一乗谷朝倉邸福井県福井市

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一乗谷朝倉邸DATA
別称 一乗谷城
築城 不明
住所 福井県福井市城戸ノ内町

現在の福井市街の東南方向約10キロメートル離れた、九頭竜川支流の足羽川の、さらに支流である一乗谷川沿いの谷あいにある。戦国時代の城下町と館跡、および背後の山城から構成される。

一乗谷朝倉邸への交通アクセス
JR越美北線一乗谷駅から徒歩約30分。

HISTORY 一乗谷朝倉邸について

一乗谷朝倉邸と関連する事件を読む

一乗谷城の戦い一乗谷城の戦いで朝倉氏滅亡!従弟に裏切られた最期とは
長きにわたり越前国(福井県)を支配していた名門・越前朝倉氏を織田信長が滅ぼしたのが、天正元年(1573年)に起こった「一乗谷城の戦い」です。朝倉家当主の朝倉義景は元亀元年(1570年)の「金ヶ崎の戦い

一乗谷朝倉邸と関連する人物記を読む

朝倉義景越前の貴公子
俗に戦国と呼ばれた時代、北陸越前国(現在の福井県嶺南)で頭角を現した戦国大名がいました、朝倉家です。この朝倉家に生まれたのが最後の当主、朝倉義景でした。義景は朝倉家の当主となると流浪していた足利義昭を
浅井長政北近江の浅井家最後の当主
戦国時代、近江国は交通の要所として重要な場所でした。この場所を抑えることは、天下統一に近づくことにもつながっていたのです。岐阜から京都に出るルート上にあった北近江を支配していたのが、浅井家。その最後の
お市の方戦国を代表する美女
戦国時代、戦国大名や主君と家臣間での政略結婚は外交上で重要な施策として機能していました。特に嫡男と近隣大名の娘は数多く、織田信長と斉藤道三の娘・帰蝶や松平信康(徳川家康の嫡男)と信長の娘・徳姫などの例

一乗谷朝倉邸(朝倉氏遺跡)、「日本のポンペイ」と呼ばれる朝倉義景の本拠地

福井県福井市に残る一乗谷朝倉邸(朝倉氏遺跡)は、戦国大名・朝倉氏の本拠地に築かれた居館跡です。朝倉氏5代が103年にわたり治めた城下町跡で、発掘調査によって当時の建物配置や庭園構造が明らかになっており、当時の街並みがほぼ完全に復元された「復原町並」や4つの庭園など見どころが数多くあります。国の特別史跡・特別名勝・重要文化財の三重指定を受けた全国でも珍しい遺構で、日本遺産「福井・勝山 石がたり」の構成文化財にもなっています。

一乗谷朝倉邸
一乗谷朝倉邸の歴史
但馬国朝倉庄出身の朝倉氏は、南北朝時代に越前に入り越前朝倉氏となりました。当初は黒丸城(福井市黒丸町)に本拠地を構えていましたが、後に一乗谷に移転します。応仁元年(1467年)以降のことですが、はっきりとした時期はわかっていません。
応仁の乱により京は荒れ果て政治秩序が崩壊するなか、越前朝倉氏初代の朝倉孝景は、三方を山に囲まれた谷地形であり、外部から侵入しにくく防御に優れた立地である一乗谷に本拠地を移しました。また、荒廃した京から公家や僧侶などの文化人が一乗谷に逃れてきたことから、谷では和歌や茶の湯などを楽しむ華やかな「一乗谷文化」が花開きます。永禄10年(1567年)からは将軍足利義昭が逗留し、「北陸の小京都」と呼ばれる文化都市へと発展していきます。
孝景は同地に居館を中心として、谷を縦横に走る道路沿いに家臣団の屋敷や寺院、商人や職人たちの住む町屋を配置しました。道は防御性を高めるため、直角に曲げたりT字路を設けたり、行き止まりを設けたりなど工夫して整備しました。
栄華を極めた一乗谷でしたが、越前朝倉氏5代の朝倉義景の時代に織田信長と敵対します。信長は義景に上洛するよう要請しましたが義景はこれを拒否。このため、信長は永禄13年/元亀元年(1570年)4月、義景討伐を視野に入れつつ金ヶ崎城を攻略しますが、その際信長同盟関係にあった浅井長政が離反し、朝倉に呼応して信長の退路を断ちました。このため信長は必死に退却します(金ヶ崎の退き口)。
その後、体勢を立て直した信長は織田・徳川連合軍で浅井・朝倉軍と戦います。6月に姉川の戦いで勝利をおさめた信長でしたが、信長に敵対する武将たちによる信長包囲網に苦しめられます。
ところが、元亀4年(1573年)に信長包囲網の要的存在だった武田信玄が亡くなり、包囲網は徐々に崩れていきます。これをチャンスと考えた信長は室町幕府を槇島城の戦いで滅亡させ、天正元年(1573年)8月の「刀根坂の戦い」で朝倉・浅井軍を破ります。続く一乗谷の戦いで、信長は谷に火を放って焼き尽くしました。炎は三日三晩燃え続けたと伝わっています。義景は一乗谷から逃げ延びますが、味方の裏切りにあい自刃。越前朝倉氏は滅亡しました。
その後、信長から越前八郡を与えられた柴田勝家が本拠地を北ノ庄城に移したことで、一乗谷は田畑や土砂に埋もれ、その姿は忘れられていきました。
しかし、昭和42年(1967年)から遺跡の発掘調査が開始されると、城下町が良好な状態で埋まっていることが明らかになります。昭和46年(1971年)には一乗谷城を含む278haが国の特別史跡に、平成3年(1991年)には諏訪館跡庭園などの4つの庭園が特別名勝に指定されました。さらに、平成19年(2007年)には遺跡から出た出土品のうち、2343点が重要文化財に指定されています。
一乗谷朝倉邸の見どころ①朝倉館跡
朝倉館跡は朝倉義景が住んだ館の跡で、敷地の広さは約6500㎡です。館の三方は土塁や堀で囲み、防御機能を設けていました。発掘調査から、内部には主殿、会所、茶室のほか、台所、厩、蔵などが整然と配置されていたことが分かっています。発掘調査により館の基礎が出土しており、当時の配置が分かるようになっています。このほか、「朝倉館跡庭園」には日本最古と言われる花壇が置かれています。
朝倉館跡の唐門は遺跡を象徴する存在です。もとは朝倉義景の菩提を弔うために建てられた、朝倉氏の菩提寺・心月寺の末寺である松雲院の山門で、豊臣秀吉が寄進したと伝わります。現在のものは江戸時代中期に建て替えられたものです。
門には朝倉氏の家紋である「三ツ木瓜」と、豊臣氏の家紋である「五三の桐」が彫られているので探してみましょう。唐門を入った少し先には義景の墓所があります。
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一乗谷朝倉邸の見どころ②復原町並
一乗谷朝倉邸は越前朝倉氏が支配していた、武家屋敷と町屋からなる町並を発掘調査をもとに復元した様子を見学できるスポットがあります。それが「復原町並」で、200m程度復元されています。
堀に囲まれた重臣の屋敷がずらりと並び、道路を挟んだ向かい側には武家屋敷や庶民の町家が並んでいます。建物は内部までしっかり復元されています。戦国時代の一乗谷にタイムスリップしたかのような気分が味わえると人気のスポットです。時代劇の映画等のロケ地にもなっています。なお、こちらの区画は入場料を支払う必要があります。
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一乗谷朝倉邸の見どころ③山中の「一乗谷城」
朝倉氏は一乗谷背後の一乗城山(標高473m)に、山城として「一乗谷城」を設けました。一乗谷城は一の丸、二の丸、三の丸、千畳敷跡からなり、曲輪や空堀、竪堀、堀切、土塁などの遺構が現在も残っています。なお、訪問するには城下町から約1時間山登りする必要があるので、ハイキング用の装備をそろえておきましょう。
一乗谷朝倉邸の見どころ④特別名勝の四庭園
発掘調査に基づいて復元された庭園のうち、「朝倉館跡庭園」「湯殿跡庭園」「南陽寺跡庭園」「諏訪館跡庭園」の4ヶ所が国の特別名勝に指定されています。いずれも力強い石組が特徴で、京都の影響が見て取れます。このうち最も古いのは「湯殿跡庭園」で、16世紀初頭に作られた池泉庭園です。また、湯殿庭園からは朝倉館跡を一望できます。
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一乗谷朝倉邸のおすすめ撮影スポット
朝倉館跡の唐門は定番の写真スポットなので押さえておきたいところです。写真映えする写真は復原街並みで撮影しましょう。建物に加え、道を湾曲させ、攻めてきた道からは見えにくく、こちらからは見やすい「遠見遮断方式」となっているのもポイントです。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。