川中島の戦い宿命のライバル、武田信玄と上杉謙信
川中島の戦い
戦国時代の宿命のライバル、武田信玄と上杉謙信。そんな2人の武将が激突した戦いが、北信濃(長野県北部)の支配をめぐる「川中島の戦い」です。12年にわたって5回も戦いましたが、結局、決着はつきませんでした。一番有名なのは4回目の戦いですが、それ以外でも信玄と謙信は互いの智謀の限りを尽くしています。今回は全5回にわたる川中島の戦いについて、それぞれ詳しく見ていきたいと思います。
「川中島の戦い」はなぜ起きたのか?
「川中島の戦い」は1553年(天文22年)から1564年(永禄7年)にかけて、甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信が5度にわたり、川中島を中心とした善光寺平周辺で戦った合戦の総称です。ちなみに川中島の戦い当初、武田信玄はまだ「武田晴信」、上杉謙信は「長尾景虎」でその後数回改名していますが、本稿では混乱を避けるため、それぞれ「武田信玄」「上杉謙信」と書かせていただきます。
川中島は現在の長野県長野市にあり、犀川と千曲川に囲まれた三角地帯で、肥沃な土壌であることから古くから農業が盛んでした。川中島の近くには善光寺があり、信仰の中心地であると同時に、その門前町は経済・商業的にも重要な拠点でした。川中島は善光寺詣での人々や、関東から京都に向かう人の通過ルートとして古くから交通の要衝としても有名でした。戦国時代には甲斐・越後・上野国の中継地として重視され、それぞれの国の武将たちが虎視眈々とねらっていました。
当時、北信濃で最大の勢力を誇っていたのは村上義清。謙信と関係の深い井上氏や高梨氏、武田氏と争いながらも、何とか勢力を保っていました。義清は北信濃を手に入れようと攻めてきた信玄を数回にわたって撃退しましたが、信玄の調略により味方が離反したこと、天文22年(1553年)に信玄に大軍で攻められたことで拠点だった葛尾城を離脱。敵対していた高梨氏に仲介を依頼し、謙信を頼って越後に落ちのびました。これを受けた謙信は信玄を退けようと出兵します。
第1次川中島の戦い:小競り合いのみで決着つかず
最初の川中島の戦いは天文22年(1553年)5月に起こりました。村上義清は北信濃の国衆と謙信の支援兵、あわせて5000人で武田軍を攻め、勝利します。これが「更科八幡の戦い」で、義清は信玄から葛尾城を奪い返しました。信玄はいったん兵を引いたものの、7月に再び北信濃に侵攻。次々と城を落とし、義清が立てこもる塩田城を攻めました。8月、義清はまたもや城を捨てて謙信に泣きつきます。
そして9月、謙信が自ら北信濃に出陣します。「布施の戦い」で勝利し、武田方の城を次々と落として順調に勝ち進みますが、信玄は塩田城にこもり、決戦を避けました。塩田城は山城で防御に優れた城。結局謙信は9月20日に兵を引き、信玄も10月17日に甲斐に戻りました。
川中島の初戦はお互い軽い様子見のような形で終わりました。信玄にとっては義清を追い出し北信濃に新たな拠点を築くことができ、謙信にとっては武田を追い詰めたことで北信濃の国人衆が武田につくことを防げました。それぞれ互いに一定の成果を得たと言えます。
上洛する謙信、今川・北条と同盟を組む信玄
その後、謙信は初めて上洛し、京都で後奈良天皇や室町幕府将軍・足利義輝に拝謁します。上洛は4月に天皇から従五位下・弾正少弼の位をいただいたお礼のためでした。上洛の際には天皇から「私敵治罰の綸旨」、つまり反抗するものを逆賊として討伐してもいい、という許可を得ています。つまり、信玄を討伐していいという大義名分を手に入れたわけです。
一方、信玄は佐久郡など信濃国の制圧を進めます。天文23年(1554年)には嫡男の武田義信の正室に今川義元の娘を迎えることで今川氏との同盟を強化。さらに、娘を北条氏康の嫡男である北条氏政に嫁がせて同盟を結びました。これにより、武田・今川・北条による甲相駿三国同盟が成立し、謙信を共通の敵として協力していくことになります。
さらに同年、信玄は謙信に仕えていた北条高広を調略します。高広は謙信に対し反乱を起こしますが、翌年に降伏しています。
第2次川中島の戦い:200日のにらみ合い
天文24年(弘治元年、1555年)、善光寺の別当で粟田城城主の栗田永寿が謙信を裏切り信玄に下ります。これが第2次川中島の戦い、別名「犀川の戦い」の始まりです。
裏切りを知った謙信は4月に善光寺を奪還しようと出陣。永寿と信玄の援軍3000人は善光寺の西にある旭山城に籠城します。信玄は犀川の南にある大塚に布陣し、謙信は犀川の北、善光寺東側の横山城に陣を構えました。
謙信が犀川を越えて信玄と戦おうと考えたとき、邪魔になるのが旭山城です。このため、謙信は裾花川を挟んだ旭山城の向かいに葛山城を築城して旭山城をけん制した上で、犀川を挟んで信玄に向き合いました。
両軍は川中島において、200日余り対峙しました。7月19日には謙信が犀川を渡って武田軍を攻めますが決着はつかず、にらみ合いが続きます。長期戦で困るのが兵糧の確保と士気の低下。信玄も謙信もいろいろと対策をうちましたが、徐々に消耗していきました。
結局、信玄は戦の調停を今川義元に依頼し、10月15日に義元の仲介で2人は和議を結びます。和議の条件は、信玄が川中島に領地を持っていた井上氏、須田氏、島津氏の復帰を受け入れること、旭山城を破却することで、謙信はこれを受け入れます。謙信が和睦したのは、加賀に一向一揆を抑えるために出兵していた朝倉宗滴が亡くなったことも影響していたようです。これにより、謙信は犀川以北を治めるようになり、信玄の北信濃征伐は遅れることになりました。
謙信の隠居騒動、信玄はこっそり調略
1年後の弘治2年(1556年)6月、謙信は突如隠居を宣言します。家臣同士の領土争いや国衆の紛争に疲弊したことが原因だったようで、出家のために春日山城を出て高野山に向かいます。ところが、そのすきに武田方の真田幸綱らが長野盆地東部の尼飾城を陥落。さらに信玄と内通した大熊朝秀が反旗を翻し、越中の一向一揆勢と共に越後へ攻め入ります。謙信は家臣たちの説得で出家を断念し、朝秀を打ち破りました。
さらに弘治3年(1557年)2月、信玄は調略により、第2次川中島の戦いで謙信が築いた葛山城を陥落し、善光寺周辺を掌握します。次々と調略により謙信を攻める信玄。謙信が越後の雪に悩まされているすきに、上杉方の高梨政頼の居城、飯山城まで迫りました。和睦を無視した信玄の動きに、謙信は怒りを覚えたに違いません。
第3次川中島の戦い:信玄の巧みな立ち回りに振り回される謙信
謙信は高梨政頼の援軍要請を受けるも豪雪により出陣が遅れてしまいます。弘治3年(1557年)4月18日にようやく北信濃に入り、葛山城を攻め、旭山城を再興して本陣を置きます。第3次川中島の戦い、別名「上野原の戦い」のスタートです。
さぞ激しい戦が始まるかと思いきや、信玄は謙信と直接対決を徹底的に避けます。謙信は武田方に奪われていた北信濃の城を次々と攻め、一時は武田領深くまで侵入しますが、信玄はのらりくらりとかわし続けます。信玄には謙信を川中島に引きつけ、そのすきに西方面から越後を攻めようという策略がありました。7月には武田の別動隊が上杉方の平倉城を落とし、越後国境に迫ります。背後を脅かされた謙信は飯山城まで兵を引きました。なかなか決着がつかないまま、8月下旬には上野原で合戦をおこなうもののやはり決着はつきません。
こうしたなか、足利義輝が謙信を上洛させるために信玄と謙信の和議を勧告します。謙信の「軍神」「越後の虎」のネームバリューを利用して室町幕府の勢力回復をはかるつもりだったようです。信玄は信濃守護職の任命を条件に和議を受け入れます。謙信は9月に軍を撤退、10月には信玄も兵を引きました。
信玄は謙信を巧妙に避けながらも侵略を進めたことで、第3次川中島の戦いの終わりには川中島一帯をほぼ掌握しています。決着はつかなかったものの、北信濃における信玄の勢力は拡大したわけです。一方の謙信は旭山城を再興した程度であまり成果を得ることができませんでした。
謙信は「関東管領」に、信玄は再度北信濃を攻略
第3次川中島の戦いの後、謙信は義輝の求めに応じて永禄2年(1559年)4月にふたたび上洛し、将軍より関東の政務の補佐役である「関東管領」就任の許しを得ました。さらに、「上杉の七免許」と称される、幕府から謙信が特別かつ重要な武将であると認められたことがわかる特権を得ます。これは他の武将への大きなアドバンテージになり、春日山城に帰還した謙信のもとにはたくさんの武将がお祝いに駆けつけました。
そして永禄3年(1560年)5月、謙信は桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことで今川・北条・武田の同盟の力が弱まったチャンスとみなし、関東制覇をもくろむ北条氏を討伐しようと関東に出陣。北条氏の城を攻略し、永禄3年(1560年)3月には北条氏康のいる小田原城を包囲し、籠城戦が繰り広げられることになります。
ところが戦の最中、北条氏と同盟を結んでいた信玄が北信濃に侵攻。川中島の千曲川沿いに拠点となる海津城を築き、謙信の背後を脅かします。信玄が北信濃を制覇し、ひいては越後国に攻め入る可能性があることを恐れた謙信は、小田原城から撤退しました。関東を平定するためには信玄を討たなければならない。このためには直接対決が必要……こうして、川中島の戦いのなかで最も激戦だった、第4次川中島の戦いが起こるのです。
第4次川中島の戦い:敵味方入り混じる激戦
第4次川中島の戦いは永禄4年(1561年)8月から9月にかけて起こりました。この戦いについては当時の記録がほぼ残されていないため、江戸時代初期に編纂された武田氏の軍書『甲陽軍鑑』などを中心に見ていきます。
謙信は8月に越後を立ち、8月15日に善光寺に到着。善光寺に5000の兵を残して1万3000の兵とともに犀川と千曲川を渡り、16日に海津城の向かいにある見晴らしの良い妻女山に布陣しました。武田氏の勢力範囲に危険を冒して侵入して布陣しており、武田軍に挟撃されそうな位置取りで部下からも不安の声が上がりますが、謙信は動きません。「何が何でも信玄と決着するぞ」という意気込みを感じますね。一説には信玄をおびき出した後に越後から援軍を呼び、善光寺を先陣に戦う計画もあったようです。
海津城から知らせを受けた信玄は16日に躑躅ヶ崎館を出発、24日に1万8000人の兵とともに、雨宮渡を拠点に本陣を構えます。よく「茶臼山に陣取った」という記述を見ますが、『甲陽軍鑑』では茶臼山は出てきません。しばらく様子を見ていた信玄でしたが、謙信が動かないことを受け、29日には海津城に入りました。この時点で武田軍は2万人までふくれあがりました。
その後もしばらく膠着状態が続くなか、先に動きを見せたのは信玄でした。9月9日に軍議を開き、山本勘助と馬場信房が相談の元、策を提案します。兵を本体8000と別動隊1万2000の2手に分けて、本隊は妻女山ふもとの八幡原に布陣。別動隊が妻女山に夜襲を仕掛けて杉軍を八幡原に追いやり、待ち伏せしていた本隊と迎撃する作戦です。この作戦は、啄木鳥(きつつき)がくちばしで木を叩き、びっくりして飛び出た虫を食べるとされたことにちなみ、後世に「啄木鳥戦法」と名付けられています。
せっかくの2万という大軍を2手に分けるのは悪手にも見えますが、実はこれ、謙信が妻女山を撤退することを前提にした上での作戦でした。『甲陽軍鑑』では山本勘助が「別動隊が合戦を始めれば、越後勢は勝っても負けても川を越えて引き上げる」と発言しています。
ところが、謙信は海津城からあがる炊事の煙の量が増えていることを見て、武田軍の作戦を察知します。さすがは軍神、すぐさま対抗策を考えて動きます。武田軍の裏をかき、夜の間に山を下りて千曲川を越えて八幡原に布陣したのです。当時の川中島には濃霧が発生していて信玄は気が付きません。
9月10日の早朝、霧が晴れたときには武田軍の本体の目の前には謙信の1万3000人の軍。信玄はさぞかしびっくりしたと思います。上杉軍は、乱戦に持ち込む「車懸り」の策で武田軍に襲い掛かります。なお、車懸りというと、車がぐるぐる回るように次々と兵士を繰り出して戦うイメージですが、この当時は異なったようです。一方の武田軍は鶴翼の陣で応戦しますが、上杉軍のすさまじい勢いに劣勢となります。
ところが、妻女山を攻めていた武田軍の別動隊が八幡原に到着し、謙信の背後から攻めかかると、形勢は逆転。挟み撃ちされた謙信は、犀川を渡って善光寺へと逃れました。信玄も追撃を止めて八幡原に兵を引きます。謙信は善光寺に配していた兵と共に越後に帰りました。
さて、『甲陽軍鑑』では謙信が馬で本陣に切り込んで信玄に三太刀切りこみ、それを信玄が軍配団扇で受け止めたという「一騎打ち」の描写が見られます。大変ドラマチックな見せ場ですが、現在では江戸時代の創作であるという説が有力です。とはいえ、それほど武田軍が追い詰められたということでしょう。事実、この戦で信玄の弟の武田信繁や山本勘助など、重臣の武将たちが討ち死にしています。死傷者数は両軍合わせて8000人にも及んだそうです。
第4次川中島の戦いで多くの家臣を失った信玄でしたが、海津城は守り切ったことで北信濃の支配力は強まりました。謙信は越後を守り、信玄に大打撃を与えることができました。結局今回もどちらが勝ったかは曖昧なままですが、両武将ともに「自分が勝った!」とアピールしたようです。ちなみに『甲陽軍鑑』では前半は謙信、後半は謙信が勝ったとしています。
信玄・氏康に翻弄される謙信
北信濃での争いは第4次川中島の戦いである意味ひと段落しました。次の舞台は越後の隣、謙信が治める上野国に移ります。信玄は永禄4年(1561年)11月に西上野に侵攻。信玄と同盟を結んだ北条氏康も武蔵国などで謙信と戦います。信玄と戦うと関東で氏康が、氏康と戦うと信濃で信玄が出てくるというまるでもぐらたたきのような構図に謙信は翻弄されます。
さらに、信玄は飛騨国にも支配の手を伸ばします。飛騨が内乱状態にあるなか、両者は異なる武将を支援して対立したのです。信玄が飛騨を奪えば、越後を脅かすことになるかもしれない。謙信は5度目の川中島出陣を決心します。
第5次川中島の戦い:にらみ合いで終了
最後の第5次川中島の戦いは永禄7年(1564年)に起こりました。謙信は信玄のやり口に対し相当腹を立てていたようで、春日山城の越後彌彦神社に「武田晴信悪行之事」と題する願文を納めて打倒信玄を誓います。信玄をかなり罵っている願文なので、その怒りがよくわかりますね……。
謙信は8月に川中島に出陣。信玄をおびき出そうとしますが、対する信玄は決戦を避けて、長野盆地南端にある勢力範囲の塩崎城に布陣して動きません。2ヶ月にわたって対陣したもののにらみ合いだけで終わり、10月には両軍ともに撤退して終了しました。
川中島の戦いのその後
第4次川中島の戦い以降、信玄と謙信は第5次川中島の戦いで対陣することはあったものの、直接衝突することはありませんでした。両者は越中で別々の武将を支援して対立しますが、謙信は関東攻略に、信玄は今川・北条との三国同盟を破棄して駿河など東海道を攻めます。
川中島は武田氏の支配下にはいりましたが、武田氏が織田信長に滅ぼされた後は森長可が治めています。天正10年(1582年)に信長が本能寺の変でこの世を去った後は、北条・上杉・徳川氏が甲斐国・信濃国・上野国の覇権を争う「天正壬午の乱」が発生。乱後の信濃全土は徳川家が治めることになったのでした。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。