赤穂藩騒動がたびたび起こった

赤穂藩

森家の家紋「鶴の丸」

記事カテゴリ
藩史
藩名
赤穂藩(1615年〜1871年)
所属
兵庫県
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赤穂城

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赤穂藩は、現在の兵庫県赤穂市、相生市、上郡町に当たる播磨国赤穂郡を治めていた藩です。赤穂藩といえば、ドラマや映画でおなじみの「忠臣蔵」の舞台となった藩ですが、それ以外でも赤穂藩は藩主や重臣による騒動がいくつも起こっています。
そんな赤穂藩の歴史を紐解いていきましょう。

第一の騒動 正保赤穂事件

生保赤穂事件とは、赤穂藩2代目藩主池田輝興が起した事件です。
赤穂の地は、豊臣秀吉が天下人であった時代は宇喜多家の所領でした。しかし、宇喜多秀家が関ヶ原の戦いで西軍に味方したために流罪となり、赤穂の地は東軍に味方して軍功をあげた池田輝政に与えられました。池田輝政は、姫路城を作った人物としても知られています。

池田家の所領は膨大で、姫路藩のほか、岡山藩、赤穂藩も池田輝政の子どもが藩主を務めました。赤穂藩は池田輝政の五男池田政綱が初代藩主ですが、これは兄の死によって岡山藩を分割してもらう形で成立したものです。池田政綱は城下町を調えるなど国作りに尽力しますが27歳の若さで病死します。その後、赤穂藩は一度改易されましたが、弟の池田輝興が城主になることが赦されます。これは、池田輝興の母が徳川家康の娘であったことが関係しているといってもいいでしょう。

池田輝興は、今も残る上水道を作るなど善政をしきますが、正保2年(1645年)に突如として発狂し、正室(妻)をはじめ次女数人を斬り殺しました。
これにより池田輝興は、罪人として岡山で37年の一生を終えて池田家の治世は終わりを告げました。

今まで何の問題なく藩を治めていた池田輝興が前触れもなく発狂したことは、かなり不自然です。その少し前に兄の池田輝澄も家臣同士の争い(池田騒動)を理由に改易されていることから、幕府の陰謀説もあります。しかし、真相は闇の中のまま今でも明らかになっていません。

第二の騒動 赤穂事件

池田家が城主の座を降りた後、赤穂の地を任されたのが浅野家です。浅野家は豊臣秀吉の重臣、浅野長政の三男を祖とする家で、初代藩主浅野長直は常陸国笠間藩からの移封で赤穂藩を任されました。浅野長直は、現在一部が復元されている赤穂城を築城した人物です。また、藩の産業として塩田もはじめています。彼とその息子である浅野長友は無難に藩を治めましたが、3代目藩主浅野長矩が今も「忠臣蔵」で知られる赤穂事件を起しました。

なお、赤穂事件に先駆けて浅野長矩の叔父に当たる内藤忠勝が江戸の増上寺にて、永井尚長に斬りかかるという事件を起しています。これにより、内藤忠勝は切腹、浅野長矩も謹慎しています。

赤穂事件の始まりは、元禄14年(1701年)幕府において高家(儀式や典礼を司る役職)に就いていた吉良義央を浅野長矩が江戸城本丸大廊で切りつけたことに始まります。
この事件は、いわゆる「松の廊下」として有名で、この事件を素にしたフィクション「忠臣蔵」では見せ場の1つにもなっています。

なぜ、一国の大名が幕府の高官に公の場である江戸城で斬りかかったのか、原因は未だにわかりません。
この2人は共に朝廷からの勅使をもてなす饗応役に命じられていました。映画やドラマでは、吉良義央が浅野長矩からの付け届けが少なかったことに腹を立て、冷たくあしらったり陰口をたたいたりしたため、浅野長矩の堪忍袋の緒が切れたことを原因としています。

しかし、近年は浅野長矩が斬りかかった際に使った武器が刺突に向いていた脇差しであったことや、吉良義央が領地では善政を敷いて領民に慕われていたことを理由に、浅野長矩が一時的に逆上したのではないか、という説も有力です。

実際、刃傷沙汰の後の取り調べで、吉良義央は「彼は乱心(一時的な心神喪失の状態)したのでは」と証言したと記録に残っています。その一方で、浅野長矩の取り調べの記録は公式に残っていません。それどころか、取り調べが行なわれたかどうかも定かではないのです。

そして、将軍綱吉は異例の速さで赤穂藩の取りつぶしと浅野長矩に切腹を命じます。これは、大切な朝廷の使者を迎える式典を危うく台無しにされてきた怒り説、今まで大名や旗本の刃傷沙汰を軽い罪で赦していたことが、今回の惨事を招いたことからの見せしめ説などがあります。

浅野長矩が切腹のうえ家の取り潰しという厳しい処罰が下されたのに対して、吉良義央が無罪放免だったため、筆頭家老の大石良雄をはじめ家臣団が抗議に向かいますが、幕府は取り上げませんでした。これが、後の討ち入りにつながります。

忠臣蔵のクライマックス、吉良邸への討ち入りが行なわれたのは、翌年の元禄15年(1702年)のことです。47人の浪人が吉良邸宅へ押し入り、吉良を討ち取りました。ドラマや映画の「忠臣蔵」はここで話しが終わりますが、史実では浪士たちは4つの大名家に身柄預かりとなり、首謀者の大石良雄は元禄17年に切腹となりました。

第三の騒動 文久赤穂事件

文久赤穂事件は、赤穂事件から約140年後に発生しました。赤穂事件後、赤穂藩は森家が藩主となり、代を重ねていきます。

この事件は、赤穂藩家老の森主税が暗殺された事件ですが、そもそもの発端は、佐幕派と尊皇派の争いでした。森主税は佐幕派、彼を暗殺した西川升吉は長州藩、薩摩藩の藩士とも交流がある尊皇攘夷派でした。また、西川升吉の村上真輔なども殺害されています。この事件により、森主税家や儒学者の村上家は断絶、暗殺者の西川升吉ら13人は刑死、または捕縛前に同士討ちで死亡して7人が死亡、6人が高野山にある藩祖の墓守になっています。

藩主の影が薄かった赤穂藩

赤穂藩は池田家・浅野家・森家などが治めましたが、元禄に赤穂事件を起した浅野長矩以外、藩主は皆今ひとつ影が薄い方ばかりです。藩政は苦しく、それが文久赤穂事件にもつながりましたが、明治維新間近ということで、藩主へのおとがめはありません。

また、赤穂事件場合、浅野長矩や吉良義央という名前より、浅野内匠頭、吉良上野介、大石内蔵助といった名前のほうが有名ですが、これは役職名です。

なお、忠臣蔵は現在も時代劇の中では人気が高く、2024年2月にも「身代わり忠臣蔵」という映画が公開されます。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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