山形城山形県山形市

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夏の山形城1 夏の山形城2 夏の山形城3 夏の山形城4 夏の山形城5 夏の山形城6 夏の山形城7 夏の山形城8
  • 最上義光が拡張した東北有数の巨大城郭
  • 本丸・二ノ丸・三ノ丸を備えた輪郭式平城
  • 復原された二ノ丸東大手門と石垣・堀が残る

山形城とは、山形県山形市にある中世から近世にかけての城跡である。南北朝時代に斯波兼頼が築いたと伝わり、戦国時代から江戸時代初期にかけて最上義光によって大きく拡張された。現在は霞城公園として整備され、復原された二ノ丸東大手門や本丸一文字門、石垣、堀などが、東北有数の規模を誇った山形城の姿を伝えている。

山形城の特長
目的 最上氏の居城、山形藩の政庁、領国支配の拠点
特長 輪郭式平城、二ノ丸東大手門、本丸一文字門、石垣と堀が残る城跡
他の城との違い ・三ノ丸まで含めると全国有数の規模を持つ城である
・山形市街地の中心部に広大な城跡が残る
・二ノ丸東大手門は江戸時代中期の姿をもとに復原されている
山形城の石垣・土塁
石垣 現存・復原
土塁 一部現存・復原
種類 野面積、打込接、土塁、堀、枡形
石材 不明
特長 山形城は石垣と堀を備えた大規模な平城である。本丸・二ノ丸を中心に石垣や土塁、堀が残り、二ノ丸東大手門や本丸一文字門周辺では復原整備も進められている。二ノ丸東大手門は、枡形を中心に櫓門、続櫓、高麗門、土塀で構成された枡形門で、藩主の威厳を示す役割も担っていた。
山形城DATA
別称 霞城、霞ヶ城、吉字城
所在地 山形県山形市
築城 1357年頃
築城者 斯波兼頼
住所 山形県山形市霞城町1番7号
電話番号 023-641-1212
開園時間 霞城公園は4月1日~10月31日が5時~22時、11月1日~3月31日が5時30分~22時
休園日 年中無休
入園料 無料
備考 現在は国指定史跡山形城跡「霞城公園」として整備されている。二ノ丸東大手門櫓は公開期間のみ見学可能で、山形城の古地図、発掘調査で出土した瓦、復原工事資料、山形城復原模型などを展示している。最上義光歴史館も隣接し、入館無料で見学できる。
山形城への交通アクセス
JR奥羽本線(山形線)・山形新幹線「山形」駅西口から南門まで徒歩約8分。

HISTORY 奥羽を代表する城の一つ山形城

山形城は、山形県山形市霞城町にあった平城です。別名を霞城ともいい、最上義光の居城としても有名です。現在は、国史に指定されており桜の名所としても知られています。そんな山形城の歴史を紐解いていきましょう。

山形城の歴史
1357年頃 斯波兼頼が山形城を築いたと伝わる
戦国時代 最上氏の本拠として整備される
1592年頃 最上義光により山形城が大きく拡張される
1600年 慶長出羽合戦で、山形城が最上氏の防衛拠点となる
1622年 最上氏が改易され、以後は鳥居氏・保科氏・堀田氏などが城主となる
1871年 廃藩置県により山形藩が廃止される
1873年 廃城令により山形城が廃城となる
1986年 山形城跡が国の史跡に指定される
1991年 二ノ丸東大手門が復原される
2006年 日本100名城に選定される
最上氏によって築城される
山形城は、山形盆地南側に築城されていました。ここは、羽州街道と笹谷峠の合流点で、鎌倉時代までは最上郡の中心でした。 延文元年(1356年)斯波兼頼という武将が羽州探題として山形に入部します。この斯波兼頼は最上氏の祖と言われており、彼が山形城の基礎を築城しました。 時代は下って慶長年間になると、最上家11代目当主の最上義光が城郭を拡大し、三之丸を新たに築きます。最上義光は、奥州の覇者と呼ばれた伊達政宗の叔父にあたる人物で、天正14年(1586)の大崎合戦など伊達政宗と何度もぶつかり合ったことで有名です。
また、最上義光は徳川家康と親交が深く、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では東軍につきました。そして、北の関ヶ原と言われた慶長出羽合戦で勝利し、その褒賞として出羽57万石を拝領します。最上氏は山形城を拡大すると同時に城下町を整備し、山形藩の基礎を固めます。
最上氏改易後の山形城
最上義光の死後、最上家では後継者争いがおこって長男の義康の暗殺事件が起こります。その後も騒動は収まらず、ついに最上氏は改易されて出羽国は鳥居氏に任されました。その初代、鳥居忠政により多少の改修が行われたという記録が残っています。 なお、鳥居氏以降山形藩は複数の大名家によって治められますが、そのたびに石高や格式が下がり、ついに幕末には本丸は更地となり、御殿は二の丸に置かれ、三の丸の半分は更地になってしまいました。
このような状態になる城は珍しいのですが、もともと山形城は東北最大の規模を誇る城郭でした。現在の単位に換算すると本丸(2.83ha)・二の丸(27.99ha)・三の丸(234.86ha)です。外郭である三ノ丸は、現存する最大の城郭姫路城の外郭より広いです。しかも、城郭は三重の堀と土塁で囲まれていました。時代が下るにつれて石高が減っていき、ついには57万石から5万石になった山形藩にとって広大な城郭な維持は大変だったことでしょう。
明治以降の山形城
維持するだけで手いっぱいだった山形城は、明治時代になると山形市によって購入されます。そしちて、市の誘致によって陸軍歩兵三十二連隊の兵営敷地となります。城内の櫓や御殿は破却され、本丸は埋め立てられました。三の丸の堀も埋め立てられ耕作地として利要されます。 そして後年、日露戦争凱旋を記念して歩兵三十二連隊の帰還将兵が、明治39年(1906年)にソメイヨシノを山形城跡に植林し、以後桜の名所となりました。
戦後、二の丸の内側は霞城公園になります。二の丸の外側は市街地化が進んで、三の丸の堀などもすべて埋め立てられました。 昭和61年(1983年)に山形城跡が国の史跡に指定されたことを受け、2013年(平成25年)にかけて門や櫓などが順次復元されます。 現在の山形城跡は霞城公園として庶民の憩いの場であり、観光スポットとなっています。
まとめ
山形城は奥州きっての巨大城郭でしたが、時代が下るにつれて石高が減少し、57万石から5万石までになってしまった藩の居城でした。この石高で巨大な城郭を維持するのは大変だったことでしょう。しかし、現在は門や櫓が復興され、これから土塁の復興も予定されています。また、桜の名所としても知られているので、桜の季節に訪れればとても美しい風景が見られるでしょう。

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山形藩DATA
藩庁 山形城
旧地域 出羽国村山郡山形
石高 4万石
譜代・外様 譜代
主な藩主 最上氏、鳥居氏、堀田氏、秋元氏
推定人口 7万人(明治元年)

最上家がお家騒動で転封した後、鳥居家・保科家・松平家・堀田家・秋元家・水野家などが入封。

山形城「霞城」として知られる最上氏の本拠地

山形県山形市の「山形城」は、最上義光を代表する最上氏の居城です。日本100名城にも認定された城の別名は「霞城」。現在は「霞城公園」として整備され、二の丸東大手門等が復元されています。

山形城
山形城の歴史
山形城は本丸、二の丸、三の丸を3重の堀と土塁で囲んだ輪郭式の平城でした。最盛期には本丸が2.83ヘクタール、二の丸が27.99ヘクタール、三ノ丸が234.86ヘクタールを誇る大きさで、平面規模としては全国第5位の広さを誇る東北最大級のお城です。天守はなく、本丸に御殿があったほか、江戸時代前期までは二の丸に建てられた三階櫓が天守のような役目を果たしていました。
城の起源は南北朝時代までさかのぼります。北朝方の武将・斯波兼頼(最上兼頼)は東北地方を統括する羽州探題として延文元年(1356年)に山形に入りました。そして翌延文2年(1357年)に山形城の築城。のちに兼頼は「最上」を名乗るようになり、以後山形城は最上氏の本拠地となったのです。
11代目の最上義光の時代、「北の関ヶ原」と言われる「慶長出羽合戦」が起こります。義光は東軍の武将として上杉景勝ら西軍と戦い見事勝利をおさめました。ちなみにこの慶長出羽合戦のなかの長谷堂城をめぐる戦いの際、山形城に霞がかかり、城郭が見えなくなってしまったことから「霞城(かじょう)」という別称がついています。
慶長出羽合戦の功績が認められ、義光は出羽山形藩57万石の初代藩主になりました。その後、義光は山形城を整備・拡張します。
元和8年(1622年)、義光の跡継ぎ争いから端を発したお家騒動により最上氏は改易となり、代わって陸奥国磐城平藩(現福島県浜通り南部)から鳥居忠政が入り、その次は徳川家康の孫にあたる保科正之が入城します。この2名の時代に二の丸の堀や土塁、石垣などが改修され、現在の山形城の原型になったとされています。
その後は松平氏、堀田氏、秋元氏、水野氏などが藩主を歴任します。藩主がたびたび変わる中で徐々に藩の格式が低く、規模が小さくなり、広大な山形城の城は維持するのが難しくなってきました。幕末時点では5万石の小大名になっており、二の丸に御殿はあったものの本丸は更地となり、周りには田畑が広がっていたようです。
明治維新後は山形城は破却され、跡地は陸軍の駐屯地となりました。第二次世界大戦後は二の丸の内側が「霞城公園」として整備され、平成3年(1991年)には二ノ丸東大手門が復元。平成18年(2006年)に本丸一文字門大手橋、平成25年(2013年)に本丸大手門枡形内の高麗門と土塀が復元されており、令和7年(2025年)現在も本丸の復元作業が続けられています。
山形城の見どころ①復元された二の丸東櫓門と本丸一文字門
山形城ではさまざまな門や櫓が復元されています。正面玄関ともいえる二ノ丸東大手門は江戸時代中期の資料を基に復元されました。最上氏時代は堀に張り出した外枡形でしたが、江戸時代の改修により内枡形に変更されています。
東大手門は櫓門に続櫓、高麗門と土塀で構成されており、当時の絵図などをもとに忠実に再現されています。櫓門の内部には当時の城の模型や史料などが展示されており、見学可能です。
本丸の正門にあたる本丸一文字門は一文字櫓に櫓門、高麗門、枡形土塀と石垣からなる枡形門です。門に続く大手橋も復元されているので、当時に思いをはせながら橋を進んで門をくぐってみましょう。枡形門は敵の進路を曲げさせ、侵入を食い止める役目があったとされています。
山形城の見どころ1 山形城の見どころ2 山形城の見どころ3
山形城の見どころ②城門の石垣
山形城には城門部分のみ石垣があります。門の防御力を高めるためで、山形城ならではの遺構です。石垣は鳥居氏や保科氏の時代に作られた野面積のもので、山形市内を流れる馬見ヶ崎川で採れた安山岩が利用されています。
山形城の見どころ4 山形城の見どころ5 山形城の見どころ6
山形城の見どころ③屏風折れ土塀
山形城の二の丸の北側の土塁は「屏風折れ土塁」だったようで、発掘調査により礎石が確認されています。屏風折れ土塁は文字通り屏風のように折れ曲がる部分が設置されたもので、正面だけでなく左右の敵も攻撃できます。礎石が発見されたのは山形城が全国で初めてです。
山形城の見どころ④最上義光歴史館
霞城公園内やその付近にはさまざまな文化施設があります。そのひとつが最上義光をテーマにした「最上義光歴史館」です。義光の使った甲冑や兜など、義光関係の資料に加え、山形城や最上氏についても学べるスポットです。
山形城の撮影スポット
山形城の広い全景を撮影するのであれば、JR山形駅に隣接する「霞城セントラル」の展望ロビー24階へ。城や市内が一望できます。また、春にはお堀や石垣と桜のコラボレーションが楽しめます。公園内にある最上義光像は馬にまたがって長谷堂の戦いで陣頭指揮をとる躍動感たっぷりの姿。歴人マガジンの「カッコよすぎ!ご当地武将銅像ランキング」で堂々の1位を獲得しました。
山形城の見どころ7 山形城の見どころ8 山形城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。