備中松山藩(1/2)5つの家が治めた小藩

池田家家の家紋「揚羽蝶」

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藩史
藩名
備中松山藩(1617年〜1871年)
所属
岡山県
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備中松山城

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備中松山藩は、備中(現在の岡山県)の一部を治めた小さな外様藩です。
備中松山城を藩庁に持っていましたが、城が山の上だったので藩政は御根小屋と呼ばれる麓の建物で行われました。
小藩ですが治める家が5つも代わっています。
そんな備中松山藩の歴史をひもといて行きましょう。

戦国末期〜江戸初期の備中松山藩

戦国時代、備中松山は三村元親から毛利氏が奪い取ります。関ヶ原の戦いで毛利輝元が西軍総大将を務めていたため、徳川家康は彼からその所領のほとんどを取り上げてしまいました。
その中に備中も入っており、備中松山は一旦天領(幕府直轄地)になります。
そして、備中松山城を管理する城番として小堀正次・政一親子を置きます。
なお。小堀政一は、茶人であり作庭家である小堀遠州のことです。

元和3年(1617年)、因幡国鳥取藩より池田長幸が6万5000石で移封してきます。
ここに備中松山藩が誕生しました。

池田長幸は新田開発などを行いますが、寛永9年(1632年)46歳で死去します。
その跡を継いだのは長男の池田長常です。なお、このときに弟の池田長教と分割相続するべし、という案が出て長教の義父に当たる脇坂安信が、池田長常・長教の叔父池田長頼に斬りかかられるというお家騒動が勃発しました。
しかし、池田長常は特におとがめを受けることなく二代目藩主に就任します。
しかし、長常は生来病弱だったので後継ぎを設けることなく33才の若さで病死し、池田家は断絶しました。

江戸時代の備中松山藩

池田家が断絶したことにより寛永19年(1642年)水谷勝隆が、備中成羽藩より5万石で移封されてきます。
水谷勝隆は大変有能な人物で、城下町を調えて交通や水路の整備を行い、新田開発に努めました。今も「玉島」という地名で残っている玉島新田は彼の命令によって開拓が始まったものです。
また、鉄産業を推奨し砂鉄採取にも力をいれています。

このほか、幕府からの信頼も篤く赤穂藩藩主の池田輝興が改易された折りには赤穂城の在番を務めるなど、外様大名でありながら譜代大名なみの待遇を受けていたと伝えられます。

水谷勝隆が67才で死去した後、長男の水谷勝宗が跡を継ぎます。彼もまた幕府の信頼篤く、譜代大名に列せられましたが、そのせいで国元に帰る時間がなくなり、備中松山藩の政治はほぼ家臣団に任されました。
それでも、父親譲りの有能さを発揮して新田開発や城下町の整備を行います。
また、現在も臥牛山の頂上にある備中松山城の改築にも着手しました。

現在残っている備中松山城の建物のほとんどが、このときに建築されたものです。
水谷勝宗が隠居した後、跡を継いだのは次男の水谷勝美でした。彼も優秀な藩主でしたが生来病弱で、後継ぎを作ること無く31才の若さで病没してしまいます。

そのため、養子として従兄弟に当たる水谷勝晴を迎えていましたが、自分が亡くなる前に彼の方が先に亡くなってしまったため、水谷家は断絶しました。

なお、次の藩主である安藤重博が入城するまでの1年半、備中松山城の管理を行っていたのが、赤穂浪士で有名な浅野家の家老、大石良雄(大石内蔵助)です。
このとき、水谷家の家老として大石良雄を迎えたのが鶴見内蔵助という同名の人物で、この2名が話し合いを行った結果、備中松山城は無血で大内良雄に譲り渡されました。
この話は「両内蔵助の対決」として、当時話題となったと伝わっています。

水谷家が断絶した後、備中松山藩の城主になったのは、安藤重博という人物です。彼は、水谷家の行った検知をもう一度やり直し、役5千石の石高を増やしました。
その結果、領民が苦しんだと伝わっています。

その跡を継いだ安藤信友は、備中松山藩藩主よりも、御家流の創始者として有名です。
藩政にもあまり関わらなかった反面、寺社奉行や大坂城代などを経て最後には老中まで上り詰め、八代将軍徳川吉宗をサポートして享保の改革にも関わっています。
安藤信友は正徳元年(1711年)に美濃加納藩に転封となりました。

安藤家が去った後備中松山藩に移封になったのは、石川総慶という人物です。山城国淀藩3代目藩主でした。
しかし、延享元年(1744年)3月、板倉勝澄と後退する形で伊勢亀山へ去ってしまいます。
この、板倉勝澄という人物は、病気がちだった上に伊勢亀山藩の藩主であったころに守山宿での朝鮮通信使饗応役を勤めたさい、多額の出費をしており、その尻拭いを石川総慶に押しつけています。

つまり、板倉勝澄は「伊勢亀山」という交通の要所にある藩の藩主を任せられる器ではないということで、左遷される形で備中山中藩の城主になりました。

しかし、備中松山藩の藩主になってからは、藩校を作って藩士の教育に勤めるなど堅実な政治を行って、長男に家督を譲りました。

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執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。