HISTORY
奥羽を代表する城の一つ山形城
山形城は、山形県山形市霞城町にあった平城です。別名を霞城ともいい、最上義光の居城としても有名です。現在は、国史に指定されており桜の名所としても知られています。そんな山形城の歴史を紐解いていきましょう。
- 最上氏によって築城される
- 山形城は、山形盆地南側に築城されていました。ここは、羽州街道と笹谷峠の合流点で、鎌倉時代までは最上郡の中心でした。
延文元年(1356年)斯波兼頼という武将が羽州探題として山形に入部します。この斯波兼頼は最上氏の祖と言われており、彼が山形城の基礎を築城しました。
時代は下って慶長年間になると、最上家11代目当主の最上義光が城郭を拡大し、三之丸を新たに築きます。最上義光は、奥州の覇者と呼ばれた伊達政宗の叔父にあたる人物で、天正14年(1586)の大崎合戦など伊達政宗と何度もぶつかり合ったことで有名です。
また、最上義光は徳川家康と親交が深く、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では東軍につきました。そして、北の関ヶ原と言われた慶長出羽合戦で勝利し、その褒賞として出羽57万石を拝領します。最上氏は山形城を拡大すると同時に城下町を整備し、山形藩の基礎を固めます。
- 最上氏改易後の山形城
- 最上義光の死後、最上家では後継者争いがおこって長男の義康の暗殺事件が起こります。その後も騒動は収まらず、ついに最上氏は改易されて出羽国は鳥居氏に任されました。その初代、鳥居忠政により多少の改修が行われたという記録が残っています。
なお、鳥居氏以降山形藩は複数の大名家によって治められますが、そのたびに石高や格式が下がり、ついに幕末には本丸は更地となり、御殿は二の丸に置かれ、三の丸の半分は更地になってしまいました。
このような状態になる城は珍しいのですが、もともと山形城は東北最大の規模を誇る城郭でした。現在の単位に換算すると本丸(2.83ha)・二の丸(27.99ha)・三の丸(234.86ha)です。外郭である三ノ丸は、現存する最大の城郭姫路城の外郭より広いです。しかも、城郭は三重の堀と土塁で囲まれていました。時代が下るにつれて石高が減っていき、ついには57万石から5万石になった山形藩にとって広大な城郭な維持は大変だったことでしょう。
- 明治以降の山形城
- 維持するだけで手いっぱいだった山形城は、明治時代になると山形市によって購入されます。そしちて、市の誘致によって陸軍歩兵三十二連隊の兵営敷地となります。城内の櫓や御殿は破却され、本丸は埋め立てられました。三の丸の堀も埋め立てられ耕作地として利要されます。
そして後年、日露戦争凱旋を記念して歩兵三十二連隊の帰還将兵が、明治39年(1906年)にソメイヨシノを山形城跡に植林し、以後桜の名所となりました。
戦後、二の丸の内側は霞城公園になります。二の丸の外側は市街地化が進んで、三の丸の堀などもすべて埋め立てられました。
昭和61年(1983年)に山形城跡が国の史跡に指定されたことを受け、2013年(平成25年)にかけて門や櫓などが順次復元されます。
現在の山形城跡は霞城公園として庶民の憩いの場であり、観光スポットとなっています。
- まとめ
- 山形城は奥州きっての巨大城郭でしたが、時代が下るにつれて石高が減少し、57万石から5万石までになってしまった藩の居城でした。この石高で巨大な城郭を維持するのは大変だったことでしょう。しかし、現在は門や櫓が復興され、これから土塁の復興も予定されています。また、桜の名所としても知られているので、桜の季節に訪れればとても美しい風景が見られるでしょう。
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