長州藩(1/2)明治政府の立役者

毛利家の家紋「一文字に三ツ星」

記事カテゴリ
藩史
藩名
長州藩(1600年〜1871年)
所属
山口県
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長州藩は豊臣家五大老の1人である毛利輝元の息子、毛利秀就から始まり、明治維新まで毛利家によって納められた藩です。
討幕運動の中心地となり、吉田松陰、高杉晋作といった尊皇攘夷思想の木戸孝允、大村益次郎、伊藤博文、井上馨、山縣有朋、といった明治維新の立役者たちを生み出しました。
そんな長身藩の歴史を紐解いていきましょう。

長州藩の成り立ち

長州藩は、西軍の総大将であった毛利輝元を減封し、防長二国に領地を限定したことによって成立した藩です。
毛利氏は、鎌倉幕府の重臣であった大江広元の四男・毛利季光を祖とする一族です。

毛利氏の第12代目投手、毛利元就が一代で毛利家を一国人から戦国大名へ押し上げ、その孫毛利輝元の代になると山陰・山陽・さらに九州の一部まで領地に持つ全国でもトップクラスの大名に成長しました。
毛利輝元自身は豊臣秀吉に仕え、五大老の1人に任ぜられます。

そして、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に任じられ、徳川家康にその責任を追及されました。
毛利輝元は持っていた領地のほとんどを召し上げられ、強制的に隠居させられます。
跡を継いだのは、嫡男の毛利秀就です。

こうして、長州藩が成立し、初代藩主に毛利秀就が就任しましたが、まだ幼年だったため実質的な藩の実験は毛利輝元が握っていました。

毛利輝元は慶長9年(1604年)に初代藩主の毛利秀就とともに建築中の萩城に入ります。
なお、慶長15年(1610年)、改めて領地の検知が行われ、幕府に53万9268石余と申告しましたが、幕府側は検知中に一揆が発生したこと、隣国の広島藩の藩主が福島正則が東軍で功績を挙げた武将であり、そこと釣り合いが取れないということから、申告石高の7割、36万9千石を表石高として公認し、それは幕末まで変わりませんでした。

幕末までの長州藩

初代藩主である毛利秀就は、父の養子であり自分の後見人でもある毛利秀元と深刻な対立があり、幕府が仲介に入るほどでした。

その跡を継いだ毛利秀就の四男、毛利綱広は反骨精神が強く、徳川家に仕えることを恥として江戸にいながら江戸城に登城しないことさえありました。

二代目藩主として、毛利綱広は萩と周防国三田尻を結ぶ萩往還を造ったり、万治制法と呼ばれる法令「33か条の条目」を定めたりするなど有能な働きを見せています。

しかし、徳川家に反抗的な態度を恐れた家臣達の説得により、天和2年(1682年)に43歳で隠居しました。
その後、毛利家は20代~30代で亡くなる短命藩主の時代が続きます。

藩主の中には治水工事を行ったり幕府から不振を受けたりする者もおり、そのせいで長州藩の財政はだんだんと悪化していきました。

7代目藩主、毛利重就は藩の財政悪化を改善しようと経費の削減・新田開発・荒廃田の復旧・築港による流通整備などの藩政改革に乗り出します。

その甲斐あって、長州藩は回船の寄港地として発展し、藩物品の販売・回船業者への資金貸し付け・倉庫貸出などで収入を増やします。
さらに、検知によって4万石分の収入を得ることに成功しました。
その一方で、厳しい年貢の取り立てによって一揆も多発し、長州藩はその対応になやまされることになります。

10代目藩主、毛利斉熙は海防の強化や西洋軍備による軍備増強を行いますが、その跡を継いだ11代目藩主、毛利斉元の時代、天保7年(1836年)に長州藩を「申歳の大水」を呼ばれる大規模な水害が襲います。城下の3分の2が水没、死者200名以上という大惨事で、その対処に追われているなか、毛利斉元自身も死去してしまいます。
このようななか、13代目藩主になったのが、毛利敬親です。(12代目は跡を継いだ僅か20日後に23歳で死去)

幕末の長州藩

毛利敬親は、毛利斉元の長男として生まれましたが、両方とも毛利家の出では無く、世襲家老家一門八家の一つである福原家の出です。

申歳の大水からの回復策として、質素倹約と貨幣流通の改正を行いました。

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執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。