毛利輝元中国地方のプリンス
毛利輝元
戦国時代、中国地方の安芸国(現在の広島県)から出て大勢力にまで成長した大名がいました、毛利元就です。その毛利元就の孫が毛利輝元でした。輝元は、東海、近畿地方で勃興した織田信長と対立、その後に台頭した豊臣秀吉に臣従しました。さらに関ヶ原の戦いでは反徳川方の西軍の大将として推されます。今回はそんな中国地方を中心に戦国時代を駆け抜けた毛利輝元について見ていきます。
中国地方の雄、毛利家
毛利輝元が生まれたのは毛利氏。毛利氏とはどんな家だったのでしょう。
毛利氏は鎌倉幕府の有力御家人、大江広元の四男、毛利季光を祖とします。季光が名乗った「毛利」の姓は、広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利(もり)荘から付けられました。
季光は戦いで敗死しますが、越後国と安芸国にあった所領を子供たちが受け継いだ事から、その子孫は越後毛利氏と安芸毛利氏に分かれて存続します。
越後毛利氏はその後、北条(きたじょう)氏や安田氏へと別れていき、戦国時代には有力な国人として北条高広などを輩出しました。
安芸毛利氏は、鎌倉時代の終わりには吉田郡山に移住します。室町時代に入ると安芸国の有力な国人領主として山名氏や大内氏に従いながら成長します。輝元の祖父である毛利元就が当主に就くと一代で周辺の国人衆を取り込みながら他勢力を排除していき勢力を広げていきました。
輝元の生い立ちから家督継承
天文22年(1553)1月、後に中国地方の雄となる毛利元就の嫡男、毛利隆元の長男(つまり元就の孫)として、安芸国で誕生します。幼名は幸鶴丸(こうつるまる)と名付けられました。
この輝元が生まれた当時、毛利家は周防国(現在の山口県)の大国、大内家に従っていました。ところが大内家は家臣の陶晴賢の反乱にあい事実上、滅亡します。輝元の生まれた翌々年の天文24年(1555)厳島の戦いが行われ、この戦いに勝利した毛利家は飛躍しました。
ところが輝元が10歳の頃、永禄6年(1563)に父である隆元が急死します。その為、祖父の元就が後見する形で輝元が毛利家の家督を継承しました。永禄8年(1565)には、吉田郡山城で元服、室町幕府13代将軍足利義輝から「輝」の偏諱を受けて、輝元と名乗るようになります。
この元服以降、祖父の元就や叔父(毛利元就の次男、三男)吉川晴元や小早川隆景の助けを得て、毛利家は統治体制を整えました。
中国地方の覇権安定へ
毛利輝元が元就の後見を得て家督を継いだ時、毛利家は山陰地方の尼子氏の残党と周防国の大内氏の残党と争っていました。
その一方で近畿では、織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を奉じて勢力を拡大している最中。近畿から東海地方を支配下に置く織田家と中国地方を支配下に置く毛利家とは、この時点では互いに干渉することを避けそれぞれの勢力拡大を容認していました。
そこで美作・備前国(現在の岡山県)にも手を伸ばし、輝元は中国地方から九州北部までの勢力拡大を図ります。
そんな中、元亀2年(1571)6月に輝元を後見していた祖父の元就が亡くなりました。ここから叔父の吉川元春、小早川隆景(毛利両川)に支えられながら輝元は毛利家の運営を担っていきます。
織田家との対立
天正元年(1573)、将軍足利義昭は擁立されていた織田信長と袂を分けます。信長は足利義昭を京から追放しました。ただ、この時点では毛利輝元も織田信長も同盟関係を維持しています、全面戦争を回避する為です。毛利家とは同盟関係を維持する一方で織田家は毛利家と対立していた山陽道の浦上家、山陰道の尼子家を支援し毛利家の牽制としました。
天正4年(1576)、将軍足利義昭は毛利家領である備後国(広島県東部)鞆(とも)に逃れてきました。輝元は義昭を鞆において庇護する一方で、毛利家と対立する浦上家、尼子家を支援していた織田信長と対峙する事を決めます。
毛利輝元は、北陸地方の上杉謙信、近畿の本願寺顕如と連絡を取り織田家の包囲網を築きました、第三次信長包囲網とも呼ばれる包囲体制です。包囲網を築いた輝元は支配下を東へ東へと拡大させていき、中国地方の他、讃岐国(現在の香川県)や豊前国(現在の福岡県)などの一部を支配下に置き毛利家最大の版図を領しました。ここから毛利家と織田家は播磨国(現在の兵庫県)や摂津国(現在の大阪府)を境に一進一退の攻防を行います。
ところがこの長期化した攻防は毛利家の体力を奪っていきました。包囲網を担っていた本願寺顕如も織田信長に事実上降伏に近い和睦を結び離脱していきます。
こうして毛利家が不利になりつつあるなか天正10年(1582)、織田信長は羽柴秀吉を派遣し毛利家の城であった備中高松城を挟んで毛利家と対峙しました。毛利と向き合った羽柴秀吉でしたが、独力では毛利家を退けられないと織田信長の出馬を要請します。ここで信長も自ら出陣し毛利家と雌雄を決する事に決めました。
豊臣(羽柴)秀吉へ臣従
天正10年(1582)5月末、織田信長は毛利家と雌雄を決すべく出陣します。京の本能寺で、配下の武将たちに進軍の指示を下しながら滞在しました。毛利輝元は危機的な状況に陥ります。ところが翌6月、織田家の家臣である明智光秀が京において信長を自害に追い込みました、本能寺の変です。
これをいち早く知ったのは備中高松城を囲み、毛利家と向かい合っていた羽柴秀吉です。秀吉は本能寺の変に関してはひた隠しにしながら停戦を輝元に打診し、輝元もこれを受け入れます。毛利家もその後に本能寺の変を知りましたが、停戦の約束を守り追撃をする事は控えました。羽柴秀吉は毛利家と停戦した事で主人織田信長を自害に追い込んだ明智光秀を討ち、その後の織田家内部の政治闘争を優位に進めます。
天正13年(1585)1月、輝元は秀吉と領地の配分を決め和睦しました。ここで毛利輝元は独立した大名から豊臣家の配下の大名へとなります。ただし中国地方の大部分を領有する輝元は豊臣政権の中でも有数の大大名として位置する事になります。こうして毛利輝元は、天正4年から続けてきた織田信長、豊臣秀吉との戦いを終結させました。
翌年の天正14年(1586)毛利家を支え続けてきた毛利両川の一人、叔父の吉川元春が亡くなります。輝元は残った叔父の小早川隆景の助けを得ながら、豊臣政権下で紀州、四国、九州に出兵し豊臣秀吉に貢献します。
天正17年(1589)それまで毛利家の居城であった吉田郡山から便利な広島へと移動すべく広島城の築城を開始しました。
文禄元年(1592)豊臣家は朝鮮出兵を始めます。西国の諸大名は出陣を命じられ毛利家も出兵しました。そして慶長2年(1597)、毛利両川の叔父、小早川隆景が亡くなります。翌年、豊臣秀吉もまたこの世を去りました。
関ヶ原の戦い
さて豊臣秀吉が亡くなる少し前の文禄4年(1595)、毛利輝元は秀吉から五大老に任じられました。五大老には関東を領地に持つ徳川家康などがおり、豊臣家を支える重要な立場へ任じられます。そして秀吉の亡くなった慶長4年(1599)、同じ五大老の前田利家が亡くなると徳川家康と豊臣家の奉行である石田三成とが対立するようになります。
輝元は石田三成に与し、これに加えて五大老の上杉景勝や宇喜多秀家なども石田方につき対立が激化しました。
慶長5年(1600年)5月、家康は米沢にいる上杉景勝へ詰問する為に上洛を促しましたが景勝はこれを拒否します。この拒否を秀頼に対する謀反の理由として、家康は上杉討伐の諸将を引き連れて会津へと出兵しました。
翌6月、輝元は石田三成などと協議し徳川家康に対する軍を決起します。この反徳川には多くの諸将が集まり、その諸将から推挙され毛利輝元が総大将に選ばれました。輝元は大坂城にあって西軍を指揮し、毛利家の軍勢を派遣したり諸将の軍勢を動かしたりするなどしましたが、最後まで輝元本人は大坂城から動くことはありませんでした。
同年9月、徳川家康と石田三成とが関ヶ原で激突し家康が勝ちました。反徳川派であった毛利輝元は、関ヶ原で軍勢が敗れると大坂城を退き大坂にある毛利家の屋敷へ退去します。
こうして毛利輝元は関ヶ原の戦いの首謀者である石田三成とは別に、総大将であったという責任を負うことになりました。
輝元の最期
この関ヶ原の戦いを経て毛利輝元は、徳川家に刃向かい関ヶ原の戦いに敗れた総大将、という難しい立場に追い込まれます。
慶長5年(1600)10月、毛利氏の所領は中国地方から周防・長門(現在の山口県)へ減じられます。また輝元は責任を認め形だけは出家して家督を嫡男の秀就に譲りました。ここから毛利家は輝元と秀就の二頭体制を敷きました。慶長8年(1603)には居城の場所を萩と定め城づくりを始めます。
大坂の陣が始まると輝元も毛利家の大将として大坂へ出陣しようとしましたが、病にかかり子の秀就が毛利家の大将として出陣します。この間、或いはこの大坂の陣以降もですが輝元には悩みの種を抱えていました。
輝元の下で実務を担当する輝元子飼いの家臣、毛利家に古くから仕える家臣、毛利家の親族、
後になって毛利家を支えるようになった家臣、といった毛利家を支える内部の対立です。この問題に輝元は融和を図る一方で、追討や自害に追い込み家臣の統制に腐心しました。
こうして江戸幕府に疑念を抱かれかねないよう対処する一方で、家臣の統制に苦慮した輝元は元和9年(1623)江戸から一時帰郷した秀就に対して正式に家督を譲り、その2年後の寛永2年(1625)4月に亡くなりました、享年73。
戦国時代から関ヶ原を経て江戸時代まで、中国地方を舞台に戦った毛利輝元の人生はこうして幕を閉じました。遺骸は萩にある天樹院で葬られ、墓所は現在もそこ(旧天樹院)にあります。
広島城
毛利家は、安芸国のうち山陽道と山陰道とを結ぶ吉田郡山に堅固な山城を持っていました。ところが豊臣秀吉が天下を掌握し戦いが無くなると、城の役割も、堅固さから政治や商業の中心地となるシンボルへと変わります。
そこで毛利輝元は海上交易路である瀬戸内の水運に近く、城下町を広げられる海沿いに拠点を移す事を考えます。更に天正16年(1588)輝元は、大坂城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われています。天正17年(1589)領内に城を築く土地を調査した結果、「最も広い島地」である五箇村に築城することに決め築城を開始します。慶長4年(1599)には築城が完了し、この頃より広島と呼ばれるようになりました。
ところが関ヶ原の戦いで毛利家は責任を負い、領地を削られます。安芸国は福島正則が統治するようになり、広島城も正則により改築されます。現在の広島城を中心とした大規模な街の原型はこの当時にできたと言われますが、この大規模な改築の届け出が幕府になかったので家康は激怒したそうです。
更に元和5年(1619)福島正則は洪水による改築を行いましたが、これも無届であった為に正則は領地を取り上げられてしまいました。この福島正則の後に入ったのが浅野家です。浅野家は広島城に入ると以降、明治まで統治を続けました。
広島城は別名を「鯉城(りじょう)」と呼ばれ、その昔この地を「鯉」と呼ばれたからとも、堀に鯉がたくさんいたから、城が黒かったからそう呼ばれたと伝わっています。
現在でも鯉城通りや鯉城会館など鯉城にちなんだ名前が多く、プロ野球広島東洋カープのカープ(鯉)もここから来たそうです。
萩城
関ヶ原の戦いで敗れた西軍の総大将毛利輝元は周防国、長門国の2ヶ国に領地を減らされました。そこで広島城から新たな拠点として築城した城が萩城です。慶長9年(1604)に築城を始め、安芸国から移って来た毛利輝元はこの時から入城し慶長13年(1608)に築城は完了します。
萩城は、指月山の山城と山麓にある平城からなり、平城にあった本殿は藩主居城と政庁を兼ね、幕末まで統治の拠点となります。ところが幕末も終わりの文久3年(1863)、幕府に届け出無しで毛利家は藩の拠点を萩から山口に移します。こうして萩城は藩の拠点としての役目を終えました。
更に明治時代に入ると明治7年(1874)、萩城は廃城令により石垣や堀を残して破却されました。そして現在、城跡は指月公園として整備され市民の憩いの場所として活用されています。
毛利輝元 上月公園の銅像
さて、毛利輝元はどのような人だったのでしょうか。
毛利家は輝元の祖父である毛利元就や父の毛利隆元がそうであったように国人領主的な立ち位置が続きました。ところが輝元は室町幕府将軍足利義輝から偏諱を賜ったので最初から国を治める大名として元服し、統治を行います。
その輝元に関する人物評として、朝鮮の役で捕虜となった姜沆は『看羊録』において輝元を、「つつしみ深く、ゆったりと大らかで、わが国(朝鮮)人の性質によく似ている」と記しており懐の深い人物であったようです。また、同じく姜沆は広島の繁栄ぶりを見て、「物力に優れ、富んでいるのは、京に例えられる」と『看羊録』に記すなど統治能力の高い大名として映ったようです。
このような輝元の容姿はどういったものだったのでしょうか。輝元の像は萩城跡指月公園の二の丸南門跡の所に銅像として建てられ、ありし日の厳格な姿を残しています。
萩時代祭り
山口県萩市は、毛利輝元が安芸国より移って以来約250年間の間、毛利家の藩庁として拠点の置かれた場所でした。その在りし日の姿を現すお祭りが、毎年11月に行われる「萩時代まつり」です。
総勢200名の奴姿や袴に裃姿の者が御駕籠に従う行列が城下町を練り歩きます。
また午後からは中央公園から金谷天満宮を目指して、毛利歴代の藩主や幕末に活躍した高杉晋作の率いる奇兵隊、萩大名行列などが練り歩く「萩時代パレード」が繰り広げられ、山口県の歴史を彩ります。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。