杵築城大分県杵築市

春の杵築城1 春の杵築城2 春の杵築城3 春の杵築城4 春の杵築城5 春の杵築城6 春の杵築城7 春の杵築城8 春の杵築城9 春の杵築城10
杵築城DATA
別称 木付城、勝山城、臥牛城
築城 1394年
住所 大分県杵築市杵築16-1
電話番号 0978-62-4532
開館時間 10:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日 なし
登閣料 一般400円/小・中学生200円
杵築城への交通アクセス
JR「杵築」駅 バス約15分

HISTORY 戦国時代に大きな戦の舞台となった杵築城

杵築城は、大分県杵築市杵築にかつて存在した平城です。戦国時代、城主であった木村氏と九州統一を目指す島津氏の間で壮絶な戦いがあったことでも知られています。 そんな杵築城の歴史を紐解いていきましょう。

杵築城の築城から江戸時代まで
杵築城は、鎌倉時代から続く由緒ある御家人大友氏の庶流である木村氏によって、八坂川の河口にある台山の上に築かれました。 台山は、北に高山川、東に守江湾がある天然の要害で、おいそれとは攻められません。 木村氏はそこに連郭式の平山城を築き、台山を空堀で4つに区切りました。 築城当時は木付城と呼ばれていました。
木村氏16代目当主木付鎮直の時代、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて九州藤一を目指す島津氏と大友氏の間で豊薩合戦が起ります。 木付鎮直は大友氏に味方し、島津氏の家臣である新納忠元の軍を2か月間、杵築城に籠城して耐え抜きました。 この戦をきっかけに、杵築城は「勝山城」という別名が付いたと伝わっています。 なお、この豊薩合戦が豊臣秀吉の九州平定のきっかけを作りました。 そして、木付鎮直は主君であり、大友宗麟の嫡男である大友義統が文禄の役での失態を咎められて改易すると、木付鎮直は城内を掃き清めて妻と共に自害をしたと伝わっています。
木村氏亡き後、杵築城は豊臣家の蔵入地(直轄地)となります。前田玄以、宮部継潤が奉行を務めた後で、慶長元年(1596年)に杉原長房の所領となりました。 同年慶長豊後地震が発生し、翌年は暴風雨の被害にあった結果、天守などの建物に被害が出たため、杉原長房台山北麓に居館を移したと伝わっています。
江戸時代の杵築城
慶長5年(1600年)になると杵築は細川忠興の所領となり、慶長6年(1601年)には松井康之が城代となります。 そして、慶長13年(1608年)6月に天守が落雷によって焼失して再建されています。記録によると、この再建された天守は3重の層塔型であったということです。 慶長20年(1615年)に一国一城令が発布されると台山の主郭部が破却されて主要な機能が後の藩主御殿となる台山北麓の居館に移されていきます。 この移転は、17世紀半ばで完成し、17世紀末になると、台山の城郭は完全に廃止されました。 元禄7年(1694年)に儒学者の貝原益軒が杵築を訪れたときの記録が『豊国紀行』という本の中に「木付に城なし、町あり」という文章で残っています。 また、城下町については「木付の町は山と谷とに有りて坂多し」と記されています。 なお、17世紀までは杵築城は木付城とよばれていましたが、正徳2年(1712年)、幕府の朱印状に「木付」と書くべきところが「杵築」と記されていたため、間違えを指摘することができず、幕府に届けでを出した上で藩と城の名前を「杵築」と改めました。
明治以降の杵築城
明治を迎えると、杵築城の建物は取り壊されてしまいました。 昭和45年に台山の城址一帯が整備されて公園となり、鉄筋コンクリート造り、 望楼型3層3階の模擬天守が再建されます。 内部は資料館と展望台になっており、杵築市の観光名所の1つです。 平成29年(2019年)には国の史跡指定を目指して行われた史跡調査では土塁や堀切の遺構が確認されました。 また、江戸時代を通じて杵築藩の藩政の中心となった御殿跡は杵築神社、旧杵築中学校、旧杵築市立図書館などが建てられていて、堀、石垣、庭園の遺構が残っています。

杵築城と関連する事件を読む

九州平定秀吉が島津を下して九州を支配下に
織田信長の後を継ぎ、天下統一を進める豊臣秀吉。最大のライバル・徳川家康を天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを契機に臣従させ、天正13年(1585年)に長曾我部元親を下して四国を平定した秀吉が

杵築城を藩庁とする、杵築藩の歴史

杵築藩二つの家に治められた小藩
杵築藩はの豊後国国東郡・速見郡内を領した藩で、杵築城を藩庁として小笠原氏と能見松平という二つの家が幕末まで治めた譜代大名の藩です。 2万~4万石の小藩ですが、平地が少ない分畳の原料であるい草などと栽培
杵築藩DATA
藩庁 杵築城
旧地域 豊後国国東郡・速見郡
石高 3万2000石
譜代・外様 譜代
主な藩主 小笠原家・能見松平家
推定人口 5万2000人(明治元年)

杵築城、「サンドイッチ型城下町」のある九州の海城

大分県杵築市にある杵築城(きつきじょう)は、三方を海に囲まれた断崖絶壁の台地にそびえる海城です。山の形状が牛に似ていることから「臥牛城」の別名を持ちます。「日本一小さいお城」としても有名で、現在は模擬天守が建てられています。

杵築城
杵築城の歴史
杵築城は建長2年(1250年)、豊後を治めていた大友氏2代当主の大友親秀の6男、大友親重が鎌倉幕府の命で同地に入り、鴨川の竹ノ尾(現大分県杵築市鴨川)の高台に「竹ノ尾城」を築城したのが始まりです。なお、この時親重は苗字を地名からとって「木付」に変えています。
その後、応永元年(1394年)、木付頼直の時に城は現在の城山台地(台山)に移転します(木付城)。城は東の守江湾、南の八坂川、北の高山川に囲まれた、天然の要塞で、「三方を海に囲まれた城」と称されます。
文禄2年(1593年)、主君の大友義統が文禄の役の際の失態で豊臣秀吉の怒りを買い、改易になりました。このとき義統に従った当主の木付統直はこれを恥じて、帰国の途中で自害します。それを受けた父・木付鎮直も城を清めたのちに妻とともに自害しました。これにより、木付氏は滅亡しました。
以後、城は前田氏、杉原氏、細川氏、小笠原氏と城主が次々と変わりました。慶長20年(1615年)の一国一城令により、台山の主郭部分は破却されます。以後、政務は台山北麓にある居城(御殿)で行われるようになりました。正保2年(1645年)、松平英親が3万2000石で藩主となって以降は、明治まで松平氏が10代を治めました。なお、城は「木付城」の名称でしたが、正徳2年(1712年)、幕府が朱印状に「木付」を誤って「杵築」と書いたことがきっかけで、「杵築城」に名称を変更しています。
その後、明治維新の際に御殿を含め廃城となりますが、石垣や堀の遺構は残され、昭和45年(1970年)に模擬天守が再建されました。現在跡地は城山公園として整備され、市民や観光客に親しまれています。
杵築城の見どころ①模擬天守
昭和45年に再建された鉄筋コンクリート製の模擬天守は、三層の望楼型天守。内部は歴史資料館となっており、藩主が使用した甲冑などが展示されています。自由に着用して撮影できるような鎧兜は人気のコンテンツです。最上階の展望台からは杵築の城下町や別府湾が一望でき、往時の景観を偲ぶことができます。
杵築城の見どころ1 杵築城の見どころ2 杵築城の見どころ3
杵築城の見どころ②「サンドイッチ型城下町」
杵築城は、城下町の形に特徴があります。北台と南台に広がる武家屋敷群が、中央の商人町を挟んで向かい合う「サンドイッチ型城下町」で、全国でも珍しい形となっています。「九州の小京都」と称される美しい町並みは、城とセットにして必ず訪れたいところです。武家屋敷群は国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されており、石畳の坂道に土塀や白壁の町並みが江戸時代の面影を残しています。
北台には、西日本でも有数の規模を誇る武家屋敷群が残り、藩校「学習館」や大原邸などが公開されています。なかでも「酢屋の坂」は、石畳の坂道と石垣や土塀が重なり、写真映えするスポットとして人気です。番所の坂には北浜口番所が再建されています。
南台には最も江戸時代の面影が残るとされており、高い石垣に土塀や長屋門等が残ります。商人の町につながる「塩屋の坂」フォトスポットとして有名です。
杵築城の見どころ4 杵築城の見どころ5 杵築城の見どころ6
杵築城のフォトスポット
杵築城を背景に写真を撮るなら、天守から望む日出湾と町並みを撮影するのがおすすめです。海と城下町が一体となった景観は「三方を海に囲まれた城」の個性をよく表しています。また、城下町の石畳の坂から城を見上げる構図も人気。春は城に続く散策路に植えられた250本の桜が咲き誇り、桜と天守のコントラストが美しいですよ。
杵築城の見どころ7 杵築城の見どころ8 杵築城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。