴が色濃くあるため、豊臣秀吉の命によって作られた説が有力です。 甲府城は豊臣秀勝・加藤光泰・浅田長政と城主を変えながら築城されました。
江戸時代に入ると、甲府城は西側の外様大名を見張るための重要な要地となり親藩の「甲府藩」が誕生し、初代藩主は徳川家康の九男が勤めました。 甲府の地はその後幕府の直轄地になったり、江戸時代半ばの享保12年(1727年)に大火によって建物の大部分が焼失したりするなどしました。さらに幕末、江戸幕府の進退をかけた甲州勝沼の舞台となり、明治新政府軍の司令官板垣退助と新撰組近藤勇率いる旧幕府軍が激突しました。
この戦いは、新撰組の終焉、さらい近藤勇が捕えられた戦いとして何度もドラマ化や映画化が行われています。 結局、甲府城は明治政府のものになり、この戦いが一つのきっかけになって江戸城は無血開城の道を選びました。
江戸時代以降の甲府城
明治時代になると甲府城は廃城となり、建物のほとんどが取り壊されたり移築されたりして姿を消しました。現在は毘沙門堂のみが現存しています。 1990年代~2000年代にかけて櫓や門の一部が復元された。
なお、甲府城は長年「天守は存在しない」という意見が主流であったが、発掘調査等によって豊臣政権の時代に一時期ではあるが天守が存在しているといった意見も出てきた。
また、現存している松本城天守のような城郭が存在していたという意見もあり、2010年代には天守に関する資料を懸賞金付きで集めたり、天守を復興しようという動きも盛んであった。 しかし、2024年10月現在、天守復興の具体的な計画は建てられていない。 実現すれば新しい甲府の名名所が生まれる可能性もあるります。
まとめ
甲府城は豊臣政権下で築城され、徳川政権下でも支配の要所として重要視されました。また、現在城跡は歴史公園として整備されており、無料で石垣などの遺構や復元された門や櫓を見学できます。

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甲府城を藩庁とする、甲府藩の歴史

甲府藩幕府の直轄地でもあった
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甲府藩DATA
藩庁 甲府城
旧地域 甲斐国
石高 22万5000石
譜代・外様 家門
主な藩主 浅野家・徳川家・柳沢家

武田信玄が治めた関東の要地。江戸時代には藩が置かれた期間もあり、将軍の子息や兄弟といった将軍家の家門が藩主の座に就いた。家門以外では柳沢吉保も藩主に就き、城下の整備や利水事業などを推進した。

甲府城、武田ゆかりの地に建つ、徳川氏の城

山梨県甲府市の中心部にある甲府城は、美しい石垣と縄張りから「舞鶴城」と呼ばれる平山城です。日本百名城にも選ばれました。現在はJR甲府駅の目の前に石垣が残り、付近は「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として整備されています。

甲府城
甲府城の歴史
甲府城は甲斐国にありますが、武田氏の城ではなく、武田氏の滅亡後、豊臣期に築城された城です。築城開始の年代は定かではなく、築城主も諸説あります。
一説によれば、天正11年(1583年)または天正13年(1585年)、当時甲斐国を治めていた徳川家康が重臣の平岩親吉に城の築城を命じたとされています。
甲府城は天正17年(1589年)〜天正18年(1590年)頃に何らかの形になったようですが、その直後、小田原征伐)の後に家康が関東に移封されます。代わって甲斐国には羽柴秀勝が短期間入り、次いで天正19年(1591年)に加藤光泰が跡を引き継ぎます。
光泰の時代に甲府城の築城が再び始まり、それを浅野長政・幸長が引き継ぎ、城は豊臣政権下に完成したと推察されています。
関ヶ原の戦い後、甲府城は江戸城の守りとして重視され、再び徳川氏の平岩親吉が入城。その後、慶長8年(1603年)には家康の九男・徳川義直が城主となり、以降はしばらく徳川家の直轄領となりました。宝永2年(1705年)に柳沢吉保が甲斐・駿河両国を与えられると甲斐国は大名領になりました。吉保は城下町を整備し、曲輪などを改修しました。
その後、享保9年(1724年)には息子の柳沢吉里が大和郡山に転封になったことで天領となり、明治維新を迎えます。
明治維新後の廃城令で多くの建物は取り壊され、内城のみが残りました。その後、明治9年(1876年)には内城に勧業試験場が設置されました。以後、曲輪跡には葡萄酒醸造所や中央線甲府停車場などが次々と設置されていきます。
明治37年(1904年)、甲府城跡は「舞鶴公園」として解放。昭和43年(1968年)に県指定史跡となり、平成に入ってから公園整備事業が進み、建物や門が復元されていきます。代表的なところでは平成16年(2004年)には稲荷櫓が、平成19年(2007年)には甲府市歴史公園と山手御門が、平成25年(2013年)には鉄門が復元されました。
甲府城の見どころ①天守台の石垣
本丸には今も天守台跡の美しい石垣が残っています。甲府城内で最も高い場所で、上からは甲府市街地に加え、天気が良ければ富士山や愛宕山、南アルプスなど360度のパノラマが楽しめます。
天守台の石垣は野面積みで、下部はまっすぐですが、上部はゆるやかな弧を描く「輪取り」という構造が特徴です。石垣には主に甲府城の城内から採石された安山岩が使われました。一つの石を二つに割った「兄弟石」がいくつかあるので探してみましょう。
なお、天守台に天守が実際にあったかどうかは現在も議論の的となっています。
甲府城の見どころ1 甲府城の見どころ2 甲府城の見どころ3
甲府城の見どころ②積み方の異なる石垣
甲府城は数度にわたって修築されているため、積み方が異なる石垣が見学できます。鍛冶曲輪付近と二の丸西側には、古い石垣を継ぎ足した場所が残されており、石垣の差をはっきりと感じることができます。
また、稲荷曲輪には腰石垣の改修中に見つかった古い石垣があり、手前のものとは異なる積み方が確認されました。さらに、稲荷櫓周辺の石垣には鳥や魚が刻まれた石が見つかっているので、探しながら散策するのがおすすめです。
甲府城の見どころ4 甲府城の見どころ5 甲府城の見どころ6
甲府城の見どころ③復元された稲荷櫓
城内の北東にある稲荷櫓は、古写真や発掘調査などをもとに平成16年(2004年)に復元されたもの。江戸時代は武具蔵として使われており、2重2層の入母屋造りの建物です。
稲荷櫓前には櫓の壁や屋根の構造が展示されているので要チェック。内部には甲府城のジオラマや築城期の瓦などの出土品が展示されています。
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甲府城の見どころ④復元された山手御門
山手門と山手渡櫓門からなる「山手御門」は、甲府城にあった3つの出入り口の1つです。舞鶴城公園とはJRの線路を挟んで北にある「歴史公園」内にあり、発掘調査で発見された石垣を土台に18世紀初頭の絵図をもとに復元しました。
櫓門の内部は展示室となっており、発掘調査で出土した瓦や陶磁器、山手渡櫓門のミニチュア模型、江戸時代の歴史資料などが展示されています。
内部を抜けたところにある展望スペースからは、富士山や稲荷櫓が望めます。絶景スポットとして「関東の富士見百景」のひとつに選ばれました。
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甲府城の撮影スポット
天守台の上から見る富士山や南アルプスは絶景で、写真に残したいところ。稲荷櫓や鉄門等の復元された建物と石垣を撮影するのもおすすめですよ。春は桜の名所としても知られているほか、夜のライトアップも人気です。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。