赤穂城兵庫県赤穂市

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赤穂城DATA
別称 加里屋城
築城 1648年
住所 兵庫県赤穂市上仮屋1424-1
赤穂城への交通アクセス
JR赤穂線「播州赤穂」駅、徒歩約20分。

HISTORY 現在はロケ地としても有名「赤穂城」

赤穂城は、兵庫県赤穂市にあった平城です。「忠臣蔵」で有名な赤穂藩の藩庁でもありました。明治時代に城郭の建物はほとんど取り壊されましたが、現在は三之丸大手門などが復元され、本丸庭園と二之丸庭園は名勝に指定されています。また、時代劇のロケ地としてもたびたび利用されています。そんな赤穂城の歴史を紐解いていきましょう。

掻上城の時代
赤穂城の前身は、慶長5年(1600年)に池田長政が築城した掻上城(かきあげじょう)と言われています。残された絵図や発掘調査によって存在が明らかになっていますが、時代的に簡素な城郭だったようです。正保2年(1645年)に赤穂藩藩主となった浅野長直が慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ願い出て、同年に築城に着手しました。この時代、すでに将軍は徳川家光であり、大阪の陣が終って33年が経過していました。赤穂城はそんな時期に築城が申し出られ、認められた珍しい例です。
赤穂城の築城から幕末まで
赤穂城は変形輪郭式です。本丸の周囲を二之丸が取り囲む「輪郭式」、北側の三之丸は二之丸北辺に取りつくような形の「梯郭式」という2つの形が組み合わさっています。これは、鉄砲戦を意識した造りで、十字砲火が可能な「横矢掛かり」や「横矢枡形」も数多く用いられています。赤穂城は、浅野家に仕えた甲州流兵学者の近藤正純が縄張りを考え、軍学者の山鹿素行がその仕事を助けました。実際、山鹿素行の助言で縄張りを変えという資料が残っており、発掘調査でその可能性がある遺構も発見されています。
現在の赤穂城は内陸に位置しているように見えますが、築城当時は海岸線がすぐ近くまで来ていたので、海を望む「海岸平城」でした。 赤穂城は、築城から13年後の寛文元年(1661年)に完成しました。天守台は設けられましたが、天守閣は作られていません。これは、実用性を優先したことや当時は天守台を持っているだけで十分家の格式を保てていたためと言われています。 以降、明治時代まで赤穂城は赤穂藩の藩庁として機能し続けました。
赤穂城がほこる施設に、上水道があります。 赤穂城は海岸に築城されたため、海抜が1mと低く堀や井戸の水は海水が混じり飲料には適していませんでした。そこで、はじめて赤穂の地を治めた池田家が熊見川(現・千種川)の上流に井関と水路を建設して上水道を敷設しましたのです。上水は、城内のみならず城下町の家にも給水できるしくみでした。 着工は慶長19年(1614年)完成まで2年の月日がかかったと伝えられています。 この上水道は日本三大上水道の一つともいわれ、その遺構は発掘調査の上整備保存されて観光スポットにもなっています。
明治以降の赤穂城
明治になると赤穂城は廃城となり、建物は一部の石垣や堀を除いて取り壊され、敷地は民間へと払い下げられました。本丸跡は小学校や旧制中学が建てられ、戦後は1981年まで兵庫県立赤穂高校が建っていました。
昭和30年(1955年)には、現存している写真をもとに大手隅櫓、大手門(高麗門)が復元されます。そして、昭和46年(1971年)に赤穂城跡が国史跡の指定を受けると、他の門や庭園の復元も進められていきます。平成7年(1995年)から始まった二の丸庭園の復元整備は、現在も段階的に進められています。同庭園は国の名勝にも指定され、赤穂を代表する観光名所です。
このほか、現在の赤穂城はドラマや映画のロケ地としても活用されています。 赤穂藩が有名な「忠臣蔵」の舞台となったので忠臣蔵関連のドラマが多いですが、近年は『超高速!参勤交代』(リターンズ含む)などの撮影も行なわれています。
まとめ
赤穂城の城郭は明治時代に一旦全て取り壊されましたが、現在は門や櫓、庭園などの復元が進んでいます。2006年より「光のライトアップ」として架空の天守閣をライトアップするイベントも実行中です。また、赤穂市内には忠臣蔵の中心人物であった大石良雄宅跡なども保管されており、赤穂城と共に観光名所になっています。

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赤穂城を藩庁とする、赤穂藩の歴史

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赤穂藩DATA
藩庁 赤穂城
旧地域 播磨国赤穂郡
石高 2万石
譜代・外様 外様
主な藩主 池田氏・浅野氏・永井氏・森氏

元姫路藩池田家の所領で小笠原忠真が10万石で立藩。譜代が続いた後、親藩の越前松平家が入封。

赤穂城、忠臣蔵で知られる赤穂浪士ゆかりの名城

兵庫県赤穂市にある赤穂城は、江戸時代には赤穂藩の藩庁として機能した平城です。特に元禄15年(1702年)の赤穂事件、いわゆる「忠臣蔵」ゆかりの城として広く知られており、三の丸には大石神社があります。日本百名城にも選ばれており、現在は赤穂城跡公園として整備されています。

赤穂城
赤穂城の歴史
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦い後、徳川家康の娘婿に当たる池田輝政が播磨国52万石を支配すると、赤穂には末弟の池田長政が配されました。長政は「掻上城」を築き、これが現在の赤穂城の前身となっています。
慶長8年(1603年)に池田輝政の次男・忠継が備前国28万石に入封すると、長政は備前国下津井に移り、赤穂には郡代として家臣が入ります。元和元年(1615年)、池田政綱が赤穂に3万5000石で入り、藩邸を整え、大書院などを築きました。
政綱には後継ぎがいなかったため、寛永8年(1631年)に弟の池田輝興が入り、この時曲輪や隅櫓などを築きました。しかし正保2年(1645年)3月、輝興は妻等を切り捨てて殺害したことで改易となります。代わって入ったのが常陸国笠間藩主の浅野長直です。
浅野長直は赤穂の発展を図るため、本格的な近世城郭として赤穂城の築城を計画します。慶安元年(1648年)の幕府の許可を得て翌年から造成工事が開始。寛文元(1661)年頃には城はほぼ完成したと言われています。
赤穂城は東は熊見川、南と西は瀬戸内海とその干潟に面しており、南には船が出入りできる舟入を設けた海城でもありました。
設計は軍学師範の近藤正純が手がけましたが、このうち二の丸門虎口については軍学者として知られる山鹿素行の手が加えられたと伝わっています。本丸・二の丸・三の丸を備え、10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2844mに及ぶ大規模な城郭でした。城は本丸を二の丸が取り囲み、さらに北側の防備を強化するため、北に三の丸が広がる「変形輪郭式」という珍しい構造となっています。
赤穂城が歴史上有名になるのは、長直の孫にあたる浅野長矩の時代です。長矩は元禄14年(1701年)3月、江戸城松の廊下で高家・吉良義央に斬りかかる傷害事件を起こし、即日切腹し、浅野家は改易されました。4月には赤穂藩領は幕府領となり、代官が治めることとなります。
主君を失った赤穂藩士たちは浪人となりますが、そのうち大石内蔵助を中心とする47名が元禄15年(1702年)に吉良邸へ討ち入り、主君の仇を討ちます。これが「元禄赤穂事件」であり、後に『忠臣蔵』として広く知られるようになりました。
浅野家改易後、赤穂藩は龍野藩の脇坂安照の預かりとなります。元禄15年(1702年)には下野国烏山から永井直敬が3万3000石で入封。宝永3年(1706年)には備中国西江原から森長直が2万石で入り、以後明治維新まで12代続きました。
その後、赤穂城は明治6年(1873年)の廃城令により、建物の多くが取り壊され、城跡の大部分は民間に払い下げられて民有地になりました。
昭和に入ると本丸跡の天守台の修復等が行われ、昭和10年(1935年)に大手門前の堀や太鼓橋を復元。昭和30年(1955年)には大手隅櫓や大手門が古写真をもとに再建築されます。昭和46年(1971年)には国史跡に指定され、その後門や堀、庭園などが再建されていきます。
本丸跡には昭和3年(1928年)に赤穂中学校(後の赤穂高等学校)が竣工しましたが、昭和56年(1981年)に移転。本丸の復元整備が進められ、平成2年(1990年)に完成しました。このほか、平成に入って本丸門と枡形、本丸厩口門等が復元され、平成14年(2002年)には旧赤穂城庭園(本丸庭園・二之丸庭園)が国の名勝に指定されました。
赤穂城の見どころ①赤穂事件ゆかりのスポット
赤穂城には赤穂事件ゆかりのスポットが点在しています。大正元年(1912年)に建立された赤穂大石神社は、三之丸の大石良雄宅跡にある赤穂浪士を祀る神社です。境内には大石内蔵助をはじめとする四十七士の像が並び、赤穂事件の歴史を伝えています。義士ゆかりの品々等も見学できますよ。
神社の近くに残る大石良雄宅跡長屋門は、江戸時代に建てられたもので、江戸から刃傷事件を知らせる早籠が到着した際叩いた門として知られています。清水門跡は大石内蔵助の別れの舞台となった門で、門外には赤穂市立歴史博物館が建てられています。
赤穂城の見どころ1 赤穂城の見どころ2 赤穂城の見どころ3
赤穂城の見どころ②本丸御殿と庭園
赤穂城本丸にあった本丸御殿跡では、内部の様子が間取り図をもとに地面に書く形で復元されています。在りし日を想像しながら散策しましょう。
復元された本丸庭園は、東西38m、南北26mにも及ぶ大規模な池泉回遊式庭園で、発掘調査によって当時の配置が確認され、その結果をもとに復元されています。
赤穂城の見どころ4 赤穂城の見どころ5 赤穂城の見どころ6
赤穂城の見どころ③石垣や枡形
赤穂城は甲州流軍学を用いた特殊な縄張りが特徴的な城です。城内の石垣は曲線を描く部分が随所に残っており、なかでも、二之丸水手門脇の石垣はほぼ90度曲がっています。これは水手門に船を着岸しやすいようにするとともに、海上からの敵に放射状に攻撃できるようにする工夫でした。
また、本丸西側や三の丸石垣に代表される屏風折の石垣や、三の丸の枡形石垣に見られる雁木板、約9mの高さを誇る天守台の石垣など、城の随所に見どころが点在しています。
また、本丸門は高麗門と櫓門の2つの門で長方形の枡形を形成しています。櫓門は展示室となっており、特定日に一般公開されています。このほか、三之丸の大手門や搦手となる塩屋門にも枡形が設けられていました。
赤穂城の見どころ7 赤穂城の見どころ8 赤穂城の見どころ9
赤穂城のおすすめフォトスポット
赤穂城の代表的な写真といえば、三の丸大手門周辺で隅櫓、高麗門、お濠と橋を収めたもの。また、本丸門の特徴的な虎口もおすすめです。『忠臣蔵』ファンは石像がずらりと並ぶ赤穂大石神社は欠かせません。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。