福井城福井県福井市

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  • 徳川家康の次男・結城秀康が築いた越前松平家の城
  • 笏谷石の石垣と内堀が残る福井の中心城郭
  • 現在は福井県庁周辺に城跡が残る

福井城とは、福井県福井市にある江戸時代初期に築かれた近世城郭である。徳川家康の次男・結城秀康により築かれ、越前松平家の居城として幕末まで福井藩の政庁となった。現在は本丸跡に福井県庁が建ち、天守や御殿などの建物は失われているが、笏谷石で築かれた石垣と内堀が城の威容を伝えている。御廊下橋や山里口御門も復元され、福井市中心部で近世城郭の面影を感じられる城跡である。

福井城の特長
目的 福井藩の政庁、越前松平家の居城、北陸支配の拠点
特長 笏谷石の石垣、内堀、天守台、福の井、御廊下橋、山里口御門
他の城との違い ・本丸跡に現在の福井県庁が建つ
・足羽山で採れる笏谷石を多く用いた青緑色の石垣が特徴である
・山里口御門と御廊下橋が復元され、往時の本丸西側の入口を体感できる
福井城の石垣
石垣 現存
種類 切込接、布積み、算木積みなど
石材 笏谷石
特長 福井城の石垣は、福井市中心部の足羽山で採石された笏谷石を多く用いて築かれている。青緑色を帯びた石材が特徴で、本丸周辺には内堀とともに石垣が現存する。石垣は横目地を通した布積みの切込接を中心とし、隅部には算木積みが見られる。天守台や本丸周辺の石垣は、福井城を代表する遺構である。
福井城DATA
別称 北ノ庄城、北庄城
所在地 福井県福井市
築城 1601年
築城者 結城秀康
住所 福井県福井市大手3丁目17-1周辺
電話番号 0776-20-0252
開館時間 福井城址は見学自由
休館日 なし
入館料 無料
備考 現在、本丸跡には福井県庁が建つ。城跡には石垣、内堀、天守台、福の井、復元された御廊下橋と山里口御門などが残る。山里口御門は、本丸西側を守る枡形門として復元された建物である。
福井城への交通アクセス
JR北陸本線・福井駅から徒歩7分。

HISTORY 徳川家康の次男が築いた福井城

福井城は、福井県福井市大手に築かれていた平城です。徳川家康の次男結城秀康が現在の形に築城し、江戸時代を通して越前松平宗家の居城となりました。そんな福井城の歴史を紐解いていきましょう。

福井城の歴史
1601年 結城秀康により福井城の築城が始まる
1606年 福井城が完成したとされる
江戸時代 越前松平家の居城、福井藩の政庁として機能する
江戸時代前期 北ノ庄の名が改められ、福居、のちに福井と呼ばれるようになる
1669年 大火により天守や山里口御門などが焼失する
江戸時代後期 松平春嶽らの時代には、藩主が御廊下橋を渡り山里口御門を通って本丸へ向かったとされる
1871年 廃藩置県により福井藩が廃止される
明治時代 城内の建物が失われ、本丸跡は官庁地として利用される
1948年 福井地震により石垣の一部が崩れる
1983年 県庁舎の建替えに合わせ、崩れた石垣の一部が積み直される
2018年 山里口御門が復元される
福井城築城以前の歴史
福井城が築城された福井はかつて北ノ庄と呼ばれており、室町時代から朝倉氏(越前朝倉氏)の支配下にありました。天正元年(1573年)、信長配下の軍勢に敗れて朝倉氏が滅亡すると、信長は越前を支配するために朝倉氏旧臣の前波長俊を一乗谷の守護代に任じ、ほかに、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益の3名を北庄の朝倉景行の館に配置します。
その後、信長は改めて越前の地を49万石で柴田勝家に与えました。柴田勝家は、天正3年(1575年)に北ノ庄城を築城します。北ノ庄城については、宣教師ルイス・フロイスによる記録が残されており、それによると天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵するほど大きな城だったそうです。また、「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれていた」とも記されています。城下町も大きく、安土の二倍はあったとも記されており、大層な賑わいであったことが分かります。
なお、北ノ庄城は天正11年(1583年)に起こった北ノ庄城の戦いで焼失しました。柴田勝家とその妻市がこの戦いで自害したことは有名です。
結城秀康の福井城築城から江戸時代まで
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで戦功第一位とされた徳川家康の次男、結城秀康が68万石で北ノ庄を与えられます。
翌年、結城秀康は家臣に知行割を実施し、福井築城に着手しました。福井城は全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月を得て完成します。築城の最中の慶長9年(1604年)、結城秀康は松平姓を名乗ることを許されています。なお、一説によると本丸・二の丸は家康縄張りと呼ばれ、家康の命令によって全国の大名が手伝普請に応じたそうです。
全国の大名から手伝普請を受けて完成した福井城は高さ約37m四層五重の雄大な大天守、荒川を東の外堀、足羽根川を南の外堀としており、旧吉野川を百間堀として利用した四重もの堀と石垣を持っていました。さらに多数の櫓や門も建造され、徳川一門にふさわしい雄大で巨大な城であったと伝わっています。
寛永元年(1624年)に3代藩主松平忠昌は北ノ庄の「北」が敗北に通じるとして、「北ノ庄」から「福居」へ、さらに後に「福井」と改名します。なお、一説によると北ノ庄城内にあった「福の井」という井戸が福井の由来であったとも伝わっています。
寛永9年(1669年)に天守が焼失しますが、財政難や幕府への遠慮から廃城まで再建されることはありませんでした。
明治以降の福井城
明治維新後の明治4年(1871年)、福井藩は福井城の解体を明治政府に申し出て、明治6年(1873年)に陸軍の管轄となります。その後、旧藩士たちが明治12年(1879年)に福井城の跡地を借り受けて開墾を始めました。さらに、明治23年(1890年)福井藩の最期の藩主である松平茂昭は福井城跡を買い戻し、旧城内に農業試験場「松平試農場」が設立され、大正11年(1921年)に移転するまで福井城址では農場が経営されます。
昭和11年(1936年)旧福井城の跡地を所有していた松平家は、城の外郭5万坪を売却し、堀や位置が木の一部が再開発の一環で取り壊されました。しかし、福井城の天守台・石垣などの大部分の遺構は現在も残されており、かつての姿をしのぶことができます。また、福井市にある高照山瑞源寺の本堂と書院が福井城本丸御殿の移築遺構であることがわかっています。
平成20年(2008年)より段階を踏んで復元工事が進められており、御廊下橋の復元、福の井の整備、山里口御門の復元などが行われています。また、「福井城址お堀の灯り」など、イベントも定期的に開催されており、福井市の観光名所ともなっています。
まとめ
福井城は、天守閣や御殿などの建物は失われていますが、門や橋、福井の語源となったという説がある福の井などは復元・整備されています。また、堀や石垣の一部は当時のまま残されており、かつての姿をしのぶことも可能です。春になるとたくさんの桜が開花し、桜と堀、桜と石垣といった組み合わせを楽しめます。

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福井藩DATA
藩庁 福井城
旧地域 越前国足羽郡北ノ庄
石高 32万石
譜代・外様 親藩
主な藩主 松平氏
推定人口 28万人(明治元年)

徳川家康の次男・結城秀康が67万石で入封。長男・忠直が酒色に溺れて流罪。弟の忠昌が越後国高田より迎え入れられた。