岡城大分県竹田市

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岡城DATA
別称 臥牛城、豊後竹田城
築城 1185年
住所 大分県竹田市大字竹田2889
電話番号 0974-63-1541
開館時間 9:00〜17:00
休館日 12月31日〜1月3日
登閣料 一般300円/小・中学生150円
岡城への交通アクセス
JR「豊後竹田」駅 バス約5分

HISTORY 難攻不落の名城と名高かった「岡城」

岡城は、大分県竹田市大字竹田市にあった山城です。天神山の山頂に作られ、「臥牛城(がぎゅうじょう)」、「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」といった別名をもち、難攻不落の堅城と呼ばれました。また、作曲家の滝廉太郎氏が城跡で名曲「荒城の月」の着想を得たことでも知られています。そんな数々の逸話が残る岡城の歴史を紐解いていきましょう。

源義経を向かえるために築城された伝説が残る
岡城は、文治元年(1185年)に平重盛の家臣であった緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎え入れるために築城した、という伝説が残っています。源義経は平家滅亡後に兄である源頼朝と対立し、一度は九州に逃れようとします。しかし嵐によってとん挫し、今度は奥州藤原氏を頼って東北に向かいました。 もし、岡城に源義経が入城していたら源義経が九州を平定した未来もあったかもしれない、と想像が膨らみますが、現在は調査によって奥城は14世紀頃が築城され始めたことが分かっています。
難攻不落の城として名を挙げた豊薩合戦
岡城の名前が一躍有名になったのは、天正14年(1586年)に起こった島津氏との戦いです。現在は「豊薩合戦(天正の役、天正の戦)」として知られているこの戦いは、豊後国の大友氏と薩摩国・大隅国・日向国を平定し、九州統一を目指す島津氏の間で行われ、豊臣秀吉が九州平定を行うきっかけにもなりました。 当時の城主は若干20歳の志賀親次でしたが、彼はわずか1500の兵を率いて岡城に立てこもり、37000の島津軍を退けました。また、後日勃発した鬼ヶ城の決戦では、数千の島津義弘相手に500の兵で勝利しています。この戦いぶりが評価され、豊臣秀吉が大分県日田市に所領1000石を与えたと記録に残っています。 ちなみに、志賀親次はドン=パウロの洗礼名を持つキリシタンであり、後年、主君である大友宗麟の嫡男、大友義統に疎まれる原因の一つにもなりました。 なお、この当時、まだ岡城は現在も残る石垣は築かれておらず、守りの要は土塁や空堀などでした。
戦国時代末期から江戸時代の岡城
現在も残る岡城の石垣が築かれたのは、文禄3年(1594)のことです。 前年の文禄2年(1593年)、文禄の役で大友義統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されたのをきっかけに、彼の家臣であった志賀親次も岡城を去ることになります。ちなみに、志賀親次は城から出た後で蜂須賀家政、福島正則、毛利輝元に仕え、関ヶ原の戦いにも参加して95歳の長寿を全うしました。 志賀親次が城を出た後、代わりに城主となったのは中川秀成という人物です。彼は、豊臣秀吉に仕え、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで活躍した中川清秀の次男に当たります。なお、中川清秀は摂津国のキリシタン大名、高山右近の従兄弟に当たる人物で、中川秀成自身もキリシタンでした。 中川秀成は3年の月日をかけて岡城を大改修します。岡城の建物は明治維新後に取り壊され、現在は石垣しか残っていません。しかし、阿蘇山の溶結凝灰岩を使って作られた石垣は、野面積み・打込接ぎ・切込接ぎなどさまざまな技法が用いられ、まるで石垣の見本市のような素晴らしい造りです。また、石の積み方も乱積み・布積み・谷積み・算木積みなどが用いられ、一見の価値ありです。このほか、大手道には他の城には見られない「かまぼこ石」などがあり、中川秀成の美意識やなみなみならぬこだわりを感じさせます。 このほか、縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、石垣普請に山岸金右衛門などが携わり、志賀氏が築いた城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けました。
中川氏は、関ケ原で東軍に属したため所領が安堵され、江戸幕府が開かれた後も岡城の城主を務めます。江戸時代初期には、清水門の整備、西の丸の築城などが行われ、岡城は戦のための城から「藩庁」としての城に変貌していきました。 岡城は、岩盤の台地の上に作られているため、台風や地震、火事などの被害を受けやすく、特に、明和8年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火災に見舞われています。
明治後の岡城
明治時代になると、廃城令によって岡城は石垣を残して全ての建物が取り壊されてしまいました。昭和11年(1936年)には「岡城址」として国の史跡に指定されています。 ちなみに、岡城址には作曲家の滝廉太郎氏の像が建っていますが、これは滝氏の生家が岡藩の家老を務めた上級武士の家柄であり、彼が幼少期を竹多市で過ごしたことに由来します。滝蓮太郎氏の代表曲の1つ「荒城の月」は岡城をはじめ複数の城跡をモチーフとして作られたという説が有力です。 現在の岡城址は、「岡城公園」として日本さくら名所100選、日本の百名月、日本の城百選という3つの名所に指定されています。春は桜、秋は紅葉や月を愛でようと毎年たくさんの観光客で賑わっています。
まとめ
岡城は九州統一に関わる重要な戦の舞台となり、少数の兵力で多数を破るというドラマチックな戦いが展開されました。 現在の岡城は桜や紅葉、月の名所として観光スポットになっていると同時に、さまざまな技巧を凝らされた石垣が残る史跡でもあります。足が不自由な方のために岡城料金所から城内の東中仕切までは「登城バス」も運行中です。

岡城と関連する事件を読む

九州平定秀吉が島津を下して九州を支配下に
織田信長の後を継ぎ、天下統一を進める豊臣秀吉。最大のライバル・徳川家康を天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを契機に臣従させ、天正13年(1585年)に長曾我部元親を下して四国を平定した秀吉が

岡城を藩庁とする、岡藩の歴史

岡藩一度も城主の移封がなかった
岡藩は、現在の大分県竹田市大字竹田市一帯を治めていた藩です。豊後国内では石高が最大の藩であり、豊臣秀吉の配下であった中川清秀の次男、中川秀成が初代藩主となり、明治維新まで一度も国替えがなかった珍しい藩
岡藩DATA
藩庁 岡城
旧地域 豊後国直入郡竹田
石高 7万石
譜代・外様 外様
主な藩主 中川家
推定人口 7万8000人(明治元年)

岡城、滝廉太郎が愛した雲海に浮かぶ山城

大分県竹田市にある岡城(おかじょう)は、断崖絶壁に築かれた山城で「難攻不落の名城」として知られます。瀧廉太郎が名曲『荒城の月』の着想を得た場所としても有名で、現在は国史跡「岡城跡」として整備されています。日本百名城にも選ばれており、見事な石垣群で知られています。

岡城
岡城の歴史
岡城は文治元年(1185年)、源義経の挙兵に呼応した緒方惟栄が義経を匿うために築いたのが始まりと伝えられます。その後、南北朝期の応安2年(1369年)以降には豊後国守護・大友氏の支族である志賀氏が居城とし、古い砦を修復・拡大しました。
天正14年(1586年)から翌年にかけて、大友氏と島津氏が争った「豊薩合戦」では、わずか18歳の城主・志賀親次が3度にわたる島津軍の攻撃をしのぎ、豊臣秀吉から感状を与えられました。この出来事で岡城は「難攻不落の城」として知られるようになります。
その後、大友氏が領地を没収され豊後国から退去すると、大友氏の重臣だった志賀親次も岡城を去ります。代わって文禄3年(1594年)に三木城(兵庫県三木市)から豊後竹田約6万石を与えられた中川秀成が岡城に入りました。
秀成は岡城を総石垣の城に大改修します。慶長元年(1596年)までかけて行われた改修により、石垣や曲輪は整備され、本丸や二の丸、三の丸御殿、大手門などが作られ、岡城は近世城郭へと発展しました。
その後、中川氏は岡藩主として11代にわたり城を守り続け、城は藩政の中心として栄えました。寛文4年(1664年)には西の丸御殿が完成し、増改築を経て城の中心部となっていきました。
その後、岡城は何度も火災や風水害、地震等の被害にあいましたが、そのたびに復旧・再建されました。
明治7年(1874年)、廃城令により城内の建造物は破却されましたが、石垣や郭の跡は残りました。そんな岡城の跡をたびたび訪れたのが滝廉太郎。明治34年(1901年)に作曲した「荒城の月」は、廉太郎が少年時代、岡城跡で遊んだ経験から着想を得たと言われています。
昭和11年(1936年)に国の史跡に認定。昭和62年(1987年)には築城800年祭の記念行事として20日間限定で模擬天守と大手門が復元されました。現在は石垣や曲輪跡が整備され残されています。
岡城の見どころ①整然と並ぶ石垣
岡城のいちばんの魅力は、戦国末期から江戸初期にかけて築かれた石垣群です。岡城は阿蘇山の火砕流でできた海抜325mの岩山の上、断崖絶壁にありますが、それをさらに石垣で取り囲み、堀や櫓などを設けています。
石垣に使われている石は阿蘇溶結凝灰岩で、阿蘇山の大噴火で噴出した火山灰などが堆積してできたものです。また、本丸や近戸門の周辺には刻印のある石があるので探してみましょう。
石垣は打込ハギ、切込ハギが多く、積み方は布積みや谷積みがメイン。角では美しい算木積みが拝めます。
また、三の丸の高石垣は屏風のように折れ曲がった「横矢掛り」で、優美な曲線を描く姿は見応えがあります。
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岡城の見どころ②ヨーロッパの古城を思わせる独特の雰囲気
岡城の特徴といえば、ヨーロッパの古城のようなたたずまいです。曲線的な優美な作りと、大手門の石垣跡のようなヨーロッパを思わせるつくりは、城ファンだけでなく建築ファンからも注目を集めています。
石垣や登城道の随所にある、アーチ状に積まれた半円形の「かまぼこ石」も他の城ではなかなか見られない特徴。かまぼこ石の置かれた登城道沿いの壁はまるで手すりのようになっています。
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岡城の見どころ③本丸からの絶景
岡城の中心・本丸跡は絶景スポットとして有名な場所です。かつては本丸御殿に天守代わりの御三階櫓や角櫓などが立ち並んでいました。現在は岡城天満神社が祀られています。
本丸跡は城の最も高い場所で、眼下には城下町、遠くには阿蘇五岳が広がり、360度の眺望が楽しめます。
また、本丸付近には瀧廉太郎像が置かれていますが、こちらは彫刻家の朝倉文夫の手によるもの。見晴らしのいいところにある像はフォトスポットとしても人気です。
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岡城の撮影スポット
最も人気の高い撮影ポイントは本丸跡で、晴れた日には眼下に絶景が広がります。また、岡城は桜の名所としても知られており、3月下旬から4月上旬には石垣と桜のコントラストが見事です。4月には「岡城桜まつり」も開催されます。
11月中旬〜下旬は紅葉も。冬は雪景色も美しいですが、山城なので足元にはくれぐれも注意しましょう。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。