徳島城徳島県徳島市

秋の徳島城1 秋の徳島城2 秋の徳島城3 秋の徳島城4 秋の徳島城5 秋の徳島城6
徳島城DATA
別称 渭山城、渭津城
築城 1585年
住所 徳島県徳島市徳島町城内1

徳島城はJR徳島駅の北側にあり、徳島市の中心部にある連郭式の平山城。

徳島城への交通アクセス
JR「徳島」駅から徒歩約10分。

HISTORY 庭園と石垣が往年の面影を残す徳島城

徳島城は徳島県徳島市にあった平城です。蜂須賀家政が築城し、以後明治を向かえるまで蜂須賀家が城主となって治めました。城内の建物は残っていませんが、庭園と石垣が往年の面影を残しています。 そんな徳島城の歴史を紐解いていきましょう。

徳島城築城まで
徳島は、鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が治めていましたが、至徳2年(1385年)に室町幕府の2代目管領であった細川頼之が南朝方の勢力を討ち、渭山城・寺島城の2城を築きます。
戦国時代になると徳島は多くの武将が支配権を巡って争いましたが、天正10年(1582年)に土佐の長宗我部元親が徳島の地を平定し、支配下に治めました。
しかし、その3年後の天正13年(1585年)豊臣秀吉が四国を征伐し、長宗我部元親から阿波・讃岐・伊予の3カ国を割譲されます。その後、阿波(徳島)は四国攻めで勲功のあった蜂須賀家政に与えられました。この蜂須賀家政が渭山城を半ば建て直す形で徳島城を築城します。
徳島城は、渭山に本丸を築き東と西の二の丸が直線に並んでいる「連郭式」です。山裾には、東南に三の丸、西に二の丸が築かれました。天守閣は築城当時には本丸にありましたが、江戸初期に解体されて西の丸に移築されています。
徳島城は天正14年(1586年)に完成しました。このとき、蜂須賀家政の石高は18万6000石でした。その後、蜂須賀家政の嫡男、至鎮が大坂夏の陣で功績を挙げたため淡路7万1千石が加増され、25万石7千石となります。この石高は江戸時代を通してかわらず、蜂須賀家は徳島藩主として明治維新まで徳島の地を治め続けました。
明治以降の徳島城
明治を向かえると、徳島城は廃城令に基づいて敷地内の建物がほとんど解体されます。その後、明治38年(1905年)に日露戦争に勝利をした記念として翌明治43年(1910年)に城址が「徳島公園」として整備され、広く市民に開放されました。
昭和16年(1941年)には表御殿庭園が国の名勝に指定されます。なお、当時は庭園のほか石垣・堀・鷲之門が残っていましたが、昭和20年(1945年)の徳島空襲により、鷲之門が消失してしまいました。
その44年後の平成元年(1989年)鷲之門が復元され、平成18年(2006年)には日本100名城(76番)に選定されます。
まとめ
徳島城は明治以降ほとんどの建物が取り壊され、往年を偲べるものは庭園と石垣のみです。なお、公園内には博物館もあり、蜂須賀家縁の品を見学できます。徳島駅からもほど近い場所にあるので、地元の方の憩いの場となっているほか、観光名所にもなっています。特に春は桜の名所としても有名です。

徳島城を藩庁とする、徳島藩の歴史

徳島藩戦国末期から蜂須賀家が治める
島藩は、江戸時代を通して徳島県と淡路島を治めた藩です。戦国末期、四国征伐の功績によって豊臣秀吉よりこの地を与えられた蜂須賀家政を祖とし、そのまま明治維新まで蜂須賀家が治め続けたという珍しい藩です。そん
徳島藩
徳島藩DATA
藩庁 徳島城
旧地域 阿波国
石高 25万7000石
譜代・外様 外様
主な藩主 蜂須賀家
推定人口 71万人(明治元年)
日本の城フォトコンテスト.03