奥州仕置豊臣秀吉が東北平定、波紋を呼んだ

奥州仕置

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
奥州仕置(1590年)
場所
宮城県・福島県・岩手県・青森県・山形県・秋田県
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天正18年(1590年)7月から8月にかけて、豊臣秀吉が天下統一の最終段階として実施した東北地方の領土処置が「奥州仕置」です。当時の東北地方は陸奥国(現在の福島・宮城・岩手・青森県)と出羽国(山形・秋田県)から構成されていたことから「奥羽」と呼ばれており、このため別名「奥羽仕置」とも言われます。秀吉の独断で領土配分を実施したことで、後に数々の一揆や乱を生むこととなった奥州仕置について、今回は解説していきます。

奥州仕置の背景、「小田原征伐」

奥州仕置の背景となった戦いが、天正18年(1590年)初めから7月までにかけて、豊臣秀吉が北条一族と戦った「小田原征伐」です。秀吉は天正13年(1585年)に四国を、天正15年(1587年)に九州を平定しており、天下統一まで残すは関東と東北という状態でした。関東を治める一大勢力だった北条氏は秀吉にとって邪魔な存在。何とか排除、または部下に取り込んで天下統一を果たそうと秀吉は考えます。

秀吉はまず、北条氏政や氏直に上洛し臣従するよう呼びかけますが、北条氏は上洛を拒否し続けます。そして天正17年(1589年)、北条氏が真田氏と争っていた上野国・沼田領(群馬県沼田市)の領有問題について、秀吉が北条氏の要請を受けて北条氏に有利な形で強制的に解決させます。「沼田裁定」と呼ばれる秀吉の決定により、沼田領は3万石のうち2万石を北条氏に、1万石を真田氏に与えられることになりました。沼田領は交通の要衝で北関東における重要な戦略拠点。北条氏が欲しがったのも無理はありません。

秀吉は「北条氏には恩を売れた!」と思ったことでしょう、再度度上洛を促しました。ところが北条氏は上洛時期をグダグダと先延ばしにします。この対応を見て、秀吉は徐々に北条氏を討伐しようと動き出します。

そして同年10月、北条方の猪俣邦憲が沼田にある真田領内の名胡桃城を奪取。沼田裁定での決定を反故にする行動に秀吉は激怒します。さらに北条氏邦が下野国(栃木県)の宇都宮国綱を勝手に攻める事件も発生。これは秀吉が天正13年(1585年)に発出した「惣無事令(大名同士の勝手な争いを禁じる)」に違反する行動でした。

こうした事件が積み重なった結果、秀吉は小田原征伐を決意し、11月頃から諸将に来春北条氏討伐に向けて出陣することを通知します。そして翌天正18年(1590年)2月から21万の大軍を率いて小田原征伐を開始したのです。

小田原征伐は単に豊臣秀吉と北条一族の戦いではありません。豊臣秀吉は小田原征伐に際し、自らの部下に加えて各地の武将に戦に参加するよう命令を発しており、秀吉の徳川秀吉や前田利家、上杉景勝などさまざまな武将が集いました。東北地方からも陸奥国(青森県)の南部信直などが参加しています。小田原征伐は北条氏を倒すための戦いであると同時に「秀吉に従うか否か」を確認する戦でもあったのです。

秀吉は約10万の大軍を率い、北条一族がこもる小田原城を包囲します。北条一族は小田原城に約100日籠城しましたが、7月5日に北条氏直が降伏を勧告。7月11日に小田原城は開城し、小田原征伐は終了しました。

宇都宮と会津で「仕置」発表

小田原征伐を終えた豊臣秀吉。天下統一のため、残された東北地方への対応をすぐ開始します。7月17日に鎌倉から下野国に向かい、26日に宇都宮城に入城。ここで関東、奥羽の大名たちを集め、小田原征伐後の北条家の領地や北関東、東北の一部について領土配分を行いました。ここでの決定は「宇都宮仕置」と呼ばれています。秀吉が宇都宮で領土の配分を実施したのは、源頼朝が文治5年(1189年)の奥州合戦(奥州藤原氏・源義経との戦い)の際、宇都宮大明神に参拝して奥州を平定したことにならったものとされています。

宇都宮には7月28日、伊達政宗も駆けつけています。政宗は仕置の内容について秀吉から意見聴取を求められていたようですが、結局2日遅刻してしまいました。なお、政宗は小田原征伐の際も、秀吉につくか迷ったあげく6月に遅れて参戦。この際は白装束で秀吉と対面しています。

その後、秀吉は政宗の案内のもと、蒲生氏郷や浅野長政などからなる「奥州仕置軍」とともに奥州を巡察します。奥州仕置軍はそのまま北上して8月6日には白川(福島県白河市)に到着。途中で陸奥国の葛西氏が襲いかかりますがこれを撃退し、9日には会津黒川城(現会津若松城)に入城します。そこで秀吉は残りの仕置を実施。葛西氏をはじめとした小田原征伐に参戦しなかった国人領主たちなどの処遇を決めました。この際、蒲生氏郷が新たに会津の領主になることが決定しています。

秀吉は8月15日前後に会津を出立し、9月には京都に戻りますが、奥州仕置軍はそのまま北進しました。そして、小田原征伐に参加しなかったことで改易された、稗貫氏の城だった鳥谷ヶ崎城(岩手県花巻市)に浅野長政が入城。現在は「花巻城」と呼ばれている鳥谷ヶ崎城を拠点化しました。結局奥州仕置軍は岩手県平泉周辺まで進み、和賀氏をはじめとした地元の領主たちを制圧。その後は長政の家臣が代官として各地にとどまり、秀吉の命で検地などを実施するとともに新体制への移行を促します。9月には代官たちを残して奥州仕置軍は撤収しました。

奥州仕置の具体的な内容は?

奥州仕置による領土措置は、小田原征伐に参加した武将に有利な結果となりました。詳細は後程述べますが、例えば南部信直には南部所領の内7ヶ郡を安堵するとともに、信直を南部氏の宗家として認めています。一方、伊達政宗は小田原征伐の遅参に加え、天正17年(1589年)の「摺上原の戦い」で、惣無事令を無視して会津の蘆名義広を攻めたことなどをとがめられ、奥羽約114万石から会津4郡などを没収されて72万国に減封されました。

また、徳川家康は北条氏が治めていた関東へ転封。それまでは三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の5ヶ国132万石を治めていましたが、武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総・下野・日立の関東8ヶ国250万石を与えられました。一気に石高が増えて200万石クラスになったため栄転したかのように思えますが、本拠地の三河を失うとともに、京都や大阪からは離れた関東に引っ越しするわけです。家康の勢力を警戒した秀吉の策略だったと言われており、家康の与力大名である諏訪頼忠や木曾義昌なども同時に転封しました。

なお、北条氏と沼田領でもめていた真田氏については、宇都宮仕置の際に無事に沼田領を奪還。真田昌幸は信濃国上田で3万8000石、沼田城が与えられた嫡男の真田信之は上野国沼田で2万7000石の大名になるとともに、徳川家康の与力大名から秀吉直属の大名に出世しています。

奥州仕置の所領安堵・減封・改易・新封について

それでは、奥州仕置の結果、各武将たちがどうなったかを見ていきましょう。

所領安堵
南部信直:陸奥国糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、岩手郡、常陸国久慈郡など7郡を安堵
佐竹義宣:常陸国など54万石を安堵
最上義光:出羽国山形の24万石を安堵
このほか、岩城貞隆(常隆)や宇都宮国綱、相馬義胤、津軽為信、戸沢光盛などが所領安堵となっています。
減封
伊達政宗:奥羽国114万石から会津4郡、岩瀬郡、安積郡を没収され、陸奥国出羽のうち13郡・72万石に減封
このほか、小田原征伐には参加したものの、それ以前の戦について「惣無事令違反」ではないかと疑われた秋田実季などが減封されています。
改易
葛西晴信:葛西7郡(牡鹿・登米・本吉・磐井・胆沢・江刺・気仙。現在の宮城県北部~岩手県南部)約30万石を治めていた。小田原征伐に参加したかったが、数年続く家臣たちの反乱が懸念されたことで結局参加できず、減封されたのちに改易
大崎義隆:大崎5郡(栗原・遠田・志田・玉造・加美。現在の宮城県)を治めていたが、小田原征伐に参加しなかったことで改易。石田三成を介して所領の回復を求めたが、結局叶わなかった
和賀忠親:和賀郡(岩手県)を治めていた。小田原征伐は名代のみを派遣。秀吉の怒りを買い改易された
稗貫広忠:稗貫郡(岩手県)を治めていた。秀吉には使者を派遣したものの、結局小田原征伐に参加しなかったことで改易に
このほか黒川晴氏、田村宗顕、石川昭光、白河(結城)義親、江刺重恒が小田原征伐に参加できなかったことを理由に改易されました。
転封
徳川家康:三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の5ヶ国132万石から、武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総。下野・日立の関東8ヶ国250万石に転封
蒲生氏郷:南伊勢12万3千石から転封し、蘆名氏の旧領・陸奥国会津黒川42万石を与えられる
木村吉清:知行5千石から葛西氏・大崎氏の旧領13郡・30万石を与えられる
転封の場合は加増されています。

奥州仕置により、各地で一揆や乱が発生

奥州仕置で東北地方の領地の分配は一通り終了し、ようやく天下統一を果たした豊臣秀吉。と思いきや、秀吉の一方的な仕置に対して反感を抱いた領主たちや、太閤検地やその後の厳しい徴税に苦しんだ領民たちなどにより、奥州各地で一揆や乱が起こります。

仕置軍が東北地方から引きあげた約1ヶ月後の10月には、葛西氏・大崎氏の旧臣たちが旧領、つまり木村吉清の治める陸奥国中部(宮城県北部~岩手県南部)で「葛西大崎一揆」を起こしました。さらに、それに呼応する形で、和賀義忠、稗貫広忠らが旧領地で蜂起する「和賀・稗貫一揆」が発生。南部氏の下では天正19年3月、南部信直率いる三戸南部氏と覇権を争っていた九戸氏による「九戸政実の乱」が起こります。このほか、太閤検地の不満から出羽国北部(秋田県)で仙北一揆なども起こり、奥州は大混乱に陥りました。

一揆のうち最も規模が大きかったのは葛西大崎一揆。木村吉清による厳しい年貢の取り立てや葛西・大崎氏旧臣への冷遇、家臣による領民への乱暴狼藉などが原因で一揆が発生します。天正18年10月には旧大崎領の岩手沢城を大崎氏の旧臣たちや領民が占拠。その後一揆は拡大しています。結局一揆が収まったのは1591年(天正19年)の7月、伊達政宗の手によってでした。

一揆については政宗が扇動していたとの疑惑があり、それを払しょくするために政宗は秀吉に申し開きをします。その際の姿はやはり死に装束。今回は金箔が塗られた十字架もオプションにつきました(というエピソードが残っています)。結局政宗の首は繋がり、再度一揆を収めるよう命じられます。奮闘した政宗は無事に一揆を鎮圧し、その褒賞として葛西・大崎13郡を得ています。

ただし、政宗はその代わりにもともと持っていた領地のうち、出羽国(山形県)の長井、陸奥国の信夫・伊達・安達・田村(ともに福島県内)・刈田(宮城県内)の6郡44万石を没収されてしまい、結局19郡余り48万石と減封されてしまいました。秀吉がいかに政宗を警戒していたかがわかりますね。

ちなみに政宗が没収された6郡は蒲生氏郷に与えられています。そして一揆があった地域を治めていた木村吉清は責任を問われて改易に。氏郷のもとに身を寄せた後、氏郷から信夫郡5万石を与えられました。そして信夫郡の杉目城(または杉妻城)に居城を映し、城の名前を「福島城」に改称します。これが現在の福島県に続いているわけです。

このほか、仙北一揆は出羽国の検地を担当していた上杉景勝と大谷吉継が鎮圧しました。仙北三郡南部(上浦郡)の領主だった小野寺氏は、本来であれば旧領安堵のはずが一揆の責任を取る形で領地の3分の1を召し上げられてしまいました。

「奥州再仕置」に向けて軍が出陣

奥州で発生した一揆や乱の中で最も影響力が大きかったのが「九戸政実の乱」です。南部信直に対し、もともと後継者争いで敵対していた南部氏の九戸政実(くのへまさざね)が起こした乱ですが、その勢いの強さから信直は自力での鎮圧は難しいと判断し、豊臣秀吉に助けを求めました。

これを受けた秀吉は奥州平定のため、「奥州再仕置軍」を編制して仕置のやり直しを決定。6万5000の兵を率い、九戸政実の乱を鎮圧するとともに他の一揆も抑えようと奥州に向かいました。政実のいる九戸城をはじめ、各地で激戦が繰り広げられましたが、最終的には籠城戦に敗れた政実が奥州再仕置軍に降伏し、乱は鎮圧されました。また、このとき「和賀・稗貫一揆」も奥州再仕置軍によって鎮圧されています。その後、和賀・稗貫の旧領は南部信直に加封され、これにより信直は10万石の大名にのし上がりました。

こうして奥州再仕置軍の働きにより、東北地方の仕置は終了。晴れて豊臣秀吉の天下が訪れたことになりました。奥州再仕置以降、秀吉の時代には国内では大きな戦はなく、次の戦は2度にわたる朝鮮出兵、つまり海外に舞台を移すことになります。

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栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。