小堀正次作庭で名を馳せた小堀遠州の父

小堀正次

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人物記
名前
小堀正次(1540年〜1604年)
出生地
滋賀県
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戦いに明け暮れた戦国時代、そんな時代にも文化の華は大きく咲きました。桃山文化です。文化の担い手は絵画の狩野永徳や茶の湯の千利休などがいました。この千利休の流れを汲み、江戸時代に才能を開花させたのが小堀政一(遠州)です。政一とその父、小堀正次は近江国に生まれて、地縁と血縁で足場を固めた武将でした。
今回は小堀正次、そして息子の政一について見ていきたいと思います。

小堀正次の生い立ちから歩み

小堀正次は天文9年(1540)、近江国坂田郡(現在の滋賀県長浜市)において小堀正房の長男として生まれます。新助と周りから呼ばれ育ちましたが、若い頃に出家して僧となりました。
ところが一説には、父の小堀正房が浅井家に属していた磯野員宗に仕えていました。その縁から、小堀正次も還俗し僧から武士に戻って、磯野員宗の子で佐和山城主であった磯野員昌に仕えるようになります。そして磯野員昌の娘を娶り婚姻を結びました。

しかし仕えていた磯野員昌は元亀2年(1571)、織田家の攻勢にあい降伏してしまいます。員昌に仕えていた小堀正次は、浅井家から離れ織田家に降った磯野員昌を潔よしとせず、再び出家し僧となりました。

しかしながら僧となった小堀正次は、再度還俗し僧から武士に戻ります。近江国長浜城主であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の弟、羽柴秀長に仕えました。
羽柴秀長は、兄秀吉の勢力が拡大していく中で紀伊国(現在の和歌山県)、更に大和国(現在の奈良県)に領地をもつようになります。正次はその行政能力を買われて、検地代官として羽柴秀長に仕えるようになりました。さらに羽柴秀長の没後は、兄の豊臣秀吉に仕え、大和、和泉、紀伊国の郡代に任じられます。

小堀正次は僧と武士になりながら、磯野員昌や羽柴秀長、豊臣秀吉に行政官として仕えました。ところでこの経歴を踏まえている間、あるいは少し先の話も含めますと、小堀正次は地縁の繋がりと血縁の繋がりを広げていきます。

小堀正次は磯野員昌の娘と婚姻を結びました。
その磯野員昌は晩年、武士を辞め帰農しますが、その子たちは藤堂高虎に仕えます。藤堂高虎は、小堀正次が磯野員昌の下を去り僧となった後に、員昌に仕えていた時期があり、その縁で員昌の子たちが藤堂高虎に仕えるようになります。
藤堂高虎と小堀正次は同時期に羽柴秀長の下に仕えていましたので、高虎の従兄弟、藤堂良政の娘を高虎の養女とした上で、小堀正次の長男、小堀政一(遠州)に嫁いでいます。

このように近江国北部を中心とした近江武士は地縁の繋がりで関係を築いていき、その後に血縁関係を広げる事で戦国の世を生き抜いていきました。小堀正次も地縁の結びつきから血縁を広げ、立場を築いていきます。

備中松山城城主として

慶長3年(1598)豊臣秀吉が亡くなります。秀吉が亡くなると小堀正次は徳川家康に接近しました。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起こります。小堀正次は徳川家康率いる東軍に席を置き、会津征伐へ従軍。関ケ原の戦いの後、備中松山1万4000石を与えられ大名となりました。同時に備中における幕府の直轄地、天領の管理も任されます。
その後、羽柴秀長に仕えていた時に見せた行政能力の高さを買われ、伏見城の作事奉行や備中や近江における幕府領の検地などを行います。
ところが慶長9年(1604)、江戸に向かう途上、藤沢にて急死しました。小堀正次、享年64。

小堀正次の遺領、備中松山は長男の小堀政一(遠州)が継ぎ、元和5年(1619年)政一が近江小室藩に移封されるまで、小堀家が管理しています。

正次の子、小堀政一(遠州)

さて、小堀正次の亡くなった小堀家。備中松山城は正次の長男、小堀政一が継ぐ事になりました。小堀政一。一般的には小堀遠州の名で知られ、遠州とは政一の官位「遠江守」の別称となります。
天正7年(1579)、小堀正次と磯野員昌の娘との間に出来た男子で、幼名を作助と呼ばれていました。父小堀正次が羽柴秀長に仕えると、秀長が治める大和国郡山城へ移り住みます。

この頃、秀長は千利休の弟子、山上宗二を郡山城に招いたり、千利休に師事したりするなど、郡山は茶の湯の文化が盛んな場所となります。政一はこのような環境で育ち、父正次に促されて大徳寺の春屋宗園に参禅したりしています。
羽柴秀長が亡くなると、文禄4年(1595年)に秀吉直参となって伏見城に移り住みます。この地で政一は古田織部に師事し茶の湯を学んでいきました。

慶長9年(1604)政一26才の時、父の正次が亡くなります。
ここから毎年のように幕府から作事奉行を命ぜられ、代表建築物として備中松山城の天守閣改修、駿府城の修築、名古屋城天守、後陽成院御所造営など朝廷や幕府関係の作事奉行を行っていきました。
元和5年(1619)、備中松山から近江小室藩に移封され、それに合わせて近江国や京の奉行も併せて命ぜられました。

このように大名として作事奉行に従事したことから、建築家、作庭家として才能を発揮し、その他にも茶人や書家としても後世では知られ、その美意識は政一の死後も江戸時代を通して留まるところを知らず、華道にまで影響を与える存在となります。

小堀遠州と江戸初期の文化

小堀政一は、豊臣秀吉の直参となった頃に古田織部と出会ったと考えられています。
古田織部は、豊臣家、徳川家の大名でしたが同時に、茶器・会席具製作・建築・作庭などにも力を注ぎ、千利休に師事した文化人でもありました。のちに「利休七哲」の一人に数えられています。 

織部は安土桃山時代に千利休とともに茶の湯を大成し、利休が亡くなると「織部好み」と呼ばれる一大流行を生み出しています。千利休がその価値観に静謐さを求めたのに対し、古田織部は動的な「破調の美」の道具組を行い、斬新さを目指しました。
小堀政一は、この古田織部に師事し、江戸時代にはいり織部が亡くなると千利休、古田織部が創造した文化的価値観を継承発展させていきます。

小堀政一の文化的価値観は茶の湯の世界に表れており、「きれいさび」という言葉で表されました。利休たちが築き上げた茶の湯の世界に、古来の王朝文化を取れいれ、明るく大らかで軽快な方向性に価値観を求めました。
この価値観は、政一が手掛けた作事の中にも見られ、華やかな七宝細工を好んで使用しています。鎚金などの技術の精巧さで描かれた花鳥や風景など伝統的な図柄を落ち着いた色彩で用いた七宝を造営した建物の調度や釘隠しに使用しました。
また小堀政一が築き上げた価値観は造営や茶道に留まらず、その死後に華道にも生かされるなど今日まで脈々と受け継がれています。

備中松山城

備中松山城は、岡山県高梁(たかはし)市にある山城です。別名、高梁城(たかはしじょう)とも呼ばれていますが、愛媛県の松山城を初めとした各地の同名「松山城」と混同を避けるために、備中松山城と呼ばれています。
今日まで残っている天守閣「現存12天守」の1つであり、天守、二重櫓、土塀の一部が重要文化財に指定されています。また日本三大山城(岩村城《岐阜県恵那市岩村町》高取城《奈良県高取町》備中松山城《岡山県高梁市》)の1つとされ、日本100名城の1つにも選ばれた名城です。

仁治元年(1240)、秋庭重信が備中国の地頭となり大松山に城を築いたのが、備中松山城の始まりとされます。
江戸時代に入り幕府の直轄地となり小堀正次、政一(遠州)親子が松山城の城番として入った後、池田家、水谷家が支配するようになります。水谷家の2代藩主、水谷勝宗は天守建造など3年にわたる大修築を行い現在の姿となった、と言われています。

江戸時代が終わり近代に入ると明治6年(1873)、廃城令が公布され、日本全国にある城が取り壊されていきました。松山城は新政府によって低価格で商家に売却されましたが、山の上という不便な場所にあることから次第に荒廃していきました。
昭和のはじめの話です。中学校教諭であった信野友春が崩壊寸前の松山城を調査し書籍を刊行します。この書籍を契機に山上の建物が修復の機運が高まり、以降修復が進み現在に至ります。

近年では雲海に浮かぶ城が美しいとして知られ又、真田家の居城のイメージに近いという理由で大河ドラマ『真田丸』のオープニング映像に使用されるなど、山の上にある名城として県民に親しまれています。

備中松山城の名所名物

雲海
兵庫県にある竹田城跡。天空の城としても有名な城跡ですが、備中松山城も時期や条件が合えば雲海に城が浮かぶ幻想的な風景が望めます。その姿は、天空の城とたとえられ見た者を引き付けるそうです。
雲海が発生するのは、前日の日中と、当日の早朝の気温が低い寒暖差が大きい日、具体的には前日の日中が温かく、翌日の早朝は冷え込み放射冷却が起こる日が狙い目です。時期は朝晩の冷え込みが始まる9月の終り頃から4月の頭まで、特に10月下旬から12月上旬が濃い朝霧の発生する可能性が期待されます。また2・3日前に雨が降ると出現率が上がるという説もあります。ただし、当日が雨天の場合だと出現しません。また、備中松山城のある展望台周辺では野生猿(国指定天然記念物)が出没し注意が必要です。遭遇したとしても興奮させないで下さい。また冬季は雪が積もることがありますので、ご注意ください。
ゆべし
備中松山城のある高梁に古くから伝わる郷土の銘菓が、「ゆべし(柚餅子)」です。ゆべしは餅米の中に柚子が練りこんである御菓子で、全国各所に郷土菓子として広まっています。その興りは、平安時代後期の源平合戦の頃にはゆべしは保存食として食されていたといわれています。
高梁のゆべしは、江戸時代のはじめ、小堀遠州が代官を勤めていた時に、備中国で採れる柚子を使い独自の御菓子として作られたのが始まりとされます。1800年代には藩主の板倉勝職が城下から献上されたゆべしを称賛した事から、備中松山(高梁)の郷土菓子として定着していったと言われています。又、江戸時代後期におこった藩の財政悪化に対して、ゆべしを量産して生産する政策がとられるなど城下町でゆべしを作る店が増えていったとされています。

備中たかはし松山踊り(びっちゅうたかはしまつやまおどり)

備中松山城には古くから行われている祭があり、それが歴史を重ねるにつれて現在の「備中たかはし松山踊り」となりました。
「備中たかはし松山踊り」とは、毎年8月14日からの3日間、岡山県高梁市において行われる盆踊りです。岡山県で行われる三大踊り(高梁市の松山踊、真庭市の蒜山地方で行われる大宮踊、笠岡市白石島の白石踊)の一つであり、岡山県におけるもっとも大きな盆踊りです。

松山踊りは大きく分けて3つの踊りで構成されています。
江戸時代に始まり領民を中心に踊られた「地踊り」、武家の若者が中心となり踊られた「仕組踊り」、昭和期に入り高梁の近郊で踊られていた「ヤトサ」の3種類です。

「地踊り」は、櫓を囲んで輪になり反時計周りに行進します。古くは各町内において地踊りを行う際には、地元の音頭取りが各踊り場でそれぞれ唄って音頭を取っていました。
「仕組踊り」は、10人ほどの踊り手が円陣を作って踊る演舞式の踊りで、特別の扮装を凝らし歴史上の事柄などを取り上げて演目を踊ります。
「ヤトサ」は地踊りと同様に櫓を囲んで輪になりますが、時計回りに進みながら踊り(地踊りが反時計方向のため逆方向)、地踊りと同じように櫓の上に音頭取り、和太鼓、三味線それに加えて鉦が入り踊りを盛り上げます。

地踊りは、慶安元年(1648)藩主の水谷勝隆が領民の豊穣と繁栄を願い八幡神社(和田町)の秋祭りにおいて踊らせた事を起源としています。そこから城下町の発展とともに踊り場を城下に移し、いつしか盂蘭盆会行事と重なり、盆踊りとして行われるようになりました。ところが備中松山藩は度々転封により藩主が変わり、移って来る武士は以前に住んでいた言葉を、領民は備中訛りの言葉を使用していた事から武士と領民との間には交流がありませんでした。

そこで武士は領民が行う地踊りとは別に、藩士の青年団体が中心となって、踊りを行うようになったのが仕組踊りの始まりです。
時代が明治になると、地踊りも仕組踊りも市民の間で踊られるようになります。これに昭和期に入ると、高梁市の周辺で踊られていたヤトサが伝わり踊られるようになったと言われています。

こうして現在では備中たかはし松山踊りの中で3つの踊りをそれぞれ町の中で踊る習慣ができ、備中高松城のある高梁市では、夏を彩る風物詩として毎年10万人が訪れる盆踊りとして楽しまれています。

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。