小田原征伐(2/2)秀吉が天下統一!北条家を下した最後の大戦

小田原征伐

小田原征伐

記事カテゴリ
事件簿
事件名
小田原征伐(1590年)
場所
神奈川県
関連する城
小田原城

小田原城

忍城

忍城

世田谷城

世田谷城

八王子城

八王子城

滝山城

滝山城

関係する人物

また、豊臣秀吉は小田原城の包囲に加え、韮山城などのほかの城を各将に攻めさせ、小田原城の孤立化を狙いました。例えば北条氏親が籠城する韮山城は、4万人の豊臣軍に対し4000弱の兵で4ヶ月以上耐えきりましたが、家康の説得により開城。下田城は水軍舞台の活躍で落城しました。北方隊は松井田城をはじめとした各城を落としました。

実は一夜城じゃない「石垣山一夜城」

豊臣秀吉の本陣である石垣山城は、小田原城攻めの時に4万人が約80日を費やして建てた城ですが、北条方に見えないよう林の中にこっそり築城していたそうです。一夜城の通称は、築城に際し、林の中に堀や櫓の枠組みを作ってから、壁に白い紙を貼り付けて壁のように見せかけ、一晩のうちに周囲の樹木を伐採してお披露目したことから。北条方の士気を下げるための作戦だったそうで、こういうところに秀吉のアイデアマンとしての気質が見て取れる気がしますね。

なお、秀吉は戦の最中、千利休を招いて茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしています。長期間城を包囲し続けていることに対する士気の低下を防ぐとともに、小田原城の北条家に余裕を見せつけるためのイベントだったようです。

伊達政宗も秀吉に臣従

小田原城を包囲して2ヶ月が経った頃、伊達政宗が動きます。同盟関係にあるのは北条家ですが、豊臣秀吉からは小田原征伐に参戦するよう要請されており、北条家と豊臣家、どちらにつくのか迷ったに違いありません。豊臣方の浅野長政が長らく説得を続けたことで、豊臣家に傾いた政宗は4月に会津の黒川城を出発して6月上旬に小田原に到着。白装束で秀吉と謁見して遅参を詫びました。

これに対し、秀吉は政宗の遅参を許しますが、合戦後の戦後処理では遅参などを理由に領地を減らされています。

籠城か降伏か?二転三転する「小田原評定」

6月には忍城以外の城は落ち、最後の頼みの綱だった同盟相手の伊達政宗までも豊臣秀吉側についたことで、北条家の敗北は決まりました。6月24日、秀吉は黒田官兵衛と滝川雄利を使者に降伏を勧告。こうした動きに対し、軍議は紛糾して二転三転しました。こうしてなかなか結論が出ない会議を意味する「小田原評定」という故事成語が生まれました。

そしてついに7月5日、北条氏直が降伏を勧告し、自身の切腹と引き換えに場内の兵士たちを助けるよう訴えました。こうして小田原征伐は終了し、秀吉は天下統一を果たしたのです。

唯一落とせなかった「忍城」の戦い

豊臣軍の猛攻により、北条家の城は次々と落城していきましたが、最後まで唯一残った城があります。それが武蔵国(埼玉県)の忍城です。忍城は石田三成が攻めましたが、小田原城が落城するまで、忍城を攻め落とすことはかないませんでした。

忍城の城主は成田氏長ですが、当時は小田原へ援軍に行っており、残されたのは城代の成田泰季と息子の長親ほか3500人。このうち兵士は500人ほどでした。これに対し、石田三成は2万3000の軍で城攻めを開始します。

忍城は利根川と荒川に挟まれた湿地地帯にある城で、川を利用した水堀や土塁、沼で囲まれており攻めにくいことで有名でした。そこで三成たち豊臣軍が考えたのは水攻め作戦。城の周りに約28kmにも及ぶ堤防を5日間かけて作り、川の水を引き込んで城を水没させようという作戦でしたが、忍城が高台にあったことで本丸部分は水没せず残りました。さらに大雨で堤防が決壊したことで、豊臣軍にも被害が発生。結局攻めきれませんでしたが、小田原城の落城の後、忍城は開城しました。

忍城の戦いのとき、忍城の中には成田氏長の娘・甲斐姫がいたという伝説があります。美人で武芸の才能を持った女性として有名な甲斐姫ですが、忍城に立てこもり、豊臣軍と戦ったというのです。

水攻めが失敗したことで援軍と共に本丸に攻め込もうとした豊臣軍を、甲冑をまとって200人の兵を率いた甲斐姫が蹴散らして城を守り抜いたとのこと。甲斐姫は最終的には秀吉に武勇を認められ、側室になりました。ちなみに、この甲斐姫ですが、文献としては秀吉の側室だったということ以外は謎のまま。本当に忍城にいたのかははっきりわかっていません。

なお、忍城攻めのエピソードは和田竜の小説「のぼうの城」をもとに映画化されています。

北条氏滅亡、家康は関東を得る

降伏後、北条家はどうなったのでしょうか。北条氏政と氏照、重臣の松田憲秀と大道寺政繁は戦の責任を取って切腹。一方、切腹を訴えた北条氏直は督姫の婿だったこともあり、高野山への蟄居を命じられます。翌年8月には秀吉に許されて1万石の大名に。ところが疱瘡により体調を崩し、11月に30歳の若さで病死しました。北条氏規は同じく高野山に蟄居していましたが許され、河内国(大阪府)の河内郡や丹南郡合わせて9000石弱を得ました。息子の北条氏盛は氏直の遺留分を得て、江戸時代に初代狭山藩主に就任。その子孫は明治維新まで狭山藩主として名を残しました。

北条家が治めていた関東地方は国替えにより徳川家康が治めることになります。家康は8月1日に江戸城に入りました。こうして家康は江戸時代まで続く拠点を得たのです。

小田原征伐の記事を読みなおす

関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03