大坂夏の陣豊臣宗家、ついに滅亡
大坂夏の陣
徳川家康が豊臣家を滅ぼした合戦が、「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」の2度の戦いからなる「大坂の陣」です。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では豊臣家・徳川家双方が打撃を受けるなか和平を結びましたが、両家の対立は変わらないままでした。そして慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が起こります。真田幸村の猛攻に家康は切腹の危機に陥りますがなんとか挽回し、大坂城を陥落させました。今回はそんな大坂夏の陣について解説していきます。(冬の陣は別記事をご参照ください)
大坂冬の陣について振り返る
大坂夏の陣について解説する前に、そもそも大坂の陣がなぜ起こったのか、前半の大坂冬の陣はどのような結果だったかを確認しておきましょう。大坂の陣の原因は徳川家と豊臣家の対立にありました。徳川家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍の位につき、江戸幕府を開いたのち、慶長10年(1605年)に征夷大将軍を嫡男の徳川秀忠に譲ります。将軍職を徳川家の世襲制にしたわけです。
これに反発したのが徳川家の主君筋にあたる豊臣家。そもそも豊臣家は豊臣秀吉亡き後、後を継いだ幼き豊臣秀頼を支えるために家康がいる、という認識。「秀頼が成長した今、家康の後を継ぐのは秀頼」と考えていました。豊臣家の中心的存在だった秀頼の母・淀殿は家康に激怒し、両家は対立していきます。
こうしたなか、豊臣家が再建した、京都市の方広寺の梵鐘に彫られた「国家安康(こっかあんこう)」「君臣豊楽 子孫殷昌(くんしんほうらく しそんいんしょう)」という銘文について、徳川家が「家康の字を分断するとともに、豊臣家が君主として栄えるという意味になる。徳川家に対する呪詛なのでは」と批判します。俗にいう「方広寺鐘銘事件」で、これが大坂の陣開戦のきっかけになりました。
こうして慶長19年(1614年)11月19日、大坂冬の陣が始まります。諸大名たちが参加した約20万の徳川軍に対し、豊臣軍は関ヶ原の戦いや改易などで浪人となった旧豊臣家臣など約10万で対抗します。
当初は豊臣軍を順調に撃破していた徳川軍ですが、大坂城に籠城する豊臣軍をなかなか攻め切れません。さらに、大坂城の出城で真田幸村率いる「真田丸」が徳川軍を苦しめます。そんななか、徳川軍は大坂城に向かって昼夜問わず砲撃を繰り返し、精神的に豊臣軍を追い詰めまる作戦を開始。砲撃により淀殿の侍女が死傷する事件が起こったことをきっかけに豊臣軍と徳川軍の和平交渉が始まり、12月18日に和平が成立。大坂冬の陣は終結しました。
和平交渉の結果、大坂城は外堀を埋められ、真田丸は壊され、二の丸と三の丸を撤去されてしまうことになります。大坂城の防備の要である堀や真田丸が無くなってしまうことは、豊臣家にとって大きな痛手でした。和平交渉で堀を守り切れなかったこと、それが大坂夏の陣での敗北につながっていくのです。
そして大阪夏の陣へ
大坂冬の陣が終了すると、徳川家康は駿府(現静岡県)に帰還します。大坂城に残った豊臣家は浪人たちに堀や塀の復旧をひそかに命じます。大坂城が丸裸になってしまったわけですから、なんとか守りを固めようとしたのです。ちなみに、大坂冬の陣の和平交渉の結果、豊臣家が雇った浪人たちは罪に問われないことになり、浪人たちは大坂城にとどまっていました。
この浪人が大坂城下の町で民に乱暴を働く事件が発生。さらに豊臣家に米や材木を備蓄する動きがあったことなどから、家康は3月、豊臣家に対して浪人を解雇するか、豊臣家の移封(大坂城退去)のいずれかを求めました。豊臣家からの答えは否。このため、家康は4月6日、大名たちに豊臣家を攻めるよう命じます。
一方の豊臣家は、和平を求める豊臣秀頼や大野治長と、徳川家と戦いたい大野治房(治長の弟)とで内輪もめをしていました。そうしたなかでの家康の要求は受け入れがたいものでいた。戦いは避けられないと考えた豊臣家は武器を用意し堀を掘り返すなどして戦に備えます。ちなみに、この段階で豊臣家を捨てて大坂城を去る人もいたため、軍勢は7万8000人規模まで減っています。
大坂夏の陣①孤軍奮闘・後藤又兵衛
そして4月26日、大坂夏の陣が始まります。豊臣方は大坂城が丸裸にされてしまっていることもあり、大坂冬の陣のような籠城戦ではなく、野戦にて決着をつけることを決意。河内(大坂府東部)、大和(奈良県)、紀伊(和歌山県)方面から大坂城に迫る徳川軍に先制攻撃を仕掛けます。
4月26日、大野治房が徳川方の筒井定慶が治める大和国の郡山城(奈良県大和郡山市)を攻撃し、2000の兵で城を落としました。さらに28日には徳川家の物資調達に協力していた堺を焼き討ち。続いて紀伊国(和歌山県)の浅野長晟を攻めようとしましたが、失敗して大坂城に引き返しました(樫井の戦い)。
5月6日には、大和方面から来る伊達政宗率いる徳川軍3500を豊臣軍が迎撃する「道明寺の戦い」が起こります。先発として豊臣軍から後藤又兵衛が出陣しており、毛利勝永・真田幸村らと国分(大坂府柏原市)で合流して徳川軍を攻める予定でしたが、豊臣軍は寄せ集めの軍隊だったことで連携がうまくいきません。一説には濃霧のせいでうまく合流できなかったのだとか。もともと浪人の集まりの豊臣軍は非常時の情報共有能力や統率力があまり高くなく、こうしたことが大坂冬の陣の敗退につながっていくのです。
先に合流地点についたのは又兵衛隊でしたが、徳川軍はすでに国分に展開していました。このため、又兵衛は近くの小松山に布陣し、援軍を待ちつつも何とか徳川軍を押しとどめようとします。これを徳川軍が攻め、午前4時から正午まで約8時間にわたる激戦の末、又兵衛は討ち死にしました。
その後、集合場所に遅れてきた毛利勝永や真田幸村たちは崩れた軍を立て直して徳川軍の伊達政宗隊と戦います。このとき奮起した幸村らは政宗隊を押し戻すことに成功。やがて戦線は膠着状態になりましたが、このとき豊臣軍に大坂城から八尾・若江の戦いの敗退と退却するようにという命令が伝えられ、豊臣軍は退却。一方の徳川軍は兵の疲労を理由に追撃しませんでした。
このとき撤退する豊臣軍の殿を務めたのは幸村で、徳川軍に対し「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候(関東の軍勢は百万いても、そのなかに男子は一人もいないのか)」と言い放ったそうです。
大坂夏の陣②八尾・若江の戦い
同日に起こったのが、河内から攻めてくる徳川軍本隊と豊臣軍が戦った「八尾・若江の戦い」です。徳川軍は藤堂高虎、井伊直孝、本田忠朝、前田利常、松平忠直らが率いる5万5000の兵と、そのあとに徳川家康・秀忠親子がいる本軍の約12万。対する豊臣軍は木村重成率いる6000の兵と、長宗我部盛親、増田盛次ら率いる5300の兵でした。
まずは豊臣軍・長宗我部盛親隊が徳川軍・藤堂高虎隊と対峙します(八尾の戦い)。萱振村(大坂府八尾市)にいた盛親隊の先鋒を高虎隊が攻撃したことを知った盛親は、長瀬川で高虎隊を待ち伏せしようと策を練ります。全兵士を馬から下ろし、川の堤防の上に槍を持たせた状態で伏せさせ、高虎隊が接近するやいなや一斉に立って槍で攻撃しました。この攻撃に高虎隊は混乱し、藤堂高刑を始めとした武将たちが死亡しました。戦いは盛親隊が優勢でしたが、後述する若江の戦いで豊臣軍が敗走したため、孤立を恐れた盛親は大坂城に退却します。
一方若江(大坂府東大坂市)に布陣したのは豊臣軍の木村重成。高虎隊の攻撃を受けましたが勝利します。豊臣軍の有利かと思いきや、徳川軍の井伊直孝率いる軍勢が重成隊を攻撃。重成隊は壊滅状態になり、重成自身も戦死してしまいました(若江の戦い)。
大坂夏の陣③天王寺・岡山の戦い
そして5月7日、大坂夏の陣のハイライトともいえる「天王寺・岡山の戦い」が起こります。事実上の最終決戦です。
豊臣軍は徳川軍を迎え撃つべく、大坂城の南側(大坂府大坂市阿倍野区から平野区)に軍勢を集結させました。そこに攻め込んだのが徳川軍で、天王寺口と岡山口から大坂城に向かって攻め寄ります。ここで各軍の布陣を確認しておきましょう。
- 豊臣軍
- 真田幸村ら真田一族(茶臼山・3500)
毛利勝永(天王寺口・6500)
大野治房(岡山口・4600)
大野治長(後詰め・詳細不明(1万5000とも))
明石全登(別動隊・300)
このほか、茶臼山周辺などに兵を配し、合計約5万の兵で徳川軍を迎えました。
- 徳川軍
- 浅野長晟(茶臼山・5000)
松平忠直(茶臼山・1万5000)
本田忠朝(天王寺口先鋒・5500)
榊原康勝(天王寺2番手・5,400)
酒井家次(天王寺3番手・5300)
前田利常(岡山口先鋒・2万)
井伊直孝・藤堂高虎・細川忠興(岡山口2番手・7500以上)
このほか、茶臼山には大和路勢3,500を配しています。
徳川家康は1万5000の兵と共に天王寺口の後方に、秀忠は2万3000の兵と共に岡山口の後方にそれぞれ本陣を置き、ツートップで攻めます。このほか、本陣の後詰めなどを含めると合計15万の兵を動員しており、豊臣軍とは大きな兵力差がありました。
大坂夏の陣④家康危機一髪!?真田幸村の突撃
こうした状況で真田幸村が主張したのが、総大将である豊臣秀頼自身が出陣し、総力戦で徳川家康を討ちに行くこと。しかし、淀殿の反対により秀頼は出陣しませんでした。また、当初は茶臼山に徳川軍を引き寄せ、別動隊の明石全登を迂回させて家康のいる本陣に突入させて家康を討ち取る作戦でしたが、毛利勝永隊が先走って天王寺口の本田忠朝隊に銃撃をあびせてしまい、なし崩しに戦がスタート。作戦を行うことができなくなってしまいます。
とはいえ、毛利隊の活躍により徳川軍は大混乱に陥り、天王寺口の後方にいた家康の本陣が無防備になります。すかさず真田幸村は「味方が豊臣軍に寝返った」という嘘を徳川軍に伝えてさらに混乱させながら家康本陣に突撃。3回にわたり攻めました。家康の本陣は大坂冬の陣で苦しめられた幸村の突撃にパニックです。家康の馬印が倒れるほどの勢いで、家康自身も必死で逃げるとともに切腹を覚悟し家臣に諫められ、何とか脱出したとの話も残っています。
ちなみに、家康は脱出に失敗して死んでいた、という伝説もあります。こちらは大坂府堺市の南宗寺に家康の墓があることに基づいたもの。後藤又兵衛の槍に倒れたと伝わっており、歴史のロマンを感じさせるお話です。
このまま豊臣軍優勢のまま進むかと思いきや、幸村が大野治長と相談し、治長が大坂城に戻って豊臣秀頼の出馬を促そうとしたことで風向きが変わります。治長が秀頼の馬標を掲げたまま帰ろうとしたため、周囲の兵士が「治長は敗北により撤退したのか!」と勘違いし、戦意を消失。徳川軍に寝返ろうとするものまで現れ、軍が崩れてしまったのです。このタイミングで秀頼が出陣すれば誤解が解けたかもしれませんが、結局出陣することはありませんでした。
このすきを逃さず徳川軍は反撃に出ます。結局数的に優位な徳川軍に豊臣軍は徐々に追い詰められることに。主だった武将が次々と討ち取られ、ほぼ壊滅状態に陥りました。戦が始まってから約3時間のことでした。大活躍した真田隊も死傷者が増えたことで軍が崩れ撤退。幸村は安居天神の近くで休息中に徳川軍に討ち取られてしまいます。
一方の岡崎口では、徳川秀忠が豊臣軍を倒そうと進撃。後見についていた立花宗茂に突出は危険と言われつつも突っ走ります。背景には大坂冬の陣への遅参を家康に怒られたことがあったのでしょうか。その結果、対峙する豊臣軍・大野治戻隊によって先陣が崩れ、治戻隊が秀忠のいる本陣に殺到したため現場は大混乱に陥ります。秀忠自身が戦おうとするも部下に諫められる場面もあったようで、手柄を立てて名誉挽回をはかろうとする姿が見えますね。結局徳川軍は兵力差で豊臣軍を押し返すことに成功し、大野治戻は大坂城内に撤退しました。
燃え盛る大坂城、豊臣家滅亡
天王寺・岡山の戦いで敗れた豊臣軍の残軍は大坂城本丸に退却しましたが、大坂冬の陣の際に堀を埋められたことで丸裸になってしまった大坂城にはまともな防衛力などありません。あっという間に徳川軍がなだれ込みます。そんななか、台所頭にいた大角与左衛門が徳川軍に寝返り、部下に命じて台所に火を放ちます。これにより大坂城は炎上します。その炎は京都からも見ることができたそうです。
こうした状況下で、大野治長は最後の交渉をします。家臣を使者として使わし、徳川家康の孫で豊臣秀頼の妻・千姫の脱出と、自分を含む豊臣家家臣の切腹を引き換えに淀殿を助命するよう願ったのです。これにより、千姫は大坂城から脱出することができました。しかし淀殿の助命は受け入れられず、翌日の5月8日には秀頼らが立てこもる焼け残りの蔵を徳川軍が包囲。秀頼と淀殿は自害しました。
こうして豊臣宗家は滅亡しました。ただし、秀頼が側室との間に残した娘の奈阿姫(なあひめ)は千姫の助命嘆願の末に生き残り、縁切寺として有名な鎌倉の東慶寺で出家したのち、第20代の住職に就任しています。また、息子の国松については大坂城を脱出しましたが、後に徳川軍に捕らえられ六条河原で斬首されました。
その後家康は大坂城の残党狩りと、豊臣家に内通していた疑いのある大名の改易などを実施。大坂城は埋め立てられた後、幕府により新しい大坂城が建てられました。そして家康は大坂夏の陣からおよそ1年後の元和2年(1616年)4月17日に死亡。享年75歳(数え年)でした。
こうして江戸時代における合戦は終了しました。1637年(寛永14年)に島原の乱が起こっていますが、武将たち同士の戦いはこれで終わりを迎えたのでした。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。