足利義輝剣豪と呼ばれた室町幕府13代将軍

足利義輝

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人物記
名前
足利義輝(1536年〜1565年)
出生地
京都府
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二条城

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応仁の乱の後、徐々に室町幕府の権威は落ちていきます。同時に各地の有力武将や国人などが徐々に力を増し、将軍としての力の衰退も見られるようになりました。そんな中、室町幕府13代将軍となった足利義輝は、三好長慶や松永久秀に良くも悪くも振り回され、最後は斬り殺されたとも自害したとも言われ、剣豪と言われるほどの腕を持っていました。彼はどのような生涯を送ったのでしょうか。

誕生から将軍就任まで

天文5年(1536)3月10日、第12代将軍・足利義晴の長男として、東山南禅寺で誕生。母は近衛尚通の娘・慶寿院です。幼名は菊幢丸(きくどうまる)でした。

将軍と御台所(正室)の間に生まれた男子は足利義尚以来で、摂関家出身の女性を母に持つ将軍家の男子は菊幢丸が初めてだったそうです。

誕生直後、父の義晴が近衛尚通に頼み、菊幢丸はその猶子となっています。尚通は未来の将軍の外祖父になれたことを喜び、菊幢丸の誕生を「祝着極まりなきものなり」と日記に残したほどです。
この頃の幕府では、父・義晴と管領の細川晴元が対立し、義晴は戦をするたびに敗れ近江国坂本に逃れ、菊幢丸もそれにたびたび従いました。また、それまでの将軍家嫡男は政所頭人である伊勢氏の邸宅で育てられる慣例でしたが、菊幢丸は両親の手元で育ちます。

天文15年(1546)7月27日、菊幢丸は朝廷より、義藤(よしふじ)の諱を与えられ、同年11月19日には朝廷から将軍の嫡子が代々任じられてきた左馬頭に任じられました。

同年12月19日、義藤の元服が執り行われ、近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官・樹下成保の第で行われ、六角氏当主・六角定頼が烏帽子親となりました。
定頼自身は義晴から烏帽子親になるように命じられ、何度も固辞したものの、義晴は辞退を許さなかったといわれています。

翌20日、将軍宣下の儀式が行われ、義藤はわずか11歳で父から将軍職を譲られ、正式に第13代将軍に就任。同月の末、義藤は父・義晴とともに坂本を離れ、京の東山慈照寺に戻ります。義藤はその直後より、将軍としての活動を開始しました。

細川晴元との戦い

父・義晴は没落気味であった細川晴元と決別し、細川氏綱と手を結びますが、晴元も黙ってはいません。晴元は報復として、阿波で庇護していた義晴の兄弟・足利義維を擁立。晴元は義晴を決別するまで支援しつつも、一方で義維を庇護するという、「ねじれた関係」を持っていました。

しかし、この事態は六角定頼を悩ませます。定頼にとって、義晴は晴元とともにそれまで支えてきた同志、義藤もまた自身が烏帽子親を務めた人物です。一方の晴元もまた、自身の娘婿であり、近しい存在であったため、もし晴元に味方すれば、義藤の将軍としての権威を否定し、義維を将軍として認めることになるからです。
そのため、定頼は義晴・義藤父子と晴元を和解させようと試みます。その間にも、義晴・義藤と晴元の関係は悪化、晴元は各地で氏綱派を打ち負かし、京へと迫ってきました。

3月29日、義藤と義晴は身の危険を感じ、北白川に建設していた将軍山城へと逃げ、籠城。そして、晴元との対決姿勢を鮮明にしたため、定頼は両者の板挟みになって窮します。
7月12日、義藤と義晴の籠城する将軍山城は、定頼と晴元の大軍に包囲され、定頼は父子に対して、晴元との和解を強制します。定頼の背反で、父子は為す術を失い、全面的にその要求を受け入れざるを得なくなりました。
天文17年4月、定頼は大和に入り、氏綱派の遊佐長教と面会、晴元派と氏綱派の和解を取り付けます。これにより、細川一門の騒擾は収まり、畿内の政情も安定。そのため、6月17日に義藤と義晴は坂本から京へと戻り、今出川御所に入りました。

三好長慶との戦い

ところが、細川晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあった三好氏の当主・三好長慶が晴元を裏切り、細川氏綱の陣営に転属します。

天文18年(1549)6月24日、長慶は摂津江口で政長を破ります。これにより、政長を支援していた晴元は立場が悪化、同月28日に義藤と義晴は晴元に伴われ、近衛稙家や久我晴通とともに京都を脱出、六角定頼を頼り、近江坂本へ退避します。

7月19日、長慶が氏綱を奉じて、上洛。義藤方に打撃を与えるため、松永久秀の弟・松永長頼 (内藤宗勝)は氏綱に与えられたと称して、山科七郷を横領します。
義藤としてはすぐに帰京できるという考えを持っていましたが、晴元と長慶の戦いは決着がつきそうになく、同年暮れから義晴が病に臥し、翌天文19年(1550)正月になっても改善しませんでした。義藤は父のためにすぐにでも京に戻ろうと考え、晴元とともに三好方への反撃の準備を開始。

天文20年(1551)1月末、政所頭人である伊勢貞孝が義藤を強引に京に連れ戻し、三好方との和睦を図ろうとするが失敗。だが、貞孝は奉公衆の進士賢光らを連れ、30日に京に戻り、三好方に離反しました。これを知った六角定頼の勧めにより、2月10日に義藤は朽木へ移ります。

5月5日、親長慶派の河内守護代・遊佐長教が時宗の僧侶・珠阿弥に暗殺されます。7月、三好政生や香西元成を主力とした幕府軍が再び、京の奪回を図って侵入。だが、松永久秀とその弟の松永長頼によって破られました(相国寺の戦い)。

朽木での政治

天文23年(1554)2月12日、義藤は朽木に滞在中、従三位になると同時に、名を義輝に改めています。改名することによって、心機一転を図ったと考えられます。

弘治2年(1556)4月、義輝は朝倉義景と加賀一向一揆の和平調停を行い、朝倉氏を加賀から撤兵しました。この調停に関しては、本願寺が義輝に依頼したと考えられています。

加賀は本願寺の領国でしたが、前年に朝倉氏の侵攻を受け、加賀衆に数千の死者を出し、さらには加賀四郡のうち江沼郡を奪われていたのです。朝倉氏もまた、大勝はしたものの、その後は加賀衆の抵抗を受けて攻めあぐねていて、指揮官の朝倉教景が病没する事態が起こっていました。

そこで、朝倉氏は加賀衆に苦戦したからというわけではなく、「将軍の上意に応じた」という名分を使って、この和睦を飲んで撤兵したのが真相です。本願寺は朝倉氏が加賀から撤退したことを受け、危機を脱し法主・顕如に酒を献じて喜び合ったと言われています。同時に、本願寺は義輝との連携は役立つと実感し、弘治3年(1557)4月に顕如のもとに細川晴元の娘が六角義賢の猶子として輿入れすることになりました。

晴元と定頼はともに義輝を支える存在であり、その娘が顕如と結婚したということは、義輝と本願寺が同盟したことを意味します。これにより、三好氏の支配する京都は、東の義輝側の勢力、西の大阪本願寺、つまり東西から挟撃される可能性を帯びたのです。

将軍親政と三好氏との共闘

永禄元年以降、義輝は帰京したのち、三好長慶ら三好氏を支柱として政治的立場を安定させます。
永禄3年5月、長慶は河内の畠山高政を征伐の対象とし、義輝の承認を求めました。高政が応戦の姿勢の見せたため、8月に長慶は伊勢貞孝に通して、義輝に紀伊の湯川直光に三好方に付くよう求める御内書の発給を求めています。直光は高政に近い立場にあったが、湯河氏は奉公衆として幕府に代々仕えていたため、長慶は義輝を利用して高政側の切り崩しを図ったのです。

10月2日、長慶は細川晴元が香西氏らと法禅寺で挙兵したことを受け、義輝に貞孝を通して、比叡山延暦寺と六角義賢に対して晴元を追い払うことを命じる御内書の発給を求めます。
同月15日、三好実休が高政の援軍として駆け付けた紀伊の根来衆を打ち破り、畠山氏の敗北は決定的に。同月24日に河内の飯盛山城が、27日に高屋城が開城し、高政は堺に退去しました。
永禄4年(1561)5月、長らく反三好の旗頭であった晴元が長慶との和睦に応じ、出家して摂津冨田の普門寺に入っています。

7月、畠山高政と六角義賢が結んで畿内で蜂起、久米田で7か月にわたって対陣しました。畠山氏・六角氏の蜂起は、畿内で伸長する三好の封じ込めの意図があり、同月23日に義輝は紀伊の湯川直光に対し、高政と義賢が出陣してきたので、長慶・義興父子に味方するように御内書を発給し、高政を牽制しています。

貞孝の死後、義輝は近臣の摂津晴門を新たな政所執事とし、伊勢氏の人物を任用しませんでした。これによって、かつての3代将軍・足利義満の介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、幕府将軍による政所掌握への道が開きます。また、伊勢氏に独占されていた莫大な権益を自ら掌握することで、将軍としての地盤も強固なものにしたのです。

三好氏との対立

義輝は帰京して以降、三好長慶ら三好氏の傀儡になることなく独自に政治決裁を行い、その政治的地位を固めていきますが、他方、将軍に忠誠心を見せる大名が現れたことは、三好氏にとって脅威であり、警戒心を高めさせました。

永禄7年(1564)6月に長慶は次弟・安宅冬康を逆心の疑いで誅殺するも、その死後に激しい後悔に襲われ、自身の病を悪化させます。

同年7月4日、三好氏の惣領たる長慶が病死。長慶の死後、三好氏は長慶の甥で十河一存の息子・三好重存(のち義継に改名)が新たな惣領となり、三好三人衆や松永久秀、その長男・松永久通が補佐にあたりました。
しかし、長慶をはじめとする三好氏の主要人物が死んだことで、三好氏の権威低下は決定的なものとなり、衰退していきます。一方、義輝の権威はこれを機に上昇し、幕府権力の復活に向けて、さらなる政治活動を行なおうとしました。

同年12月以降、義輝は三管領の斯波氏の屋敷・武衛陣跡に、新たな屋敷の建築を開始。この屋敷は京の二条に存在したことから、二条御所と呼ばれています。

義輝の最期「永禄の変」

しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする三好氏にとって、将軍としての直接統治に固執する義輝は邪魔な存在です。

三好三人衆らは阿波の足利義維と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合うも、朝廷は耳を貸しませんでした。
一方で、義輝が頼みとする近江の六角氏は永禄6年8月の観音寺騒動以降、領国を離れられないという事情を抱えていたのです。

永禄8年(1565)4月30日、三好重存が上洛し、5月1日に義輝に謁見。その際、義輝は重存に「義」の偏諱と左京大夫の官位を与え、重存は義重と名乗ります。
その後、5月18日までは京では平穏な状況が続きます。

5月19日、義重は三好三人衆や久通とともに、清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率い、突如として二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと訴え、取次ぎを求めて御所に侵入します(永禄の変)。二条御所の完成間近を狙った攻撃であり、 開戦は午前8時頃であったといわれています。

義輝は三好軍が二条御所に侵入したのち、劣勢であることを悟り、死を覚悟。そして、近臣らに酒を与えて、最後の酒宴を行い、皆で別れの酒を酌み交わしたのち、三好氏との取次であった進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて、義輝の御前で自害しました。

その後、義輝と近臣は三好軍に立ち向かい、近臣たちは皆討ち死にし、午後11時頃に義輝もついに力尽き、三好の兵に討たれたのでした。享年30。

義輝の最期に関しては諸説あり、フロイスの『日本史』では、義輝は自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗したが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害された、と記されています。
『足利季世記』では、奮戦する義輝は三好の兵を寄せ付けず、最期は槍で足を払われて倒れたところを、寄せ手の兵たちに四方から障子を覆い被せられ、その上から刺し殺された、と記されていますが、事件の際に在京していた山科言継の『言継卿記』には、義輝が「生害」したと記されていて、討死したとも自害したともとることができるのです。

この時、義輝とともに多くの幕臣が討死・自害していますが、三好軍は義輝の生母である慶寿院も自害に追いやり、側室の小侍従局も殺害しています。殺戮が終わると、三好軍は二条御所に火をかけ、多くの殿舎が炎に包まれたといわれています。

永禄の変は、世間を憤慨させました。特に義輝と親しくしていた大名らは怒り、上杉輝虎は「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓ったといわれています。

また、河内の畠山氏の重臣・安見宗房も「前代未聞で是非も無いこと。(略)無念の至りだ」と怒りをあらわにし、上杉氏の重臣らに弔い合戦を持ちかけています。朝倉義景の重臣らも同様に、「誠に恣の行為で、前代未聞、是非なき次第で沙汰の限りだ」と怒りをあらわにしたとされています。それほどこの事件は、世間に大きな衝撃を与えました。

足利義輝の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1536年 天文5年 0歳 室町幕府第12代将軍・足利義晴の子として生まれる
1546年 天文15年 10歳 第13代征夷大将軍に就任
1550年代 天文・弘治年間 10〜20代 三好長慶らの勢力と対立しながら将軍権威の回復を図る
1565年 永禄8年 30歳 三好三人衆・松永久通らにより二条御所を襲撃される(永禄の変)
1565年 永禄8年 30歳 御所で奮戦するも討死
関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。