朝倉義景(1/2)越前の貴公子

朝倉義景

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人物記
名前
朝倉義景(1533年〜1573年)
出生地
福井県
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一乗谷朝倉邸

一乗谷朝倉邸

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俗に戦国と呼ばれた時代、北陸越前国(現在の福井県嶺南)で頭角を現した戦国大名がいました、朝倉家です。この朝倉家に生まれたのが最後の当主、朝倉義景でした。義景は朝倉家の当主となると流浪していた足利義昭を庇護し支えるなど存在感を現しました。ところが織田信長の出現で運命の歯車が狂い、追い込まれていきます。今回は信長と対立し滅亡に追い込まれた朝倉義景を見ていきます。

越前朝倉家

朝倉義景を輩出した朝倉氏。
朝倉氏は平安時代末、日下部宗高より興ります。宗高は但馬国養父郡朝倉に住んだ事から朝倉姓を名乗り、但馬朝倉氏は始まりました。

時代は鎌倉時代を過ぎ、南北朝時代に入ります。南北朝時代の但馬朝倉氏の当主、朝倉広景は足利家一族である斯波氏に仕えます。広景の子、朝倉高景は斯波高経に仕え越前国に所領を与えられます。ところが斯波高経は貞治の変で越前守護を追われ、朝倉高景は斯波家を離れ幕府に寝返ります。そして朝倉家は越前国に定着し勢力を広げました。ここから但馬朝倉氏より分かれ越前朝倉氏が始まります。

ところが斯波家が越前守護に復帰。朝倉家は越前守護斯波家に帰参しますが、勢力を広げていた朝倉家を無視することも出来ず、斯波家は甲斐氏、織田氏(後に織田信長を輩出した織田家の最初)と共に越前国守護代に任じられました。

室町時代後期に入ると、朝倉孝景(英林孝景)は守護代の甲斐常治とともに斯波家と対立。越前国をほぼ手中に納め実質的に越前国の領主となりました。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定します。ここから朝倉家は、戦国大名朝倉家となりました。

戦国時代には早期から越前国を統一していた為、隣国の若狭国(現在の福井県嶺南)や加賀国(石川県)、近江国(滋賀県北部)、美濃国(岐阜県)に出兵し周辺を伺いました。
越前朝倉家は孝景の時代に戦国大名化し、そこから氏景、貞景、孝景と子が継いでいきます。そして孝景の子として朝倉義景は生まれました。

義景の誕生と家督相続

朝倉義景は天文2年(1533)9月、越前朝倉家10代当主朝倉孝景の長男として生まれます。幼名を長夜叉。母は若狭国守護武田家の娘だと言われています。

義景16歳の天文17年(1548)、父の孝景が亡くなった為に当主を継ぎます。9月には京都に上洛し代替わりの挨拶を行っています。正室には室町幕府管領細川晴元の娘を迎えるなど京と関係を構築していきました。

天文21年(1552)6月、室町幕府13代将軍足利義輝(当時は義藤)より「義」の一字を与えられ最初の名前「延景」から「義景」に改名しました。反対に義景は庭籠の巣鷹を義輝に献上するなどして関係を築いていきます。更に左衛門督に叙任されます。歴代の朝倉家当主でもここまでの高位を与えられた事はありませんでした。正室に管領の娘を迎えた事や力の弱い将軍足利義輝が朝倉家に期待し優遇したと考えられています。

こうして若くして朝倉家の当主に就いた義景は外交で存在感を示し、勢力を拡大していきます。これが出来た背景には政治軍事を任されていた宿老の朝倉宗滴の存在が大きく関係しています。

義景と宗滴

戦国大名朝倉家。朝倉家は室町時代中期に朝倉孝景が越前国を事実上専有し戦国大名化します。この孝景の8男が後の朝倉宗滴です。つまり朝倉義景の曽祖父(祖父の父)朝倉氏景の弟に当たります。宗滴は軍事、政治に才能を見せ兄の氏景から貞景、孝景、義景と朝倉家当主4代の宿老として活躍しました。

宗滴は文明9年(1477)に生まれます。ちょうど京都で起こった応仁の乱が終わった年です。文亀3年(1503)、越前国敦賀城城主であった朝倉景豊が朝倉宗家を裏切ります。裏切った景豊の妹を娶っていた宗滴は加勢を求められましたが、当主の朝倉貞景(兄の子)に密告し裏切りは露見。朝倉景豊は自害を命じられ、敦賀城は宗滴に与えられ頭角を現していきます。朝倉家の軍事は宗滴に任せられ、越前国の北にあたる加賀国(現在の石川県)の本願寺一向一揆や南の若狭国(現在の福井県嶺南)、更に近江国にまで出兵しました。大永8年(1528)には京の管領細川家の内紛(両細川の乱)にも介入し中央にまで名を轟かせました。
こうして外敵から越前朝倉家を守り、他の国の争いにまで介入した宗滴は朝倉家の事実上の当主として見られています。

朝倉宗滴は軍事、政治に才を見せただけではなく、鷹を庭で卵から孵す人工繁殖を行ったり、当時先端の文化と見られた茶の湯を嗜み名品「九十九髪茄子」を一時所有するなど多彩な才能を見せました。こうして一代で戦国朝倉家を作り上げた宗滴。朝倉義景が当主となった後も後見しましたが、天文24年(1555)9月に享年79で亡くなりました。しかし戦国時代の巨星である宗滴の喪失を22歳の当主義景は後々に痛感する事になります。

義景と足利義昭

天文24年(1555)に朝倉宗滴が亡くなると、朝倉義景は自ら政務を執るようになります。ここから南の若狭国、北の一向一揆が事実上治める加賀国と争いました。

さて義景が自ら政務を執るようになって10年が経ちました。永禄8年(1565)、京において足利義輝が三好家によって殺害されます(永禄の変)。ところで足利義輝には弟がいました、後の足利義昭となる覚慶です。覚慶は奈良の興福寺で僧を勤めていましたが、兄の義輝が殺害されると三好家により幽閉されます。

朝倉義景は義輝の家臣であった細川藤孝や和田惟政などと連絡を取りあい覚慶を興福寺から脱出させたと言われています。この事は義輝、義昭の叔父に当たる大覚寺義俊と越後国守護大名の上杉謙信との書状で語られています。

奈良の興福寺を脱出した覚慶は近江の矢島御所で僧から武士へ還俗します。足利義昭は当初、若狭国の守護大名武田家を頼ろうとしましたが、のちに朝倉義景を頼ります。永禄8年(1565)11月、足利義昭は一乗谷の安養寺へ落ち着き、朝倉義景の祝賀の挨拶を受けています。

越前国へ訪れた足利義昭は朝倉義景に自らを擁し上洛するよう要請します。また、他の大名にも音信し上洛を促す書状を出しており、その義昭の御内書には朝倉義景の副状を添えていました。朝倉義景はこの時点で実質的に管領に相当する立場となりました。

ところが永禄11年(1568)に朝倉義景の嫡男阿君丸が急死すると義景は上洛の意欲を失います。これに足利義昭は失望し、朝倉家を諦め美濃国を奪取した織田信長に近づきます。朝倉義景は義昭を止めようとしましたが、義昭は滞在中の礼を厚く謝する御内書を残し越前から去りました。

姉川の戦い

永禄11年(1568)8月、隣国若狭国で内紛が起こります。朝倉義景は若狭国の守護大名武田元明を保護という名目で連れ去り一乗谷に軟禁し支配下に置きました。この朝倉家に武田家家臣の粟屋勝久や熊谷氏は抵抗しましたが、暫定的にも朝倉家は若狭国を領する事が出来ました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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