蜂須賀正勝(小六)秀吉を支えた知将と『野盗伝説』の真実
蜂須賀正勝(小六)
蜂須賀小六の名で知られる蜂須賀正勝は、豊臣秀吉の最古参家臣の一人として知られる戦国武将です。野盗の頭領だった小六が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と出会い、天下人を支えた、という伝説で有名な人物ですが、実際は尾張国の土豪で、秀吉の家臣として出世を支え、後の徳島藩蜂須賀家の基礎を築きました。今回はさまざまな伝説が多い、蜂須賀正勝について詳しく解説します。
蜂須賀正勝の出自と生い立ち
蜂須賀正勝は大永6年(1526年)に尾張国海東郡蜂須賀村(現愛知県あま市周辺)で生まれたとされています。父は蜂須賀正利で、蜂須賀氏は尾張国内で勢力を持つ土豪でした。一説によれば、蜂須賀氏は尾張守護で足利一族の斯波氏の末裔とされ系譜も伝わっています。
尾張国は木曽川・長良川・揖斐川が流れ、物流と軍事の要衝でした。蜂須賀氏はやがて、川沿いの地域に基盤を持った武装集団「川並衆(かわなみしゅう)」と関係を持ち、頭領として率いるようになったと言われています。
川並衆は船の運航や河川交通に通じ、水運を利用した兵站や物資輸送に長けていたとされています。ちなみにこの『川並衆』という言葉は昭和初期に発見された『前野文書(武功夜話)』にのみ登場するもの。武功夜話は信憑性に欠ける部分があることから偽書説があり、研究者によってどの程度参考にするのかは判断が分かれています。
とはいえ、実際に川沿いを基盤とした集団がおり、正勝達土豪が彼らと深いかかわりを持っていたのは確かなようです。
青年期の正勝は傭兵のような存在として、稲葉山城の斎藤道三、岩倉城主の織田信賢、犬山城主の織田信清に仕えました。仕えた順ははっきりと分かっておらず、斎藤道三→織田信賢→織田信清とも、織田信清→織田信賢→斎藤道三とも言われていますが、前者の説が有力なようです。
天文22年(1553年)2月15日、父・正利が他界し、28歳の正勝が跡を継ぎます。このころ正勝は妻の松(大匠院)と結婚しています。松の出自は諸説あり、益田持正の娘、三輪吉高の娘、北畠具教の愛妾とも言われています。
秀吉と「盗賊・小六」の出会いを描く「矢作橋伝説」
蜂須賀正勝といえば「野盗の頭領」というイメージがありますが、これは江戸時代の『太閤記』や『絵本太閤記』によって広まったものです。「野盗の頭領」というのは秀吉との出会いを描いた「矢作橋伝説」に関連しています。
『絵本太閤記』によれば、野盗の小六が矢作橋(愛知県岡崎市)を渡ろうとしたところ、12、13歳の子ども(日吉丸=秀吉)が橋で寝ていました。小六が日吉丸の頭を蹴って通り過ぎると、起きた日吉丸が「頭を蹴るなど無礼だ!謝れ!」と激怒。小六は謝罪するとともに、日吉丸の度胸を認め仲間に迎え入れたのでした。
なお、このエピソードについては、当時の矢作川に橋はなかった等の理由からフィクションだという説が有力です。
信長に仕え、秀吉の与力となる
蜂須賀正勝が織田信長に帰属した時期ははっきりとわかっていませんが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いに正勝は信長方として参加し、軍功を挙げています。『武功夜話』によれば、蜂須賀一族は信長の命で忍者のような役割を果たしており、百姓姿で敵地に潜入して今川義元の情報を収集しています。ただし、この時点で正勝が信長の正式な家臣だったのか、はたまた傭兵的な扱いだったのかははっきりしていません。
秀吉(当時は木下藤吉郎)の与力になった時期は不明ですが、当時の書状によれば、永禄11年(1568年)5月2日に「藤吉郎」が「小六」にあてた書状が残されており、この時点で秀吉の与力として働いていたことが分かっています。
また、『武功夜話』などによれば永禄7年(1564年)7月、『太閤記』によれば永禄9年(1566年)には秀吉の調略により信長方に下ったとしています。
墨俣「一夜城」と蜂須賀正勝
蜂須賀正勝を有名にしたのが墨俣「一夜城」のエピソードです。『信長公記』には書かれておらず、創作説が有力ですが、とても興味深いのでここで紹介します。ちなみに、「わずか数日で城を築いた」というエピソードの初出は江戸時代後半に成立した『絵本太閤記』だとされており、『武功夜話』にも記述があります。
永禄9年(1566年)、織田信長は美濃攻略を本格化させ、斎藤龍興率いる斎藤家と争っていました。信長は斎藤氏の本拠地である稲葉山城を攻めるための前線基地として、墨俣に城を作ることを家臣に命じます。
最初は佐久間信盛に、続いて柴田勝家に建設を命じますが、二人とも失敗。最後に名乗りを上げたのが秀吉で「7日で完成させます」と宣言し、正勝ら川並衆とともに3日間かけて城を築城しました。
このとき秀吉達は、墨俣が川に囲まれていることから、川の上流で木材を事前に加工して城のパーツを作り、夜は筏で墨俣まで輸送しました。現地では昼は馬防柵を作って敵方と戦い、夜は素早く築城することで、城を完成させました。なお、「城」といっていますが、実は砦のような存在だったと推察されています。
こうして墨俣城は無事に完成し、信長はこの城を強化しつつ美濃の攻略に注力。永禄10年(1567年)8月、稲葉山城の戦いを制して美濃を統一しました。
秀吉の重臣として外交交渉を担う
美濃攻略後、蜂須賀正勝は秀吉軍の中核として存在感を増していきます。元亀元年(1570年)4月の金ヶ崎の戦いでは秀吉とともに殿(しんがり)を務めました。続く姉川の戦いにも参加し、明治5年に成立した『蜂須賀家記』によれば、首級を得ています。なお、息子の家政(13歳)はこの戦いが初陣でした。
天正元年(1573年)9月、浅井氏との最後の戦いとなる「小谷城の戦い」では秀吉軍は先駆けを務めており、『武功夜話』によれば、このとき開城の使者に立っています。秀吉の重臣となっていた正勝は、以後もここぞというときの交渉役として活躍していくこととなります。秀吉も正勝の交渉能力を高く評価していました。
浅井氏が滅び、秀吉が近江長浜城の城主となると、重臣だった正勝は長浜に領地を得ました。天正5年(1577年)以降になると、正勝は秀吉の中国攻めに加わり、武功を立てつつも秀吉や信長への「とりなし役」として、外交交渉に励みました。家臣でありながらも、信長とのパイプも有しており、一説によれば「秀吉の目付役」だったのでは、とも言われています。
史料からは、正勝が敵の調略や戦の和睦交渉などさまざまな面で活躍していたことが推察されます。例えば『信長公記』によれば天正6年(1578年)、3月から始まった三木城の戦い(三木の干殺し)にも正勝は調略を成功させています。
三木城の戦いでは、10月に織田方の重臣・荒木村重が謀反を起こして織田軍に大打撃を与えます。その際、正勝は村重の家臣で大和田城(大矢田城との記述も)の阿部二右衛門や重臣・芝山源内らを調略して信長方に引き戻しています。2人が戻ったことを喜んだ信長は二右衛門に金200枚を与えました。
播磨龍野城5万3000石の大名へ
天正8年(1580年)1月、三木城の戦いは秀吉軍の勝利で終結し、前後して敵方の支城も陥落しました。秀吉は播磨平定に成功した功績により、信長から播州16郡を与えられています。その後天正9年(1581年)にかけて、秀吉は家臣たちに領地を分配しました。このとき蜂須賀正勝には龍野城5万3000石を与えています。
天正9年(1581年)6月に秀吉は鳥取城を包囲し、兵糧攻めを仕掛けます(第二次鳥取城の戦い)。鳥取城は同年10月に開城しますが、この戦いは「鳥取城の渇え(かつえ)殺し」と呼ばれるほど凄惨なものでした。
正勝は第二次鳥取城の戦いの間、播磨で秀吉の留守を守り、息子の家政が秀吉に同行して出兵していたという説と、秀吉とともに戦っていたという説があります。家政がかつての父と同じ「小六」を名乗っていたため、史料に混乱が見られるためで、はっきりしたことは分かっていません。
本能寺の変と中国大返し
天正10年(1582年)に入ると、秀吉は備前・備中攻めに取りかかります。その一環として、蜂須賀正勝は毛利水軍の調略をはかっており、小早川隆景の重臣である乃美宗勝・盛勝に内応を働きかけたことが書状からわかっています。
次々と毛利の支城を落とす秀吉軍は4月15日、攻略の要となる備中高松城を3万の大軍で包囲しました。そして黒田官兵衛の献策のもと、水攻めを開始します(備中高松城の戦い)。
ところが水攻めのさなかの6月2日、本能寺の変が起こりました。信長の死を知った秀吉はただちに毛利方と講和し、畿内へ引き返しました。これが有名な「中国大返し」ですが、この講和交渉を行ったのが蜂須賀正勝と杉原家次でした。ちなみに『蜂須賀家記』では、毛利と和睦して明智を討つべし、と進言したのは正勝とされています。
結局備中高松城主・清水宗治の切腹と備中・美作・伯耆の3ヶ国の割譲を条件に講和は成立。このとき正勝・家次と宗治がやり取りした書簡が今でも残されています。
その後、正勝は秀吉軍とともに京に向かい、6月13日の山崎の戦いで明智光秀軍を下します。清洲会議を経て信長の後継者的存在として勢力を拡大した秀吉は、毛利勢と本格的な和睦交渉に入りますが、このとき正勝は秀吉方の窓口として活躍。毛利方の領国割譲の交渉を黒田官兵衛と実施します。
交渉は長期化し、この間に秀吉は賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いを駆け抜けています。なお、正勝は小牧・長久手の戦いに参戦しましたが、体調不良に悩まされ、駕籠などを利用して出陣していたようです。
和平交渉は何度も実施され、天正12年(1584年)10月、岡山で秀吉方と毛利方の最後の交渉が行われました。秀吉方は正勝と黒田官兵衛、毛利方は小早川隆景や吉川元春などが参加し、交渉が決裂した点はあったもののとりあえず一応の決着がつき、12月には交渉で決められた通り、毛利輝元の娘と秀吉の養子の羽柴秀勝の婚礼が開催されました。この際正勝は黒田官兵衛とともに婚礼に関する実務を担当しています。
翌天正13年(1585年)1月には秀吉側が領土問題を譲歩。協定において秀吉側としていた美作高田城と備中松山城を毛利氏に譲るとともに、毛利氏が引き渡す予定だった伯耆八橋城を毛利に与えました。こうして天正10年以来もめていた和平交渉は無事に終結しました。その陰に正勝の活躍があったことは言うまでもありません。
四国平定と蜂須賀氏の阿波国拝領
天正13年(1585年)、秀吉は四国を平定しますが、この際蜂須賀正勝は秀吉と長宗我部元親とのパイプ役を務めました。元親の赦免を取り付けたのも正勝で、のちに元親は謝意を表す書状を送っています。ちなみに、この頃、正勝の病は一進一退を繰り返し、四国平定後に大坂へ戻った際には病床に倒れました。
四国平定後、元親が治めていた阿波徳島17万3000石(6000石とも)が蜂須賀家に与えられました。ただし実際に阿波国に入ったのは嫡男でともに四国出兵で活躍した蜂須賀家政でした。『蜂須賀家記』によれば、正勝は自分が老いたことを理由に息子に論功行賞を与えるようにと秀吉に願っています。また、中央で秀吉を支える立場にあった正勝は、一国を治めることが難しいという側面もありました。
その後、家政は秀吉から稲田植元をはじめとする7名の家臣を補佐役として差配してもらい、阿波国を運営していきます。これは九州攻めが差し迫るなか、四国をまとめようという秀吉の考えがあったからのようです。このころ小六は60歳になっており、この7名に対し若い息子を頼む、といった書状を出しています。
蜂須賀正勝の最期
息子の蜂須賀家政が阿波国の統治に尽力する中、蜂須賀正勝はといえば四国征伐から大坂に戻ってから病が再発し、病床にありました。そして天正14年(1586年)5月26日にこの世を去りました。『武功夜話』によれば5月中旬に急変の知らせを受けた家政が大坂に駆けつけましたが、正勝は家政に阿波国に戻り執務を続けるよう訴えました。このため家政は正勝の死に目に会うことができませんでした。
正勝の死後、蜂須賀家は家政、そして孫の蜂須賀至鎮へと受け継がれていきます。至鎮の時代、元和元年(1615年)には淡路国7万石余を与えられ、25万7000石の四国最大級の大藩に発展。蜂須賀家は徳島藩主家として江戸時代を生き抜いていくのです。
蜂須賀正勝の年表
| 西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 1526年 | 大永6年 | 0歳 | 尾張国蜂須賀村に生まれる(通称:蜂須賀小六) |
| 1560年代 | 永禄年間 | 30代 | 斎藤道三や織田氏に関わり、のち木下藤吉郎(豊臣秀吉)に従う |
| 1566年頃 | 永禄9年頃 | 40歳頃 | 墨俣築城に関わったと伝わる |
| 1573年 | 天正元年 | 47歳 | 羽柴秀吉から近江長浜で所領を与えられる |
| 1581年 | 天正9年 | 55歳 | 播磨龍野城主となる |
| 1582年 | 天正10年 | 56歳 | 山崎の戦いで羽柴秀吉に従う |
| 1583年 | 天正11年 | 57歳 | 賤ヶ岳の戦いに従軍 |
| 1584年 | 天正12年 | 58歳 | 小牧・長久手の戦いに従軍 |
| 1585年 | 天正13年 | 59歳 | 四国征伐に従軍し、豊臣政権下で重きをなす |
| 1586年 | 天正14年 | 60歳 | 大坂で死去 |
- 【参考文献など】
- 「史伝 蜂須賀小六正勝」牛田義文/著(清文堂)
- 「中国国分/四国国分-秀吉の天下取りと智将・蜂須賀正勝-:特別展」徳島市立徳島城博物館
- 「増補新版 豊臣家臣団の系図」菊地浩之/著(KADOKAWA)
- 「小六伝―中年から人生を開いた男の物語」戸部新十郎/著(PHP研究所)
- 執筆者 編集部(日本の旅侍) 日本の旅侍は全国の城情報を中心に発信するWebメディア。旅侍は日本人による日本の情報を世界に発信することを目指して運営している媒体です。